第3話 第3章

 こん睡状態だった心中の片割れの女性が目を覚ましたのは、担ぎ込まれて三日後のことだった。男の方が、だいぶよくなり意識もしっかりしてきたことで、女性が目を覚ます前に、警察の事情聴取を受けることになった。

 警察もさすがに心中というと慎重である。男の方も軽かったとはいえ、さすがに睡眠薬を服用しているので、意識がずっと朦朧としていたようだ。だが、医者の目はごまかせないのか、男の方は睡眠薬の服用はあったが、それ以外に、ドラッグ反応が出たようである。事情聴取は心中事件にとどまらず、別の様相を呈してくるように思えた。

 病院内では、静かにその噂で持ちきりであろう。緘口令が敷かれていることもあって。大っぴらには話をしないが、ナースステーションの奥では、何を言われているか分かったものではない。

「薬をしているということは、二人は何か危ない組織に所属していて、逃げ出してきたのかも知れないわね」

 という話が大方を占めているのではないかと、勝手に想像していた。

 女性が集中治療室だったのは分かるが、男の方はさほど重症ではないのに、男も病室が個室だった。今から思えば、曰くつきの患者なので、個室にするのもやむなしだったのだろう。

 それにしてもドラッグが絡んでいたとは思わなかったが、病室が個室であったことで、ただの心中ではないと弥生には分かっていた。ただ、自分が関わり合いになる筋合いのものではないので、なるべく知らん顔をしていたが、分かってくるにつれて、二人の関係が余計に気になってきた弥生だった。

 弥生の中には、一つの仮説があったが、それはあまりにも突飛な発想であり、他の人に話しても、

「そんなバカな」

 と一蹴されるに決まっている。鼻であざ笑われるに違いないと思うと、余計に自分の考えに固執してしまいそうだったのだ。

 症状がだいぶよくなり、何とか話ができるようになると、さっそく刑事がやってきた。まだ動かすことができないので、病室での事情聴取だが、退院できるようにまで回復すれば、厳しい取り調べが待っているに違いない。

 気が付いた彼女にも、当然刑事の尋問が待っているのだが、気が付いたと言っても、まだ何も話をできる状態ではないようだ。刑事が二人ほど集中治療室の前で待ち構えているが、どうやら、待ちぼうけを食らっているようだ。

 刑事の苛立ちは傍から見ていても分かる。もっとも、これは水商売で培った目線でなければ分からない世界かも知れないが、彼らは一刻も早く、女から事情聴取をしたいようだ。

 噂が本当であれば、それも当然である。ドラッグ疑惑がある男と、心中したのだから、当然何も知らないわけではないだろう、

 警察の捜査は、女の身辺調査から行われているのだろうが、どうもそちらの方がうまく行っていないことで、意識が正常になるのを待つしかないのだろう。女がどこから来て、どこに行こうとしているのかというイメージで捜査が繰り広げられているようだ。病院の外で携帯電話を使って本部とやり取りしている会話を聞いた弥生だったが、一つだけ分かったこととして、彼女の名前が、理沙ということであった。

――名前までは分かっているが、素性はほとんど分からない。きっと名前は所持品から分かったくらいで、どこの誰なのかまではハッキリしていないのかも知れない――

 弥生が彼女に水商売を感じたのは、まんざら間違った発想ではなかったのかも知れない。男は危険ドラッグの使用者で、女は水商売だとすれば、男は何かの組織の下っ端で、女はその恋人か何かで、男は女のために組織を裏切ったが、逃げられないと見て、心中を図ったと見るのが一番近いかも知れないと思っていた。

 だが、弥生の想像と違っていたことは、すぐに判明した。それは女の意識が戻ったということを聞いた男が、警察で少しずつ話を始めたからだった。

「黙っていても、そのうちにバレる」

 ということを警察から言われたのかも知れない。観念して喋り始めたのであれば、この事件も次第に弥生の想像していた方へと展開していくだろうと思っていた。

 しかし、想像はいきなり覆された。さすがにこれには警察も呆れかえっていたほどで、男の方というより、女の方の気が知れないと思っていたのだ。警察でもこんなことはさほどないことなのかも知れない。刑事の焦りは、そのあたりからも伺うことができたのだ。

 噂というのは、良しも悪しも、広がり始めると早いものだ。しかも、興味深い話であれば、事実でないことであっても、あっという間に広がってしまう。

 最初は、信じられなかったが、考えてみれば、その方がまだ救われる。情報は、警察の方から漏れ伝わったものらしい。

「どうやら、心中した二人、まったく知らない者同士だったらしいわよ」

 噂を耳にした者は、信じられないという顔をするが、落ち着いてくると、この話を抱えておくことができなくなり、人に喋りたくなってしまうのだ。どこから漏れ伝わったかということは、もうどうでもいいことであって、事実なのかが話題になったのだ。

 男の方が警察で自供した内容によるものだというが、女性の方も次第に意識が戻ってくると、事情聴取に対して、同じ答えをしたという。

 ここまでくれば、マスコミにも知れて、次の日のニュースで流れた。男が危険ドラッグを使用していて、知らない女性と心中まがいのことをしたというだけで、話題性は十分だ。

 病院内の誰もが、他人事だとは言いながら、興味を持って理沙を見ている。理沙は完全に意識が戻ったわけではなく、治療に専念しなければいけない状況であることから、警察の追及はさほどなかった。

 もっとも、彼女から薬物反応は検出されず、本当に男とは知らない仲であるならば、理沙に対しての警察の追及は、ほとんどないに等しい。

 それでも、どういう経緯で心中に至ったかというのは、大きな問題で、男がどこかの組織の人間であることは警察の調べで分かっているが、女の方の素性は、ほとんど分かっていない。

 名前と現住所からだけでは、消息を掴むのは難しいようで、警察が情報をマスコミに流したのも、彼女の素性を調べるための一環でもあったことは、弥生には最初から分かっていた。

 弥生自身も、もし今自分が誰か知らない人と心中をすれば、同じように調べられるだろうが、自分の素性はすぐに分かるだろうか?

 免許書と、スナックの名刺があれば、スナックまでがたどり着けるが、そこから先は難しいかも知れない。スナックに勤める時に、素性はあらかた話をしたが、正確なところの田舎の住所までは話していない。いい加減なところがある店であったが、それもママがしっかりしていることで、何とかなっているようだ。弥生は、心中未遂をした理沙の気持ちを分かってあげられるとすれば、自分しかいないとまで思っていた。弥生も、自殺未遂をした心境は、

――この世から、自分の存在を消してしまいたい――

 という気持ちが強かったからだ。

 弥生と理沙、二人の間に何か共通点があるのだろうか? 理沙がどうして知らない男の人と心中を図ったのかという理由は、まだハッキリとしていない。

 理沙は、刑事の追及に対して。期待している答えを返せるほど、相手の男のことを知らなかった。飲み屋で会って話をして、どこでどう話が展開したのか、死のうという話になったという。男が正常ではないのは分かっていたが、自分もまともな精神状態ではないと思っていたので、死ぬということだけ意気投合したという。

 しかし、それよりも何よりも、理沙はそれ以前の記憶がほとんど消えていた。意識を取り戻した時から、病院側でも意識がないのは分かっていて、体調が回復していくうちに思い出すこともあるだろうからと様子を見ていたが、どうもすぐに思い出せるようなことはないようだ。

「私は自分が分からない」

 刑事はこの言葉を信じられるわけはないと一蹴したが、病院側からの診断書を提示され、半分疑念を抱きながら、事情聴取を厳しくするわけには行かなくなった。ここは病院であり、主導権は当然病院側にあるのだ。

 理沙は、自分の名前を刑事に教えられても、どこの誰だか思い出せなかった。ただ、初対面の男と出会って、心中しようという気持ちになったこと、そして、自分が死に損なってしまったことへの屈辱を感じていることは分かっている。

「記憶がないのに、何に対して屈辱感を感じるんだい? 屈辱感を感じるということは、どうして死のうと思ったのかが分かっているからではないのかい?」

 と、刑事に聞かれても、キョトンとした態度を示すだけで、どう対応していいのか分かっていないようだ。

「屈辱感というのを感じているという意識はありますが、何に対してなのか、自分でも分かりません」

 聞かれたことをそのまま答えているだけだが、それが本心であり、それ以上でもそれ以下でもないに違いない。

 しかし、刑事はこの「屈辱感」という言葉に注目した。屈辱感が誰に対してのものなのかである。

 心中相手とは、口裏を合わせたようには思えない。かといって、記憶がないと言っているのに、心中の瞬間だけは覚えていて、そこに屈辱感があったというのも自覚している。そこに何か見えない壁のようなものが存在しているのではないかと、刑事は考えているようだ。

 男は違う病院に入院させられた。薬物を身体から取り除くためだということだが、二人を同じ病院にしないのは、どこかで二人が繋がっているのではないかという思いと、再度二人を一緒にすれば、また心中を繰り返すのではないかという意見があったからだが、二人が心中を繰り返すかも知れないと思っているのは、たった一人だけだった。

 その刑事は、坂田刑事といい、心中の通報を受けて、最初に駆けつけてきた刑事だった。彼は二人の顔を見て、二人が最初から知り合いではなかったのではないかということに気付いていた。

 根拠があったわけではないが、二人のこん睡状態の顔が、あまりにも似ている表情だったので、二人が知り合いだったとは思えないというのだ。

「普通なら、反対じゃないんですか?」

 と他の刑事から聞かれて、

「もし、男と女の心中なら、普通、男が女を庇うような気持ちになるはずで、女は男に抱かれる気持ちで安らかに行きたいと思うものじゃないのかな? そうであれば、二人の表情が似ているというのはおかしい。どちらかというと、お互いに知らない者同士、境遇を話しているうちに相手の気持ちになって考えるようになり、死に至る時もまだ、相手の気持ちになっているだろうから、似たような表情になると思うんだ。お互いに、あの世で会おうという約束でもして、睡眠薬を飲んだんじゃないかな?」

 それが坂田刑事の考えだった。

 ただ、それも薬が絡んでいるなどと知る前のことだったので、まわりも、そうかも知れないと思えたが、薬が絡んでくると、坂田刑事の話はただの理想論でしかなくなってくる。次第に時間が経って分かってくることが増えてくると。坂田刑事の話に説得力はなくなってくるのだ。

 年齢的には、そろそろ五十歳を超えるくらいの老練の刑事で、そろそろ若手に最前線を譲ってもいいと思っているが、どうしても気になる事件があると自分で出張って行って、自分の目で確かめなければ気が済まない性格だったのだ。

 坂田刑事は、二人の間に薬以外の何かが存在しているように思えてならなかった。

 理沙が目を覚まして、坂田刑事の面会を受けたが、坂田刑事は事情聴取のような堅苦しいことはしなかった。

「事情聴取は他の人がやってくれたから、私は、あなたとは普通に面会したいと思っているんですよ」

 手にはお見舞いの花束が握られていた。知らない人が見れば、娘と父親に見えるくらいだ。他の人には心を開こうとしない理沙だったが、坂田刑事にだけは、笑顔を見せるくらいにまでになっていた。

 坂田刑事は、この年になるまで独り身だった。結婚したこともなく、当然娘もいない。しかし、時々無性に娘がほしくなることがあるというような話を理沙にしていた。弥生はこの時、坂田刑事の存在を知らなかったが、坂田刑事と同じような境遇の男性を知っている。その人がスナックで弥生を贔屓にしてくれていて、いつも二人でカウンターの奥で話をしていたのだ。

 坂田刑事に似た男性は、弥生が店に入ってからずっと贔屓にしてくれていた。どうやら彼が店に来るようになったのと、弥生が店に入った時期が、ほぼ同じくらいの頃だったようだ。

 坂田刑事は、弥生をチラッと見て、何か驚いたような表情になった。すぐに顔を背けたが、弥生にとって欠落した過去を結びつける何かを坂田刑事が知っているのではないかと思うと、ゾッとするものがあった。

 弥生が坂田刑事と顔を合わせたのは、理沙の部屋を覗きに行った帰りだった。

 理沙は集中治療室から個室に移されてから、坂田刑事が見舞いにやってきたのは、二日後のことだった。その間に弥生は理沙の部屋の前に数回顔を出し、理沙も弥生が覗いていることに気付いていたようだ。

 弥生はさすがに声を掛けられずに佇んでいるしかなかったが、坂田刑事は刑事という立場を利用できるからか、ずけずけと病室に入っていった。病室に入っていった坂田刑事を目で追うように気にしていた弥生だったが、坂田刑事は弥生の存在を無視したかのように理沙に話しかけていた。

――刑事がただのお見舞いで訪れられるほど、暇じゃないはずだわ――

 と、弥生は思っていたが、今の理沙には何を聞いても答えが返ってくる様子はない。記憶をほとんど失っているのだから、どうしようもないはずだ。

 中の話はほとんど聞こえなかった。ただ、扉を閉めることはしないのは、密室にするわけにはいかないことを心得ているからだ。少しだけでも記憶を失っただけで、それまでの自分よりかなり不安に思う部分を自分の中に感じる。

 理沙の記憶がないのは、医者の見立てでハッキリしている。次第に思い出していくこともあるだろうが、今のままではなかなか思い出すことはないだろうという診察のようだ。

 弥生は看護師の一人と仲良くなり、その人から情報を仕入れていた。精神状態は不安が渦巻いていても、まわりに対しての愛想は今まで通り振りまくことはできる。これも水商売で培われたもので、弥生にとって実に皮肉なものだった。

 看護師は弥生と同い年で、病室に来てくれた時、話をしてみると、どうやら田舎が自分の出身地と隣街のようだ。

 同じ街でないことは、却って幸いだった。同じ街だと却ってお互いに、

――どこか知られたくないことを知っているのかも知れない――

 という邪推を持ち、話が先に進まなかったに違いない。

 隣街なら、お互いに知っていることもないはずなので、純粋に懐かしさを共有できたのだ。

 ただ、弥生にとって思い出したくない過去が田舎にあるのも事実だった。欠落した記憶の中に、覚えている記憶と真ん中で切断された形になっている不完全な記憶もある。それらはすべて田舎にいる頃の記憶で、どちらかというと、忘れていたい記憶だったに違いない。

 坂田刑事が、理沙にどんな話をしているのか分からないが、触れられたくない記憶に触れてしまうと、きっと理沙は坂田刑事に対して、心を開くことはないだろう。しかも相手が刑事という立場の人間だということも、理沙には警戒を強めるに十分な相手である。

 弥生は自分が看護師と話をしている中でも、思い出したくない記憶があることに今さらながら気が付いた。坂田刑事の訪問を受けている理沙も、硬直するほど緊張していることだろう。その気持ちが分かっているだけに、弥生は理沙と坂田刑事の会話の内容に興味を抱くのだった。

 理沙が失った記憶は、心中した時に失ったものなのか、心中前からすでに記憶は失われていたのか、果たしてどちらなのだろう?

 理沙の死のうとした気持ちの中に、記憶を失ってしまうほど何かショッキングなことがあり、自分で精神をコントロールできなくなってしまったところに現れたのが、一緒に心中しようとしたドラック漬けになっている男だったのかも知れない。

 弥生は理沙と話がしてみたいと思った。自分も記憶が欠落している人間、さすがに理沙が失った記憶ほど大きなものではないが、同じように自殺を図った人間としては、その理由の度合いが、そのまま比例しているのではないかと思っている。

――理沙に一体何があったのか?

 心中しようとした相手が、実は面識がない相手で、しかも危険ドラッグ所持という犯罪がらみの男であることから、理沙の立場は微妙である。

――でも、放っておけない気がする――

 確証はないが、自分にも多少なりとも関わってくることのように思えてならない。記憶のない状態で意識を取り戻した理沙が弱弱しく見えてならない。

 そこが自分の過去に影響が思えてくるのだ。弥生にとって理沙の存在が果てしなく大きくなってくるのではないかと感じたのが、その時だったのだ……。

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