第4話 第4章
弥生が入院してから、そろそろ一週間が経とうとしていた。相変わらず記憶が戻らない中で、少し弥生の心境に変化が起こっていることは、医者の側でも分かっていたが、それが理沙に対してのものだということまでは分からなかっただろう。
理沙の方は次第に意識がしっかりしてくる。だが、相変わらず記憶が戻ることはなく、精神的な不安は拭い去れるものではなかった。退院までにはしばらく掛かるだろうということだった。
弥生は、看護師にそれとなく理沙のことを訊ねてみた。いつも面倒を見てくれている担当看護師とは、時々話すこともあるので、気軽に聞くことができる。弥生が自殺を図って記憶が欠落していることも分かっていて、入院三日目には、どうして自殺に至ったかということや、スナックに勤めていることも話したりしていた。
年齢的には弥生とそれほど変わらないだろう。二十歳代半ばと言ったところだろうか。本人もまだまだ看護師として覚えることもたくさんあると言っていたが、それは謙遜であろう。話をしているだけで、しっかりしている様子が伺える。専門的な知識はなくとも、スナックに勤めていれば、人を見る目は次第に養われていくというものである。
プライベートに関わることまでは聞けないのは分かっている。だが、病状や刑事が事情聴取に来ている話などは聞くことができた。
その時に坂田刑事の話を聞いたのである。担当看護師も坂田刑事のいでたちと雰囲気から、他の若い刑事のような形式的なことばかりでないことは分かっていた。
「形式的なことしか言わない刑事って、信用できませんよね」
看護師は、今でこそ一人でアパートを借りて暮らしているが、最初は病院の寮に入っていたという。その時、寮に下着泥棒が横行したことがあり、警察がやってきたことがあったらしいが、その時に受けた質問に、彼女は憤慨していた。
「どうして、あんな聞き方しかできないのかしらね。デリカシーに欠けているわ」
と憤慨をあらわにしたのを想像すると、少し可笑しくなった。
時々会話することがあり、情報を貰ってはいたが、どこか形式的な言い方しかしていなかったように思ったからである。
冷たいとまでは言わないが、感情を表に出せない性格なのかも知れないと思っていた。だが、それは病院という閉鎖された環境が原因なのかも知れないと思っていたが、それだけではないのは、彼女の憤慨を見て分かった。
憤慨する表情に、内に籠ろうとする意識があるようだ。可笑しく感じたのは、憤慨している彼女の視線が斜め上を向き、あらぬ方向を見つめながら、自分の世界に入っているのを感じたのは、彼女の性格の本質が垣間見えた気がしたからだ。
同じような性格は、弥生にもあった。ただ、それは学生時代までで、都会に出てきてからは、そんな性格は鳴りを潜めている。忘れてしまったかのようだが、これは同じ欠落でも、
――意識の欠落――
だと思うようになっていた。
意識の欠落は、気が付かない限り分からない。記憶の欠落は気付くというよりも、過去のことを思い出そうとして、繋がらない記憶があることで、欠落していることを認識する。同じ欠落でもかなり違っているのだ。
担当看護師を見ていると、過去の自分を思い出そうとしている自分に気付く。最近は過去のことを思い出すのは無意識になっていて、感覚がマヒしてしまっているのだ。過去の自分を思い出すには、今の自分を意識しないと無理だと以前は思っていた。それは、思い出したくない過去があったからだと今は思っているが、自殺してから今に至るまで、今の自分を意識することなく、過去を思い出しているようだ。
過去の自分を思い出そうとして思い出せないことが腹立たしい。この思いは過去にはなかった。
――思い出せないのは仕方がないことだ――
と思っていたのだ。思い出したくない過去があるのだから、それも当然だが、記憶が欠落するまでは、思い出したくない過去がどういうものだったのか、分かっていたはずである。
弥生は担当看護婦と話をしていて、彼女が弥生の過去について自分から聞いてこないことを分かっていた。それは、医者から言われてのことだろう。
「欠落している記憶がある人の過去の記憶を探ろうとするのは、藪を突いてヘビを出すのと同じことだね」
とでも言われているのだろう。
弥生にとって、過去の記憶の欠落は、自殺してしまったことの後遺症なのか、それとも自殺から立ち直るための避けては通れない必要不可欠なものなのか、自分では分かっていない。ただ、避けては通れないもののような気がしているのは、自分の世界になかなか入ることができないのが分かっているからだった。
自分の世界に入れない時期が以前にあった。それがいつのことだったのか、それすら欠落してしまった記憶の中に入り込んでいる。ただ、時期があったということだけは覚えているのだ。
――記憶の欠落とは、一つの出来事の記憶すべてが欠落しているわけではない。出来事の部分部分が欠落しているのだ――
だから、欠落していることが分かるのかも知れない。最初に気が付いたのがママだったのか、自分自身で気付いていたのかも曖昧な記憶の中に入ってしまっているが、それが自分にとってどんな影響があるのか定かでないことは、不安な気がしていた。
記憶の欠落がどれほど自分に不安を与えるのか分からなかったが、
――この程度の不安で収まっているなんて不思議だわ――
と思うほど、不安に感じていない弥生だった。
入院するまでもないと思っていたが、入院を促進したのはママだった。
「あなたは自殺未遂をしたのよ。記憶の欠落が自殺の後遺症だったら、しっかり治さないといけないでしょう」
と言って、知っている医者を通じて、大学病院に入院できる手続きをしてくれたのだった。
――それにしても、少し長い気がするわね――
そう思っていたが、先生に聞いても、
「もう少しいろいろ確認してみないこともあるので、ご不自由をおかけいたしますが、もう少し入院していただきたいと思っています」
大学病院というところは、資料収集や研究が主な目的であるということは分かっているので、研究材料にされるのも仕方がないとは思う。ママの紹介からの入院でもあるし、せっかくだからゆっくりしていればいいのだと、自分に言い聞かせている弥生であった。
理沙のことも気になっているので、入院が長引くことは、弥生にとっても願ったり叶ったりなのかも知れない。ママも時間的には短いが、毎日のように様子を見に来てくれるのはありがたいことだった。
「お忙しいのに、すみません」
「いいのよ。私が紹介したんだから、心配せずにゆっくりしていればいいのよ。ここの先生は信頼できる先生が多いということなので、私も安心しているのよ」
と、ママは言ってくれた。
「そろそろ年末になるけど、お店も忙しいんじゃない?」
「忙しいけど、大丈夫。ほら、この間入ってきてくれた女の子がいるでしょう? 彼女は結構役に立っているのよ」
弥生が入院してから入れ替わりだったこともあって、彼女とは顔を合わせていない。
「今度連れてくるわね」
とママが言っていたが、退院してからでもいいのではないかと思った。
だが、そこで一つの疑念が浮かんだ。
――ママは私の入院が長引くと思っているのかしら?
それならそれでもいいと思うのだが、入院が長引くことで、店の方はどうなのだろう? 弥生を目当てに来ている客もいたはずだ。
まさか、新人に取られることはないと思っている。新人と言っても、年齢的には弥生よりもだいぶ上で、年齢的に絶対優位は揺るぎないと思っていたのだ。その頃の弥生は、しっかりはしていても、まだどこか年齢がすべてに優先しているという思いを抱いていた。直線的な考え方が吉と出ることも多いが、凶と出ることもある。凶と出た時、どうすればいいかなど、弥生の頭の中にはなかったのだ。
弥生の入院が長引くことで、スナックのことを思い出すことが増えてきた。それだけ精神的にも余裕ができてきたのかも知れない。
だが、思い出すスナックでの時間はあっという間に過ぎてしまうことばかりのようであった。楽しいことでも悲しいことでもない。共通性は、
――あっという間に忘れてしまうようなこと――
だったのだ。
それは、まるで夢を見ている時のようではないか。
あっという間に時間が過ぎるのは、夢というものが、目が覚める直前に数秒見るものだと聞いたことがあったからだ。どんなに長い夢であっても、見ているのはほんの数秒、その話にどれだけの信憑性があるのか分からないが、弥生がその話に大きな興味を示したのは事実だった。
――スナックにいる時間は、果てしなく続くようにいつも思っていたのは、私にとって楽しい時間だったからなのかしら?
人から聞く話では、
「楽しい時間ほど、あっという間に過ぎるのよね」
という言葉をよく聞く。
弥生はスナックにいる時間が人と違和感なく人と話ができて、同じ気を遣うのでも、自分の意志で遣っている気なので、違和感などありえないと思っていた時間が果てしなく続くように思えたことは、幸せなのだと思っていた。その気持ちは今も変わっているわけではなく、
――人の話の方が、信憑性がないんだわ――
と、自分がおかしいのだという考えは毛頭なかったのである。
スナックにいる間が、人生の中で一番楽しかった。その反動からか、仕事が終わって一人になると、鬱病のようになってしまうこともあった。
急に身体が震えだして、寒気を感じる。風邪を引いているわけでもないのに、唇にも痺れを感じ、食事をしていても、何を食べてもおいしいと感じることがなくなるのだ。
――ここまで一気に変わってしまうなんて――
一日のうちに何度も躁鬱状態を繰り返すというのは、自分だけだと思っていたが、ママに聞いてみると、
「私も実はそうなのよ。最初の頃は私だけだと思って殻に閉じ籠ってしまっていたけど、最近では、自分と同じような悩みを持っている人が分かるようになってきたの」
「じゃあ、ママは私のことも分かっていたの?」
「ええ」
「分かっていて、話しかけてくれなかったの?」
「ええ、話しかけても、閉じ籠ってしまった殻を破るだけの力はないはずだからね。相手が話してみようというところまで来ないと、私はどうすることもできないのよ」
とママは言っていた。
確かにその通りだろう。
ただ、ママは店の経営者である。他の従業員とは感覚が違って当たり前だ。ママの感覚に自分を合わせてしまうのは少し感覚が違っているのではないかと思ったが、弥生にとっては、半分自分がママの代わり、そう、まるで代理のような感覚になっていることもあった。
配達に来てくれる業者の人からも、
「弥生ちゃんに任せていれば、ママも安心だね」
と、気軽に声を掛けられる。それはママが出入り業者に弥生のことを頼りになると宣伝しているからで、弥生もありがたいことだと思っていた。従業員と責任者との絆が深ければ、いずれ自分が何か困ったことがあった時、助けになるのではないかと、漠然としてではあるが考えていた。
店の女の子は全部で六人いた。こじんまりとした店なので、そのくらいの人数がちょうどいい。
普段はママを含めて店には三人の女性がいることになる。ママが不在の時は、代理として表に出るのは弥生だった。
弥生が表に出ることを他の女の子たちは妬んだりしない。最近の女の子たちは、ドライというか、欲がないというか、店に対して執着がないようだ。もし、他の店から、
「給料を割増しにするから、うちに来てくれ」
と言われたら、迷うことなく移籍する人がほとんどだろう。よほど店やママに恩でもない限り、それは仕方のないことなのかも知れない。
実際に、この店に移籍してきた女の子もいた。まさか給料を割増しにするなどと言って引き抜いたわけではない。その娘が自分の意志で前の店から、こちらに移りたいと言ってきたのだ。
前の店では、女の子の数には不自由していなかった。
しかも、彼女はそれほど目立つタイプでもなく、前の店で顧客がついていたわけでもなかった。単身、店を変わったわけだが、この店にきて、彼女は変わっていった。
それまで目立たなかったのがウソのように、お客さんが、彼女目当ての人が増えていった。最初は、
「ウソでしょう。私なんかに」
と言っていた彼女だが、一人のお客から、
「君はユニークで、他の娘にはない面白いところがある」
と言われたことが彼女の自信になったようだ。
実際に無口だったのは、何かを口にして、
――バカにされたらどうしよう――
という思いが強かったからで、前の店でもたまに口を開くと、他の女の子や客から、冷たい目で見られていたようだ。要するに話に水を差したというイメージなのだ。
確かに彼女には水を差すようなところがあるが、それはタイミングが悪いだけで、一対一であれば、普通に会話もできるし、さらに今まで冷静な目で他の人の会話を聞いてきたので、耳は肥えている。話題性にはぐ自由しないことで、まわりからは、初めて聞いた彼女の声に、賛美の意を表す人すらいた。
「初めて聞いたけど、可愛い声しているね」
お客というのは、自分だけを見てくれている女の子を欲しているものだ。それは普段の寂しさを紛らわすために店に来ているからで、普段あまりしゃべらない女の子が自分のために話をしてくれたと思うと、一気に彼女のファンになるのも当然のことだろう。
弥生が入院した時に入ってきたのが彼女だった。
さすがに他の女の子の客を取るようなことはしなかったが、弥生が入院している間にそんな変化が店の中で起きているなど、思ってもみなかった。
他の女の子が、妬むことをしないのも、彼女にとってありがたかった。
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