第6話 第6章
理沙の体調が日増しによくなってくることは、表情を見ていれば分かった。最初は無表情である上に、顔色が悪かったことも重なって、何を考えているのかさっぱり分からなかった。
――何も考えられないんでしょうね――
としか思えないほど、いつどこで会っても、同じ表情をしていた。
しかし、弥生は、理沙のことを気にする前に、自分の足元が気になってきたのだ。それは、穂香と三枝のことだった。
気になっていると言っても、それぞれの人間を気にしているのであって。二人の間に共通の何かが生まれているなど、心配事として意識はしていなかった。
穂香については、それほど知っているわけではない。ただ、理沙を見ていると、なぜか穂香のことが頭に浮かんでくるから不思議だった。
穂香と理沙は、どう考えても結びつくところが見つからない。それぞれに平行線を描いていて、
――住む世界の違う二人――
というイメージが強かった。
では、穂香と理沙のどちらが、弥生により近いのだろう?
穂香のことは、ママから聞かされているが、ママの性格を考えると、ママの話のほとんどをまともに信じてはいけないことを弥生は分かっていた。
ママは信頼のおける人の話をくどくど話す人ではない。それを
「まだ彼女は少し頼りないところがある」
と話していたり、
「最近はしっかりしてきたわよ」
と、矛盾した言い方をすることもあった。話をする時は、理路整然とした雰囲気を醸し出しているママにすれば、あまり考えられないことだ。
ということは、ママにも穂香の性格で計り知れないところがあるということなのか、それとも、どう話をしていいのか戸惑うほど、ママの想定外の考え方や行動を取る女の子なのかということになるだろう。
穂香の話をする時に、三枝の話が出てこないのもおかしなことだった。三枝に穂香のことを頼んでいるということは、ママから聞いた話ではないか。そういう意味でも、三枝の話が出てこないのは、ママにすれば中途半端であった。
――話をするわけにはいかないのかな?
と、弥生が感じていることを臭わせているようで、それがママのわざとの行動や言動なのか、弥生には計り知れるものではなかった。
弥生は、最近日課になり始めていた消灯時間を迎えた後の、ラウンジで一人佇む時間が、最近は何も考えない時間として位置付けているように心掛けていた。
表を見ていると、目に飛び込んでくるのは闇だけだったものが、次第に点々とはしているが街の明かりとして感じられるようになったことが自分なりに嬉しかった。
一人孤独に死んでいこうと思った弥生が、暗闇を見つめているのは、また自殺を思い起こさせるのではないかと思われがちだが、一度失敗した自殺を繰り返すほど、弥生には度胸はなかった。
「そう何度も死ぬ勇気なんて持てない」
と口で言っていることは本心からのことであり、死ぬことが勇気のいることであるのを、今さらながらに思い知っていたのだった。
ラウンジで暗闇を見ていると、先に見えるものはなく、果てしなく広がる闇が本当は恐ろしいはずなのに、今の弥生には恐ろしさとして感じない。そのことが生きている証のように思えて来て、一日に一度、ここから暗闇を見ることが日課になったのは、
――今日も生きることができた――
と思うことで一日の区切りを付けたいからだった。
――区切りのある生活が、自分の生きる世界を探す第一歩なんだわ――
と、弥生は自分なりに考えていた。死ぬことばかりしか考えていなかった時期が、目の前に広がっている闇のように果てしなく感じられたのが、今は嘘のようである。まだ生きていくことに自信を持つことはできないが、闇の中に何かを見出すことができれば、アリの巣ほどの穴から、掘り出すことのできるものは、すべてこれからの自分が生きる糧になるのではないかと弥生なりに考えていた。ラウンジでの日課が欠かせないことを看護師さんには話をしていないが、彼女も理由が分からないまでも、弥生の顔を見ているうちに、杓子定規になって、
「消灯時間ですよ」
と注意をすることはしなかったのだ。
看護師公認での夜のひと時、一人での時間が、弥生にとって長いものなのかあっという間のものなのか、弥生本人も、ハッキリと自覚できるものではなかった。曖昧な意識なだけに弥生にとって神秘的で、自分を見つける材料としては格好の場所と時間ではないかと思えてならないのだった。
入院も二週間を過ぎた頃のことであった。入院の予定をあと一週間を残したくらいになると、先が見えてくる。今までの時間を思い返す長さと、これから退院までの時間が、昨日くらいまでは半々だったが、今日になると一気に気持ちが変わってきて、退院間近の感覚になってきたのだ。
ラウンジで過ごす時間もあとわずかだと思うようになると、急に退院するのが寂しくなってきた。
ただの寂しさだけではなく、元いた世界に戻るのが、少し怖い気がする。いわゆるカルチャーショックなのだろうが、結局記憶の欠落に対して確固たる成果が見られたわけではない。
「記憶が戻らなくても、後は気長に戻るのを待てばいい」
と先生には言われたが、曖昧な状態で戻る世界に不安を感じるのは、仕方がないことかも知れない。
それよりも記憶がいきなり戻る方が怖い気がした。
その一番の理由は、
「失った記憶が戻ったかわりに、ここ最近の忘れたくない記憶が飛んでしまいそうで、それが怖いんです」
と先生に話してみたが、
「考えすぎでしょう」
というだけで、詳しくそれ以上話をしてくれなかった。このあたりの精神的な葛藤は、精神科医であっても、本人のプライベートな感情として、深入りできないところであることを分かっているようだった。
その日になって、やっと暗闇の向こうに少しずつではあるが、明かりが見えてきた。それはそこに暮らしている人がいるということを感じることができるものであり、暮らしている人の暖かさが伝わってくるものだ。
――人の存在を感じることで暖かさを味わうという思いを、ずっと忘れていたような気がする――
その時に忘れていたという感情を思い出したのだ。
忘れていたのは、出来事だけではなく、感覚も忘れていたのだということを思い出させてくれた瞬間が、その時だった。
明かりが一つ、また一つ感じられるようになっていた。その日は五つまでは分かったが、それ以上は分からない。明日になれば、これが十個になっているかも知れないと感じたが、もう一つの危惧もあった。
――昨日見た光を、今日も見ることができるのだろうか?
という思いである。
遠近感も測れない暗闇の中で、見つけた光が昨日と同じ位置だったとハッキリ言えるだろうか。一つを見つけても、昨日見つけたはずのことを、忘れていってしまっているのであれば、記憶が戻ったと言えないのではないかと思うのだ。
こんな理屈っぽい考えは、記憶を失う前までにはなかったことだ。どうしてこんな感覚になってしまったのか、自分でも分からない。医者に話しても、果たして納得の行く答えが得られるかどうか分からない。しばらくこの思いは自分の中に閉まっておくことにしようと思う弥生だった。
――だが、この思いも忘れていくのかも知れない――
記憶の欠落部分に、肝心なことが含まれているのではないかという思いが最近は大いにある。暗闇を意識するようになったからなのかも知れない。
弥生にとって、ここ最近で忘れてしまいたい記憶が存在したわけではないが、記憶が戻ってきているのは、忘れたくない記憶を作るための伏線のようなものではないかという思いが生まれてきた。今はなくとも、近い将来、入院中に見えてくるものであるように思えてならなかった。
その日は、最初から予感めいたものがあった。今まで話をしてみたいと思っていた人と話ができるかも知れないと感じたのは、当たらずとも遠からじであった。その相手が理沙であり、理沙の方から話しかけてくれるなど、想像もしていなかった。
「夜の闇を見ていると、私は目を瞑ってみたくなるんですよ」
弥生がハッとして、その声のする方を振り向いてみると、そこに立っていたのは果たして想像していた人であったことで、思わず胸の動悸が激しくなったことで、脈を打っているかのように指先の痺れを感じたのだった。
後ろに非常灯が点いているだけで、真っ暗な部屋の入り口に立っているのが理沙であることは、シルエットと先ほどの声で分かった。いや、理沙の声を聞くのは初めてだったはずなのだが、今までに垣間見た顔から想像した声とそっくりだったことで、理沙以外の何者でもないことに気が付いていたのだ。
理沙の表情をすぐに垣間見ることができなかったが、理沙の口調は、この部屋に誰もいないと思い、発した声なのではないだろうか。固唾を飲んでというよりも、あまりのビックリに声を出すことができない弥生だったが、緊迫した感情は、十分に相手に自分の存在を分からせるだけの効果はあるはずである。
少し、その場所から動くことなく佇んでいた理沙だったが、歩き始めたかと思うと、窓のそばまで歩み出て、視線は表の暗闇を捉えている。その横顔は、真正面しか見えていない視線に、自分の存在を消すまでもなく、理沙のオーラに完全に支配された一体で、自分の身体から魂だけが抜け出して、違う世界から見つめているかのような感情になった弥生に対し、何ら感情を示すことなどないように思えたのだった。
弥生はそれでも理沙の横顔を拝み続ける。胸の動悸が収まった後でも目線が釘付けになった自分が、まるで金縛りに遭ったかのようになってしまったことを意識せざるおえなくなってしまったのだ。
理沙の視線の先にあるもの、それが何なのか、弥生は探りを入れてみた。それでも理沙は弥生に気付かない。
――理沙は必死に自分の過去を模索しようとしているのかな?
前だけを見て、まわりを見てない様子は、模索を感じさせるが、そのわりに、切羽詰った印象はない。どちらかというと、虚空を見つめている様子で、必死さはまったく伝わってこない。
――これが理沙という女性の性格なのかしら?
とも思えたが、理沙が入ってくる前の一人の時の自分も、他の人から見れば同じような感覚なのかも知れない。
まさか、いつも一人だと思っているところに誰か他の人が佇んでいるということはないだろうが、それだとまるで夢遊病のようではないか。
弥生は、以前夢遊病の人のことを聞いたことがあるが、夢遊病というのは、自分が普段気にしているところに行くものだという。
前を本当に見ているのかどうなのか、後から本人に聞いても、まったく覚えていないというのだから、前が見えていたかどうかも怪しいものである。だが前を見えないまま進めばどこかにぶつかったりするはずだし、目はカッと見開いているのだから、彷徨っている間は、本当に意識があるのだろう。
だが、それが普段表に出ている自分とは違う自分であることはハッキリしている。自分の中に「もう一人の自分」がいるという証明が、夢遊病という形で出てくるものなのではないかと、弥生は感じるのだった。
この思いは最近になって思い始めたものではない。以前から感じていたことで、夢遊病に自分もそのうちになるのではないかと思っていた。それよりも先に夢遊病になった人を見ることになるとは思わなかったが、ただ、それも誰にも気付かれないだけで、本当は夜彷徨っていたのかも知れない。
夢遊病の人は、夜彷徨っても、戻ってきて、寝付いた時そのままの状態に戻っている。もう一人の自分は、元の通りにしておかないと、自分が裏に下がることができず、いつも表に出ている自分を逆に封印してしまうことを知っているのだ。普段裏にしかいない自分が表に出ることなどできるはずもなく、結局は元の通りに戻ってきて、表に出ている自分に夢遊病を悟られないようにしないといけない。人に見られたのであれば仕方がないが、自分からボロを出すようなことは決してしてはいけないのだと感じているに違いない。
「夜の闇に何か思い入れのようなものがあるんですか?」
弥生はやっと我に返って訊ねてみた。弥生を見ていていろいろと思いを巡らせていたくせに出てきた言葉はこんな言葉しかないのだ。
「思い入れというほどのことはないんですけど、目を瞑ると、いろいろなことを思い出すんですよ」
「それでは、あなたは思い出したいことがそんなにたくさんあるということなんですか?」
「ええ、そのはずなんですけど、それが思い出せないから、また目を瞑ってしまう。瞑った目の先に何が見えるのか、それが本当に思い出したいと思っていることなのかが分からないから、怖い気がする。だから、思い出そうとしても、思い出したくない自分がいることをその時初めて意識する。そんな自分の存在を初めて感じたことが怖いと思っているのかも知れませんね」
理沙の話は、一度聞いただけでは分からない。だが、なぜか意識が反応するのか、心の中で頷いている自分を感じる。それは弥生自身も、記憶の欠落を感じているからなのかも知れない。
だが、理沙の話は頷けても、自分の記憶の欠落が、理沙と同じようなものだという意識はない。記憶の欠落にもいろいろ種類があるように思う。
一般的に言われるのが、思い出したくないような恐ろしいことを目の当たりにして、意識が思い出したくないという思いにさせてしまったこと。ショッキングであればあるほど、自分の殻に閉じ籠ってしまう意識が、記憶を欠落させたように思うのだ。
ただ、記憶の欠落と記憶の喪失では同じものなのだろうか?
記憶喪失というのはよく聞くが、記憶欠落とは耳にしたことがない。しかし、実際に記憶喪失とはどのように違うのか、弥生はいつも考えている。
弥生が考えた記憶の欠落は、一つの繋がっている出来事の中に、大きな穴が開いていて、始まりと終わりは存在するのに、途中が消えていることである。
記憶喪失は、一つの出来事のような一つの単位ではなく、一人の人間の記憶が過去から現在に至るまで、重要な部分が消えてしまっていることだ。そのために、ひどい人は、自分が誰であるか、何をしてきた人間なのかという記憶まで失っている。
理沙の方は、記憶の欠落ではなく、記憶喪失に近い方であろう。明らかにショッキングなことを目の前にして、そのせいで、記憶を失ってしまった。自分が誰であるかということは分かっているようだが、話をしてみないと分からないこともあるだろう。馴染みの看護師さんの話では、
「理沙さんという人は、重い記憶喪失ではないみたいなんだけど、普通と違うところがあるのよね」
という話だった。
どういうことなのか、ハッキリとは聞かなかったが、聞いてもそれ以上話をしてくれる様子でもなかった。
「直接、聞いてみようかしら」
と、半分冗談、半分本気で話したが、
「それがいいかも知れませんね」
と、看護師が答えた。彼女も、半分冗談、半分本気で答えてくれたのかも知れない。
弥生は、看護師との会話で、
――半分冗談、半分本気――
という意識を強く持っている。
「私は、学生時代から、まわりと一緒だというのを嫌う性格だったんですよ。捻くれているだとか、天邪鬼だとか結構言われましたけど、それも慣れてくると、嫌ではなくなりました。却ってそう言ってもらえる方が気が楽になったくらいですね」
彼女はいつも半分顎を上げるような雰囲気で、どこまでが本気なのかと思わせるような口調が多かった。知らない人が見れば、バカにしているように見えるかも知れないが、弥生には、逆に親近感として写った。その表情に笑顔が感じられたからだ。
元々ポーカーフェイスなのか、あまり表情を変えない彼女が笑顔を見せるのは、顎を少し上げて、斜め上から見つめる時だった。
――言葉で書くと一つの表現でも、示す人によって、まわりから見た時、まったく違ったイメージで見えるのかも知れないわ――
彼女のことを決してよくは思っていない人も多いだろう。
「私を舐めてるのかしら?」
と、相手に思わせてしまうところがありそうだからだ。
だが、本当はそんなことはない。これが彼女なりの考え方なのだ。
――顎を引いてしまうと、下から睨みつけているように見えるからだわ――
確かに彼女が顎を引いて真面目な顔で話しかけてくる顔を想像すると、あまりいい印象はない。きっと、そんな相手に気を許そうなどとしないだろう。今の看護師さん相手であれば、信頼感を感じることができる。不安に思っている入院生活も彼女がいれば安心できる。
――彼女は、損な性格なのかも知れないわ――
とも感じたが、
――いや、待てよ?
もう一つ違う考えが頭を過ぎった。
――彼女のことを分かってあげられる人は、本当に心の広い人なんだわ。そういう意味では、しっかりした人ばかりが寄ってくることで、友達を取捨選択する必要もないんだわ――
とも思えた。
もちろん、その中には弥生自身も含まれていた。そして、もう一人理解者がいるとすれば、理沙ではないかと思っていた。本当に気持ちが分かる相手であることを悟るのは、自分が本当に話してほしいことを口に出して言ってくれる人だと弥生は思っている。アイコンタクトで理解できる人もいるだろうが、本当にそんな人は稀であるに違いない。
理沙と話をしていて、看護師のことを思い出したのは、彼女が理沙に雰囲気が似ていたからだ。
看護師が自分の話を少ししてくれたことがあった。
「私も看護学校にいる頃、実は医学生の人と恋愛したことがあったんですよ」
「へぇ、そうなんですか?」
別に彼女が恋愛経験のない女性だとは思っていなかったが、自分から人に話すような恋愛をしたことがあるとは思わなかった。人に話したくなることは、話したくないことと紙一重ではないかと弥生は思っていた。だから、もし彼女に恋愛経験があるとしても、それは話したいことでも、話したくないことでもどちらでもない平凡なものでしかないと思っていたのだ。そういう意味で、
――この人は、恋愛をイメージできる人じゃないんだわ――
と思ったのだ。
きっと本人の中で、どうでもいい恋愛しかしたことがないという思いがあり、恋愛話には自分から積極的に参加するタイプでもないと思っていたのだ。
そんな彼女が、
――医学生と恋愛だなんてまるで絵に描いたようなお話。それも自分から話そうという気持ちになったのだから、きっと忘れられない何かがあるに違いないわ――
と思っていた。
しかし、それが何であるか想像もつかない。そこまではきっと話をしてくれないに違いない。自分でもどう話をしていいのか分からないと思っているのかも知れないが、そんな話を弥生にしてくれようとしたことが嬉しかったのだ。
想像通り、細かい話はしてくれなかった。しかし、彼女がその人のことを好きになったタイミングと相手の男性が好きだったタイミングが違っていることで、別れに至ったということは分かってきた。
――彼女にとって、悔いが残ったに違いないわ――
弥生に話をしてみようと思ったのは、弥生の記憶の欠落と、自分の残った悔いとの間に、何か共通性を見出したからなのかも知れない。
――人との間に共通性さえ見出せれば、そこからいくらでもその人に心を開くことができるのかも知れないわね――
と、感じたが、この思いの逆がひょっとして、記憶の欠落なのかも知れないと感じた。記憶の欠落は、思い出したくないことだけだと思っていたが、決してそうではないのかも知れない。
思い出したいことと、思い出したくないことが紙一重だという思いがある弥生には、思い出したと思っていることも記憶を欠落させるものなのかも知れないと思うのだった。
それは夢と同じではないか。
夢だって、目が覚めるにしたがって、忘れていくものだが、
――忘れたくない――
と思いながら、忘れていることが多い。それは、夢だから仕方がないと思っていたが、果たしてそうなのだろうか?
理沙が看護師のイメージだと分かってくると、今までまったく話をしたことがないはずの理沙と、前から知り合いだったのではないかという思いが頭を擡げてきた。もちろん錯覚であることに違いはないのだが、ただの錯覚として片づけられるものであろうか? 不思議な感覚だった。
理沙が、窓際で表を見ている姿を後ろから椅子に座って見ている弥生は、自分が理沙を理解しようなどということはおこがましいのではないかと思えてきた。逆に理沙から理解されようと思うのも、何か違うと思っている。
お互いに共通性という意味ではたくさんあるような気がする。だからといって、露骨に相手の気持ちに踏み込むことは、土足で上がりこむようなものであり、
――親しき仲にも礼儀あり――
という言葉が、この場では当て嵌まりそうな気がするのだ。
特に二人とも、記憶がない部分があるという意味での共通性は、デリケートなもののはずだ。自分と同じだと思うことは危険であり、同じように見えて、本当は一番遠い原因によって生まれた共通性なのかも知れない。
そのことを分かっていないと、理沙の気持ちはおろか、自分が信じられなくなってしまうのではないかと思う。
自分の記憶が欠落しているうえに、自分が信じられないということになると、目も当てられなくなってしまうのではないだろうか。自分が信じられないと、自分のことを思っていろいろ助言してくれる人の言葉が薄っぺらいものになってしまう。煩わしく感じてしまうと、きっと、相手に辛く当たるようになるのではないだろうか。そうなると、最悪で、もっと自分を信用できなくなってしまう。
――そんな思いを以前に感じたことがあったはずだ――
そう思って思い出そうとすると、今度は容易に思い出すことができた。
――そうだ、躁鬱症の鬱状態だわ――
何をするのも嫌になり、それまで楽しく話をしていた相手が話をする内容がわざとらしく感じられ、それ以上の会話が困難になり、何が辛いといって、相手に対して嫌われるような態度をわざと取ろうとしている自分を感じることだった。
鬱状態の時は、見えている色が普段と違って、すべてが黄色っぽく見えてしまう。鬱状態への入り口は、見え方だけでも分かるが、人を信じられなくなる時は、何も自分の中に変化や異常は感じられない。
理沙が弥生に対して心を開いたという感じではない。たまたまラウンジの前を通りかかったら、そこに弥生がいたというだけなのかも知れない。
いや、もしかすると、理沙も弥生の知らない時間帯に、ここの住人だったのかも知れない。今まで会うことはなかっただけで、そう思うと、弥生がここに来るのを理沙が知っていたのかどうかが、気になるところだった。
今までは、そこに弥生がいたから理沙は来なかっただけなのかも知れないと思うと、
――今日はどうして来たのだろう?
という疑問が浮かんできた。
もし、逆の立場ならどうだろう?
弥生がいつもここに来ていて、理沙がいるから、なかなか入ることができなかった。しかしある日、急に入る気になって入ってしまった。では、
――どうして入る気になったんだろう?
それは理沙が何を考えているか知りたかったからなのか、普段の自分の姿を見せて、それで理沙がどのように感じるかというのを知りたいと思うからだろうか。
だとすると、理沙はいつもここに来ると、椅子に座ることなく、表をじっと見ていることになる。闇の中に見える点々とした明かりが気になるのは弥生も同じだが、それは弥生の気持ちと同じものなのだろうか。
弥生にとっては、表の明かりに対してのイメージは、さほどハッキリとした意識があるわけではない。見つめていると何かを思い出すかも知れないという漠然とした意識があるだけで、見つめる時間が長くなれば長くなるほど、意識は惰性を伴ってくる。自分が表を見ているという意識はあるが、見えているものに対して何を考えているのか、ハッと我に返ると、思い出すことができなくなっている。
――意識だけが、別の世界に飛んでしまったかのようだ――
それが弥生の思いで、惰性が意識を別世界へ誘うという感覚に陥ってしまっていた。
弥生が理沙の後ろ姿を見ながら、自分も理沙の前に広がる闇に点在する明かりを見つけようとしていることに気が付いた時、自分がスナックに入った頃のことを思い出していた。
――あの頃は、まだ彼を信じて、自分は自分の世界を見つけようと、前向きな気持ちしかなかった頃だわ――
そう、あの時が一番自分の中で輝いていたように思えてならない。
大ゲンカして出てきた家への思いを断ち切ることもできず、彼を信じることだけが自分の生きがいだと思って出てきた時は、自分の気持ちが彷徨っていたのを分かっていたつもりだった。
しかし、それではいけないと思ったことで、スナックでアルバイトをしようと思ったのだが、どうしても自分の中にスナックなどの水商売に対して違和感と偏見があったことを今でも認めないわけにはいかないだろう。
それでも弥生はママと出会って、偏見だけは拭い去ることができたが、違和感だけは残ってしまった。
違和感の正体が分からなかったからだ。
今から思えば違和感の正体は、
――私のいる場所は、本当にここでいいの?
というものだった。
今から思えば、最初に感じて当然の違和感のはずだが、その時になぜすぐに気付かなかったのか分からない。最初に気付かなければ、あろから気付こうとしても気づくものではない。違和感とは得てして、そういうものが多いのではないだろうか。
スナックにいる時間は、それこそ別世界だった。別の次元の時間が経過していて、本来自分がいるはずの次元の場所での時間、自分は一体どうなっているというのだろう?
そのことを考えると、同じ時間の違う次元に、もう一人の自分が存在しているのではないかと思えてきた。そして、違う次元の自分を意識することは、
――夢を見ている――
ということにして、夢の世界の自分だと思い込んでいる。次元の違いだという意識をまったく持っていなかったのかというと持っていたのかも知れないが、持った時に、
――夢を覚えていない――
という意識に繋がっているのではないかと思うのだ。
夢というのは、いくらでも自分の中で勝手な解釈ができるものだ。
次元の違いを夢として解釈するのもその一つだが、欠落してしまった記憶も、最初は夢のようだと思っていたことも事実だ。
今では欠落した記憶を夢だとして単純に理解することはなくなったが、欠落した記憶は、ひょっとすると、今までに夢として見たことがあり、目が覚めるにしたがって忘れて行ったものではないかと考えるのも無理のないことだと思う。
むしろ、その方がスムーズな解釈ではないかと思うほどである。スムーズな解釈をするには、一度忘れてしまった方が意識としては強いものが残るのかも知れない。
それは、必ず一度は思い出すからだ。
忘れてしまったことを再度思い出すというのは、思い出した時、
――忘れてはいけないことだから、思い出したのだ――
という理屈の元に思い出すことになる。だからこそ、欠落した記憶と夢との関係を思うようになってくる。
スナックに入った頃、つまり一番輝いていたと思う頃に、実は一番最初に躁鬱症を感じた。その時は初めて感じた躁鬱症であるにも関わらず、
――以前にも同じような感覚を味わったことがあるような気がするわ――
と思った。
その時は意識しなかったが、いわゆる「デジャブ―現象」である。
――一度も行ったことがない、見たこともない場所なのに、以前にも来たことがあるような気がする――
という思いに至る時、それをデジャブ―現象というのだということは、学生時代から知っていたことだし、実際に他のことでも何度かデジャブ―を味わったことがあった。
「実におかしなものよね」
「何が?」
「一度も行ったことがないのに来たことがあると思うのは、いつも小学生の頃、父親から嫌だというのに無理やりに引っ張って行かれたという感覚があるのよ。まったく違う場所を感じるはずなのに、おかしいわね」
友達との会話を思い出していたが、その話をした数日後に、友達は親の転勤で引っ越していった。友達は寂しそうな顔をしながら、
「あんなこと口にしなければよかったわ」
「あんなこと?」
「ええ、デジャブを感じたことよ。前もそうだったわ。デジャブのことを口にすると、それから一週間もしないうちに、お父さんが転勤になるの。私は自分に予知能力があるのかしらって思ったわ。でもそうじゃなくて、口に出したことがいけなかったのかも知れないわね」
友達がデジャブの話をした時、まるで別人のようだった。遠くを見つめる目は、弥生の知っている友達ではなく、
――私が知り合う前の彼女を見ているのかも知れないわ――
と、友達の中に隠された部分があり、それが顔を出したと思ったのだ。弥生がそんな友達を見るのは初めてだったので、以前のことだと思って当然であった。知り合う前の友達を垣間見ることができたことで、弥生にも何か胸騒ぎがあったが、それが別れに繋がることだったとは、その時、まったく気付かなかったのだ。
友達の話は、若干作られたところがあったようだが、
――事実は小説よりも奇なり――
ということわざもある。どこまでが本当のことかは確かに分からないが、火のないところに煙が立つわけもなく、まったくでたらめということもないだろう。
もし、まったくの作り話であれば、弥生はその友達を尊敬していたことだろう。ここまでリアルな話を想像することは、それほど難しいと思われた。
スナックに入った頃の躁鬱症には。デジャブが含まれていたことも事実だった。最初に感じたのは、一人の客が原因だったのだが、そのお客さんが悪いわけではなく、弥生が勝手に嫌がっていただけだ。
その客は、弥生の嫌なことばかりを口にする。
「どうして、君のような子が、スナックなんかにいるんだい?」
悪気はないのかも知れないが。客側にスナック内でのマニュアルがあるならば、
「口に出してはいけないこと」
の欄に必ず含まれているに違いない。
「店の女の子のプライバシーに関わること」
に繋がるだろう。
マナーに関わるところであり、店側が点数を付けているとすれば、大きなマイナスになっているに違いない。
接客側からすれば、客に点数をつけるなどあってはいけないことなのかも知れないが、敢えてつけるとすれば、それは減点法であろう。
百点からどんどん減算していって、最終的に何点になるかであるが、最終的なものがいつになるかが分からないことで、ボーダーラインを設けるに違いない。ボーダーラインを超えるとイエローカード対象となり、それが目に余ると、出入り禁止のレッドカードになるに違いない。
口に出してはいけないことを、連発する客ばかりではないと心では思いながらも、
――どうして自分だけ?
という思いが強かった。
――まさか、これがスナック務めを始める試練のようなものはなあるまい――
と感じるほどだった。
その客は、弥生の中では「レッドカード」だった。その客は弥生のことを最初から新人だと思って、言いたいことを言っていたのだ。他の女の子には言えない性格、つまりは、相手が自分より弱い立場であれば、高圧的になったり、上から目線をあからさまにしているのだ。逆に相手が目上だと思うと、露骨なまでの遜った態度を取るようだ。
さすがにスナックに慣れていないとはいえ、弥生にもよく分かった。そんな男だと思って、弥生もわきまえようと思った。普段ならできたのだろうが、やはり慣れていないスナックの中でのこと、急に自分の気持ちの持っていき場所が分からなくなったのだ。気持ちは落ち着いているのに、どこかに苛立ちを感じる。
――苛立った様子を店の中で見せてはいけない――
という気持ちが表に出てくれば出てくるほど、弥生は自分を抑えることができなくなった。
その時、プツンと弥生の中で何かが切れた。
音を聞いたような気がするくらいに一瞬何が起こったか、分からなくなっていた。
「弥生ちゃん、もうここはいいから、洗い物してくれるかしら?」
一瞬のタイミングを見計らって、ママが弥生を制したおかげで、その場が崩れることはなかった。
ただ、その時の憤りをどこに持って行っていいのか分からないまま、その場を離れただけでは、店側はそれでもいいかも知れないが、弥生の気持ちが収まらない。
ママは後になってから、
「スナックというところは、たまにああいうお客さんもいるのよ」
と言ってくれたが、慰めにはなったが、本当の意味での精神的な復活にはならなかった。
その時、初めて弥生は
――自分の精神をコントロールできないこともあるんだ――
と感じたのだ。
しばらく弥生の顔から笑顔が消えた。それは自分で分かっているとよりも、まわりの方がよく分かっていたようで、
「あの時の弥生ちゃんは、声を掛けることもできないほどだったわよ」
と、先輩から笑い話にされるが、本人は苦笑いをするしかない。
ただ、その先輩にも同じようなことがあったらしく、
「私は前から自分が躁鬱症なのは分かっていたから、何とか対処できたけど、弥生ちゃんはその時初めての鬱だったわけよね。よく頑張ったわ。でも、これもいい経験として勉強だと思える日が来るわ」
と言っていたが、まさしくその通りである。
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