第2話 裕子とさつき
今回の萩に出かけた時、武家屋敷を歩きながら、懐かしさを感じたのは、大学近くの屋敷を思ってのことだった。そのことは、自分でも意識していた。しかし、その時に少女のことを意識したわけではないのは、同じような大きな屋敷であっても、大学近くの屋敷のイメージでしか、少女の存在を意識できるものではないと思ったからだ。
それに、萩の街は江戸時代や明治時代を思わせるレトロな街だ。少女の真っ白いワンピースのイメージとは少し違う。しかし、萩の街を散策していた時に、大正ロマンを感じさせるいで立ちの女性が円筒形の筒を片手に和気あいあいと歩いている。どうやら、卒業式があったようだ。
白いワンピースの少女のイメージは、武家屋敷をバックに歩いている大正ロマンの衣装の女の子を見ることで、一気に遮断された。それからというもの、萩に来ると、大正ロマンの女の子の面影が瞼に焼き付いてしまい、一番想像することができないのが、白いワンピースの少女のイメージになってしまっていた。
彼女たちは、数人で一軒の喫茶店に立ち寄った。そこは観光ガイドブックにも載っているお店で、夏みかんジュースが評判の、観光客ご用達と言ってもいいようなお店だった。彼女たちを見かけたのは、旅行二日目で、最初の日にその喫茶店には立ち寄っていたので、店の雰囲気は分かっていた。その時は店に入らなかったが、彼女たちのいで立ちが、店の雰囲気に映えることは分かっていた。修平にはその様子が手に取るように分かり、これほど想像するのが簡単だったことは今までになかったような気がしていた。
――夏みかんジュースを飲んでいるのだろうか?」
と想像してみたが、全員が夏みかんジュースを飲んでいるような気がしなかった。中にはコーヒーが似合いそうな女の子もいて、最初に見た時は衣装に気を取られていて、皆同じに見えたが、喫茶店に入ってからのことを想像すると、それぞれに個性があることに気が付いたのだ。
彼女たちは五人のグループだった。大人っぽい雰囲気の女の子、まだ幼さの残る女の子、頼りなさそうに見えることで、男性なら放っておけないと思わせる男心をくすぐる雰囲気の女の子、皆それぞれだったが、一様に屈託のない笑顔が一番印象的だということに変わりはなかった。
最初は、地元の女の子だと思っていたが、どうやらそうではないようだ。彼女たちが喫茶店に入ったのを見届けて、そのまま城址公園へ向かったが、その後、萩焼の工房で、彼女たちとまたバッタリと出くわしたのだ。今回の旅では、気に入ったところに二度行ってみようというつもりでいた。
――俺と同じ観光客なのかな?
女の子が大正ロマンが漂ういで立ちの時は、成人式か卒業式だろうと思っていた。時期的には卒業式の季節なので、ひょっとすると、卒業式が終わって、そのまま旅行に出かけてきたのかも知れない。
皆楽しそうに会話をしているが、羽目を外すほど大きな声を上げているわけではない。話の内容は他愛もない思い出話のようだったが、話を聞いてみると、五人組の中の二人は、この萩と因縁があるような話をしていた。
一人の女の子は、先ほどの夏みかんジュースの喫茶店で、昔、アルバイトをしていたという。つまりは、その間、萩に滞在していたことになるのだが、その期間が、自分ではあっという間のことだったと言っている。
「私が最初に萩に来たのは、夏みかんジュースがおいしいと聞いたからなのね。でも実際に来てみると、この街の雰囲気に嵌ってしまい、そのまま滞在することになったのよ。その時のことが懐かしいわ」
というと、もう一人が、
「そうね。あなたは元々、一人旅が好きだったものね。何か一つでも気になることがあれば、行ってみたいと気が済まないタイプの行動的な人ですものね」
その言葉は聞きようによっては、皮肉にも聞こえる。しかし、言われた彼女はそんな意識はまったくないようで、
「あなたも、ここの焼き物に魅せられたんですものね。就職した会社で出張があれば、この街に来ることもあるんでしょう?」
「ええ、今から楽しみなんだけど、でも、好きなことを仕事にしてしまうことへの抵抗がないわけではないの。だから、少し不安でもあるのよね」
夏みかんジュースを出してくれる喫茶店でどんな会話になったのか分からないが、さっきまでの屈託のない満面の笑みに少し陰りが見えているのが分かった。会話の内容からして、そうそう満面の笑みばかり浮かべているわけにはいかないだろう。
焼き物工房の見学が終わると、皆宿に向かった。偶然にも彼女たちは修平と同じ宿に泊まっているようだ。これが他の街だったら、もっと安い宿に泊まるのだが、萩だけは特別な感じがしていたので、少し贅沢して、観光ホテルに泊まることにしたのだった。
その日はチェックインまでには時間が少しあったので、ロビー奥の喫茶店に彼女たちが入ったので、修平も一緒に入った。
そのうちに彼女たちの一人が、トイレに立った。その横顔は先ほどまでの笑顔はまったくなく、少し苦痛に歪んでいるような気がした。
彼女は、修平の座っている席の横を通り、トイレに入って行った。
その時、
「おや?」
修平は、一瞬の息苦しさとともに、息苦しさの元凶が血の臭いにあるということを連鎖的に思い出したことで、彼女が通ってできた一塵の風の中に、以前感じた血の臭いが混ざっていることに気が付いた。
――生理なのかな?
と思ったが、そのわりには、彼女はなかなかトイレから出てこなかった。
二十分、三十分と時間が過ぎていく中で、彼女たちがざわめき始める。その様子は尋常ではなく、その中の一人が何か事情を知っているようで、顔が青ざめていた。スタッフにトイレのカギを開けてもらい中を開けると、一人の女の子の悲鳴が聞こえた。
「キャー」
その声にビックリして「人が集まってくる。ホテルのフロントからもスタッフがやってきて、交通整理をしていた。そして、スタッフの一人が、
「大丈夫、とりあえず、救急車の手配を」
と、もう一人の若いスタッフに言いつけて、野次馬の人払いをしていた。
人が徐々に散々していくと、中の様子が少し見えてきた。
「!」
修平も一瞬息を飲んだが、それは、トイレの中に血が散乱しているのを見たからだった。その様子を見ると思わず嘔吐してしまいそうになったが、この惨状のわりに、スタッフの落ち着きが却って不気味で、その様子は、現場を矛盾だらけにしているように思えたのだった。
次の瞬間、息苦しさが襲ってきた。
「ハァハァ」
本当にこんなに息苦しいのは久しぶりだ。もちろん、血まみれの様子を見たのだから、修平の今までの習性から考えると、息苦しくなるのは仕方のないこと。しかし、同じ息苦しさを感じたのも、小さい頃に感じた意識よりも、中学時代にトイレで嗅いだ生理の臭いの時の方が、今と近い気がした。
ほどなくして救急車が到着した。しばし、ホテルのロビー付近は騒然とした雰囲気に包まれたが、救急車に運び込まれ、サイレンの音が遠くの彼方に消えて行った時には、すでにロビーは何事もなかったかのように平然としていた。
――こんなにも、ここは平然とした場所だったんだ――
と、いまさらながらに思い起こさせられたのを思い出した。
女の子五人のうち、二人が救急車に乗ってついて行った。残された二人は、これからどうするのかと思ったが、さっきまでの席に残って、さっきまでの注文を一度下げてもらい、いっぱいずつコーヒーを注文した。
知らない人から見れば、最初から二人の客だったということを信じて疑わないに違いない。もちろん、修平も例外ではなく同じことを思うだろう。そう思わない環境に出くわしたことを、偶然と言わずして何というのかと、考えていた。
さすがに先ほどのような満面の笑みというわけにはいかず、神妙な面持ちになっていた。会話もほとんどなく、それぞれに何かを考えていた。だが、どちらからともなく話し始めたことで、先ほどの惨劇の理由が少し分かってきた気がした。
「でも、私はさおりはてっきり自殺したのかと思ったわ」
一人の女の子が、
「さおり」
という名を口にした。トイレの中で倒れていた女の子のことだろう。
「そうね。さおりが悩んでいたのは、私もウスウスだけど気が付いていたわ。だけど、自殺じゃなかったにしても、今回のことは何と言えばいいのかしら? 許されることなのかしら?」
自殺ということになれば、本当に悲惨である。こうやって、彼女たちも喫茶店に残ってコーヒーを飲んでいるようなわけにはいかないだろう。ただ、彼女たちにとっても、さおりと呼ばれた女の子の行動は、いろいろ物議をかもしているに違いない。
「許す、許されないという問題よりも、さおりの気持ちの問題よね。かなり追い詰められていたのは間違いないけど、それにしても、相手のあることなので、私たちだけで何かの結論が出るというものではないわ」
――相手がある?
彼女はトイレという密室の中で、血まみれになった部屋の中で倒れていた。話の内容から、自殺という線は消えたが、女の子が悩んでいたことは事実であり、今回のことに大いに関係があることのようだ。
「裕子はさおりの気持ちの変化に気づいていた?」
裕子と呼ばれた女の子は無言で首を振った。
「さつきはどうなの?」
さつきと呼ばれた女性は、
「私は気づいていたわ。でも、まさかこんなことになるなんて、思いもしなかった」
さおりという女性は、体調不良だったのだろうか?
「さおりは自分でやったのかしら?」
「きっとそうね。でも、どうして今ここでしなければいけなかったのかしら?」
「私たちが全員いる時に決行しようと思ったのかも知れないわね」
「ということは、さおりは、私たちの中の誰かを疑っているということ?」
「そういうことになるわね。でも、少なくとも私でもあなたでもないということは、今の会話で証明されたわ」
「でも、さおりの思い違いなんじゃない?」
「それは大いにありうることだわ。でも、そこまでさおりが精神的に追い詰められていたのは確かなようね。だって、さおりの精神的な気持ちの変化に最近気づいていたにも関わらず、今回の旅行では、すっかりそんな素振りはなかったので、私は安心していたのよ。それを思うと、私はさおりが不憫で仕方がないの」
さつきという女性はそこまでいうと、考え込んでしまった。
その様子を裕子は黙ってみていたが、さつきの話を頭に思い浮かべているのだろうか。裕子の方もいろいろと考えていた。
話の内容から、二人が考えている内容は同じでも、次元の違いを感じる。さつきはより深いところで考えていて、裕子は、まだそこまで考えるには、遠く及ばない雰囲気だった。
二人が膠着状態に入ってから、結構な時間が掛かった。ここまで長いということを考えると、修平には別の考えが浮かんできた。
――裕子とさつきは、さっきまで考えが同じで、深さが違うだけだと思っていたけど、ひょっとすると、二人は別のことを考えているのかも知れない――
さおりのことを考えているのには間違いないのだろうが、同じさおりのことであっても、二人が感じているのは、根本から違っていることではないだろうか?
話の内容としては、どうやらさおりという女性は妊娠していたようだ。そして、ここのトイレでその子を生もうとしたのか、それとも、始末しようとしたのか分からない。本当にそんなことが可能なのかどうかも、男性の修平には想像もつかないが、ここに残った女性二人は分かっているようだ。
今日の会合は五人参加になっていて、sのうちの三人が、実際に子供を妊娠していたさおりという女性、そしてさおりに付き添いで病院までついて行った二人。そして、ホテルに残り待機している聡明そうなさつきという女性に、どこか控えめなところのある裕子という女性だということだ。
この五人がどこの人なのかまでは、まだ分からない。ホテルで会合していたということは旅行者なのかも知れない。ただ、ということになると、さおりという女性は旅先で、かねてからの計画を実行したということだろうか。
もし、旅行だということであれば、今回の騒ぎは計画されたものではなく、本当に妊娠している女性が体調を崩しただけのことなのかも知れない。旅行で疲れたのか、それとも普段との環境の違いから、体調が急変したのかも知れない。それにしても救急車を呼ぶというくらいのことなので、結構大変なことであったのは事実だろう。二人が救急車に乗ってついて行ったというのも、それだけ大変だということにもなるだろう。
そんな中、ここに待機している二人がいる。考えられることとすれば、五人は本当に旅行をしていて、さおりという女性に誰か連絡があった時のための待機とも考えられる。
彼女は妊娠しているということなので、結婚はしていないまでも、フィアンセの男性が「定時連絡」をしてくる可能性があるからだ。
普通の状態なら、携帯電話へ連絡を入れて、そこで連絡を取ればいいのだろうが、今の彼女は救急車で運ばれたということもあり、電話に出れる状態でもない。マナーモードにしていないとしても、彼女の所持品は、別のところに置かれていれば、電話が鳴っても分からないだろう。
連絡できないと分かった彼氏であれば、次に連絡してくるところは、旅行先の宿である。もちろん、彼女の友達の連絡先を知っていればそちらに連絡をしてくる可能性もあるが、病院にいれば、携帯電話の電源はオフにしておかなければいけない。そうなると、誰かが宿で待機しておく必要があるのだ。
宿に直接連絡してくるにしても、友達の携帯電話に連絡してくるにしても、ここにいるのが正解であろう。
もし、彼がさおりの友達五人全員を知っているとするならば、誰が病院に向かってもいいのだが、先ほどの付き添いを決める時の手筈として、
「私はここに」
と最初に言い出したのは裕子だった。そして、裕子の肩を抱くようにして、
「じゃあ、私も」
と言って残ったのが、さつきだった。
先ほどの話の内容から考えると、さつきの方がいろいろ知っているようにも聞こえたが、そうやっていろいろと考えてみると、さおりという女性と、相手の男性との間のことを一番分かっているのは、裕子のように思えた。ただ、裕子は二人の関係に親密に関わっているのかも知れないが、いかんせんその心境まで理解できていなかったのだろう。表情は冷静を装っていたが、見る限りでは、あまり状況をよく分かっていなかったようにも見えた。ひょっとすると、他人事のようにさえ見えていたかも知れないと感じるほどだ。
「それにしても、先ほどの焼き物工房で見かけた時は、別に何とも感じなかった五人なのに、あれから少ししか経っていないのに、かなり前から何らかの形で関わっていたかのように思える」
と、感じた。
さつきと裕子を見ていると、顔が心なしか青ざめているように思えた。特に裕子の場合は最初から青ざめていて、
「普段から目立たない女性を意識してみると、案外と皆、青ざめた顔をしているのかも知れないな」
と思った。
青ざめた表情というのは少し大げさかも知れないが、暗いという「負のオーラ」をまき散らせていたことは事実だろう。「負のオーラ」がどんなものかということはあまり意識したことはない。なぜなら「負のオーラ」を気にしてしまうと、自分まで暗くなってしまうのではないかと思い、なるべく目を背けてきたからだ。自己暗示に罹りやすい、修平らしいと言えるのではないだろうか。
修平は、さつきという女性よりも、裕子という女性の方が気になっていた。確かに「負のオーラ」をまき散らし、今までであれば、
「気にしたくない相手」
だったはずなのに、今回は最初から裕子のことを見つめていた。
もちろん、裕子に「負のオーラ」を感じなかったわけではない。最初から「負のオーラ」を感じていたから、顔を見た時、青ざめていると感じたのだ。むしろ今まで「負のオーラ」をまき散らしている人を凝視しなかったことで、その人がどんな表情をしているのか分からなかった。暗いという雰囲気だけがイメージされて、それこそ、のっぺらぼうをイメージしていたのだ。
だから、裕子を見て青白い顔をしているのが分かったことで、
「今までに『負のオーラ』をまき散らしていた人のほとんどが青白い顔をしていたのではないか」
ということは思わない。
ただ、どうして裕子にだけは最初から顔を向けようと思ったのか、そこが自分でも疑問だった。
「旅先だからかな?」
旅に出ると、開放的な気分になることは往々にしてある。普段過ごしているところとは違う感覚に陥るものだし、今回のように以前に訪れたことのあるところをまた訪れる時というのは、
「懐かしさを感じる」
という意味で、解放感とはまた違った、時間を遡るという感覚から、次元の違いすら感じさせるものだった。
裕子には、何かその懐かしさを感じた。
「以前、どこかで会ったことがあったのかな?」
という思いが頭をよぎる。
言われてみれば、
「どこかで見たことがあるような気がする」
と思えてきた。
しかし、それは、どこかで会ったことがあったのではないかという思いからの連鎖での発想である。
さらにもう一つ感じたのは、
「懐かしいと感じたのは、彼女の顔を見てのことだろうか? それとも、青白い表情を見ているうちに、どこかで見たことがあると思ったのだろうか?」
つまりは、裕子自身をどこかで見たことがあると感じたというよりも、裕子を見ていて、かつて青白い顔をした女性を見た記憶の中から、誰か一番印象深い人を思い浮かべて、どこかで見たことがあると思ったのかも知れない。
裕子という女性をじっと見ていると、さすがに裕子の方も修平の視線に気づいたようだった。
――いまさら気づいた?
鈍感と言えば鈍感に思えるが、裕子の中に怯えが生まれるのではないかと思っていたが、どうやらそうではないようだった。
――怯えというよりも、助けを求めるような懇願の表情に見える――
裕子は、青白い顔を修平に向けて、距離はあるが、まともに対峙していた。最初の頃のように、完全に目が泳いでいた時とはまったく違っている。怯えは残っているものの、誰かに助けを求める表情は懇願であり、懇願は修平の中からさっきまで感じていた裕子の中の「負のオーラ」を払拭するものであった。
それにしても、一緒に話をしているはずのさつきはそんな裕子をどのように感じているというのか。裕子の名前を呼んで、自分の方に意識を戻そうとする意識はないようで、裕子の顔を凝視していたが、その視線の先にあるのが修平だと分かると、何も話すことはなかった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか? 修平の方が我に返り、視線を裕子から離した。裕子も我に返り、正面を向き直り、笑顔を浮かべた。その時にはさっきまでの青白い表情はまったくなくなっていて、さつきを見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
と、さつきも裕子も何事もなかったかのような表情だったが、さつきが迎え入れた言葉に、疑念も逆らう気持ちもなく、素直に受け止めた裕子も、一言かわすことで、今までの時間が別次元であったことにしようと思っているに違いなかった。
修平はそれでいいと思った。
元々、目の前の二人は他人なのだ。
どこかで見たことがあったかも知れないが、少なくとも会話を交わしたこともない相手である。他人以外の何者でもないはずだ。
そして、修平も思わず、
「ただいま」
と声を掛けた。
そこには誰もいなかったが、誰もいない空間から耳鳴りのような、
「おかえり」
という声が聞こえたのだった。
その時修平は、どこか息苦しさを感じ、いつの間にか自分の顔が青白くなっているのではないかと思えてきた。少し気が遠くなってきたのか、意識が朦朧としてきた。そして、気が付けば、さっきまで目の前にいたさつきと裕子の姿は消えていた。
「あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう?」
意識が朦朧とした時間が分からないのでピンと来なかったが、どうやら自分が意識しているよりも短かったような気がする。独り取り残された修平は、ゆっくりと精算を済ませると、ロビーでキーをもらい、部屋に帰った。
気が付けば睡魔は最高潮に達していた。先ほどの意識が朦朧としたのも、睡魔のなせる業だったのかも知れない。そう思うと、その日は、シャワーを浴びるのも億劫で、何とか浴衣に着替え、ベッドに潜り込んだ。
そのまま深い眠りに落ち込んでいくのが分かった。今までであれば、どんなに睡魔に襲われようとも、眠りが深まっていく過程が分かるということはなかった。その日は眠りに就いていく様子が手に取るように分かり、夢の世界から、手招きされているような感覚に陥っていた。
「その時点で、すでに夢の中だったんじゃないか?」
とも感じたが、
「考えてみれば、夢を覚えているというのは本当に珍しいことで、もし覚えていたとしても、夢の最後は必ずボヤけているものだ。今日の夢は、目が覚めてもしっかりと覚えている。ということは、眠りに就いているという意識は、夢の中で感じたものではないということなのかも知れないな「」
と考え直した。
その時の目覚めは、意外としっかりしていた。
いつも目覚めの悪い方である修平は、完全に目が覚めるまでに五分は掛かっていた。
「まだまだ寝ていたい」
というもう一つの心が、そう自分に語り掛ける。それを押して目を覚まそうとするのだから、五分くらいかかっても仕方のないことだろう。
だが、その日は気が付けば目が覚めていた。
「まだまだ寝ていたい」
という心の声は聞こえなかった。逆に身体の気持ち悪さが先に来て、
「早くシャワーを浴びたい」
という声が聞こえた。
最初は分からなかったが、その声を聞いてから身体に気持ち悪さが残っていることに気が付いた。
ひょっとするといつも目覚めが悪い時も、本当は目覚めたいという心の声よりも先に、
「まだまだ寝ていたい」
という声が先に聞こえてきたために、その誘惑に打ち勝つための時間が必要だっただけなのかも知れない。
心の声というのは、いつも二つあって、その時々で違っていて、シチュエーションや精神状態の違いが大きな影響を与えているのだろう。そして、最初に出てきた声が心の声として自分の意志だと思い込み、その時に葛藤が生まれるのは、
「本当の心の声と違っているからではないか?」
と感じたとしても、それは無理もないことだ。目覚め一つを取ってもそうなのだから、毎日刻々と変化する日常では、無数の心の声が響いているのかも知れない。この日、一気に目が覚めたというのは、心の声と本心とが一致していたからではないだろうか。
ただ、もう一つ感じるのは、
「最初に感じなかった方の心の声は、最初に感じた心の声のせいで、記憶にも残らないものなのだろう」
ということだった。
今までにも目覚めがよかったこともあったが、そのほとんどは、熟睡できていなかったからであって、眠りが浅いのだから、すぐに目が覚めて当然というものだった。
身体に汗を掻いていたわけではなかった、いつ汗を掻いても無理もない状態だったような気がする。そう思って時計を見ると、まだ深夜の二時だった。
「草木も眠る丑三つ時」
とはよく言ったもの。しかし、今までにも修平は深夜の二時に目を覚ますことは珍しくなかった。だが、こんなに目覚めのよいことはなかった。いつもは目を覚ましても、そのままもう一度眠ってしまうことが多く、目が覚めると、
「夜中に目を覚ましたような気がする」
という程度にしか覚えていない。この時のような目覚めのよさは初めてだったが、その理由が、
「身体が気持ち悪かったから」
というのも皮肉な気がして思わず苦笑いをしてしまった修平だった。
昨日寝る前にシャワーは浴びていたが、今日は風呂に入りたい気分になっていた。この宿には露天風呂があり、深夜もやっているという話を聞いた。さすがにこの時間だと誰もいないと思い、浴衣姿で露天風呂に向かった。深夜ということもあり、もう少し寒いかと思ったがそうでもなく、露天風呂の脱衣所に到着するまで、浴衣だけでちょうどよかった。
露天風呂には、先客はいないと思っていたが、一人だけいるようで、脱衣かごに浴衣がぞんざいに置かれていた。だが、物音がするわけではなく、人の気配も感じられなかった。
それでも中に入ると、一人の男性がいるようで、湯けむりがシルエットになり、顔は確認できないが、確かにそこに誰かがいるのは間違いない。その男性は修平に気づかないのか、微動だにする様子もなく、動かないシルエットだけが湯けむりに浮かんでいた。
なるべくその男性を意識することなく、修平は手前の方に入った。その日の疲れが一気に吹っ飛ぶような感覚に、睡魔が襲ってきそうな感覚があった。手で湯を肩に掛けたり、タオルで顔を洗っているだけで、幸せな気分になれるのは、自分の気持ちよさを邪魔する何もそこには存在していなかったからだ。
シルエットの人物が気にならないと言えばウソになるが、温泉に浸かりながら、一人誰にも邪魔されずに幸せを感じることができるのは本当だった。不気味な感じはしていたが、自分が幸せを感じるのに、その人の存在が障害にならなかった。自分の気持ちがそれだけ自然に調和できている証拠なのか、それとも、その男性が気配を消すことのできる人だということなのか、修平にとって、どちらであっても、真夜中の温泉が新鮮であることに変わりはなかった。
男性はシルエットだけで、相変わらず気配を感じることはできない。まるで幻を見ているようだが、
「それならそれで構わない」
と思うようになった。
さっきは、ここまで来るのに寒さを感じなかったと思っていたが、温泉に浸かり、身体が芯から温まってくるのを感じると、寒くないと思ったのは、布団の中で温めてきた自分の身体にまだ温もりが残っていたからなのかも知れない。そう思うと今身体に沁み込んだ温かさは、温泉によるものであり、やっと昨日の疲れが取れたのではないかと思えるのだった。
修平は十分温まると、温泉を出て、部屋に戻った。それまで誰も温泉から出た様子もなく、それ以前に、シルエットの人物の気配すら感じなかった。シルエットはまだ湯けむりに包まれていたが、修平はそれに構うことなく浴衣を着て、さっさと自分の部屋に引き上げてきた。
今度は、温泉で感じた睡魔とは少し違った睡魔が襲ってきた。さっきまで寝ていた布団に身体を戻すと、一気に眠りに就いてしまうであろう。実際に布団に潜り込んでからの記憶はほとんどない。気が付けば、窓の外から、朝日が差し込んでいた。
温泉から帰ってきて、布団に潜り込んだところまでは覚えている。そして、徐々に眠りに就いていく自分の意識もあるのだが、目が覚めた時、窓から差し込んでくる朝日を見た時、どこか違和感があった。
「えっ、もう朝なのか?」
深夜に温泉に浸かり、身体に十分な温かさを宿したまま、心地よさに身を任せ床に就いたのだ。当然熟睡していたと考えてもいいだろう。そうであるならば、目が覚めて朝だったことに違和感を感じるなど、考えにくい。一体どうしたことなのだろう?
修平は、そんな自分が深夜に目覚めたことの方が不思議だった。目が覚めた時、夜中に起きたという意識がないほどの熟睡だった。夜中に目を覚ましたのであって、熟睡状態だったのなら、朝目を覚ました時、もっと寝ぼけていてもいいはずだ。
朝日が差し込んでいるのを見て、違和感を感じたのは、寝ぼけていたからではない。むしろ目覚めは爽快な方である。それなのに感じた違和感は、時間的なものでの違和感ではない。どちらかというと、
「時系列に対しての違和感だった」
と言ってもいいだろう。
修平は、夜中に目を覚まし、露天風呂に向かったという記憶はしっかりと残っているのだが、それが今から数時間前だということに違和感があった。
それは、昨日いろいろなことがあって疲れて寝てしまってから、朝までの間に目を覚ましたことに疑念を持った。いつもであれば、目を覚ましたとしても、気のせいだと思えてくるほど、そのまま二度寝してしまう可能性が高いからだ。それだけ身体に疲れが蓄積しているはずだからだった。
修平は、朝の目覚めも、悪いものではなかった。確かに家にいる時よりも旅行先での方が目覚めはよかった。大学卒業前くらいになってから、その理由が分かってきたのだが、
「目を覚ました時、普段なら家の天井が見えるのに、旅先では知らないところの光景が飛び込んでくる。だから、ビックリして目を覚ますことで、ハッキリとした目覚めができるんだ」
と思うようになった。
しかし逆に、
「寝ぼけているのでは?」
と思うかも知れないという思いもあった。しかし、旅先での方が熟睡できる修平は、
「熟睡できる方が、寝ぼけない」
と思うようになった。その理由はそれだけ自分が臆病だからだと思っている。
特に、仰向けになって寝ることが多い修平にとって、目が覚めて最初に目に飛び込んでくる光景は天井である。天井には模様があり、見慣れていない模様を目の前にするということがどれほど恐ろしいものか、実感している。旅行先でのサッパリとした目覚めのために、目覚めた瞬間に感じる恐怖が関わっているなど、すぐにはピンとくるものではない。目覚めた時には、最初に感じた恐怖はすっかりと忘れてしまっているからだった。
修平にとっての目覚めは、自分の状況を把握できるようになった時からを目覚めだと思っている。もし、寝ぼけていたとすれば、それは目覚めではない。元々あまり寝ぼけるということのない修平ではあったが、目覚めた場所であったり、目覚めた時間などが、すぐには思い出せないことも少なくはなかった。そんな時、意識は最初からあったはずなのに、自分の状況を把握できなかったということで、修平自身は自分で目覚めだとは認めていない。まわりの人が見ると、
「寝ぼけている」
と写るかも知れない。
だが、本人は決して寝ぼけているとは思っていない。少なくとも目を覚ましたわけではないのだが、夢の中というわけでもない。何とも中途半端な状態なのだ。
旅先では、あまりそんな中途半端な時はない。特に卒業前にやってきた萩での旅行では、寝ぼけていたなどということはなかったのだ。
目が覚めて時間を見ると、まだ六時前だった。朝日が差し込んできたと思ったのは、街灯の明かりであり、身体を起こして初めて、そのことに気が付いた。まだ少し寒さは残っていたが、今から朝風呂に入ろうという思いはなかった。目が覚めてしまったのだから、とりあえず、ロビーに出向いてみようと思った。
さすがに六時前というと、まだロビーは閑散としていた。奥に椅子があり、その向こうにはホテル自慢の綺麗な日本庭園が広がっている。夜間は綺麗にライトアップされていて、椅子とテーブルが、浮かび上がったように見えていた。
「露天風呂の帰りに、ここで座って行ってもよかったかな?」
とも感じたが、その時の心境を思い出そうとすると、急に頭痛が襲ってきて、思い出すことができなかった。
「おかしいな」
と思い、目を覚ましたつもりだったが、まだどこか夢の中にいるのかも知れないと思うと、とりあえず、目の前に浮かび上がった椅子に、腰かけてみることにした。
椅子に近づいてみると、さっきまで気づかなかったが、誰かいるような気がした。浮かび上がって見えていることで、大きな身体が椅子にもたれかかっているかのように見えていたが、セミロングの髪が靡いているように見えると、思ったよりも華奢な身体が、そこにいるのは女性であるということを示していた。そこにいたのが男性であれば、そこまではなかったが、女性であることを知ると、まるで妖怪変化のように思えてくる不気味さを感じていた。
影絵で見た指を重ねた時にできる犬のシルエットだったり、障子をシルエットにした人形劇だったりと、修平は子供の頃から、影絵は苦手だった。その時に見たシルエットに浮かび上がった女性を妖怪変化のように思えたのは、子供の頃の影絵の記憶がよみがえってきたからだった。
近づいてみたが、相手は修平の存在に気づかない。修平も気づかれないように近づいているつもりだったが、途中から気づかれてもいいように、大胆に近づいた。もし気づかれないように近づいて、寸前になって気づかれたら、却って驚かせてしまうことになる。それなら、最初から気づかれる方が、相手に対しても失礼ではないし、こちらとしても、いきなり驚かれることで、お互いに怯えに繋がることを避けたいという思いから、大胆になる方が、却って自然な気がした。
最初は、さほど距離はないと思っていたのに、近づくにつれて、意外と遠いことに気が付いた。ある程度の距離に近づくまで、まったく近づいたような気がしなかった。ちょうど、気配を消しながら近づいていこうと思った時であった。
相手の様子が分かるようになると、そこにいるのが見覚えのある人であることが分かってきた。
「裕子さん?」
声には出さなかったが、思わず声を掛けてしまいそうになった自分にドキッとしてしまい、後ずさりしそうになった。
それでも裕子は気づかない。自分のまわりに何が起こっても、今はまったく気づくことはないように見えた。
シルエットではあったが、その時の裕子には昼間感じた「負のオーラ」を感じることはなかった。
しかし、オーラ自体を感じない。そこにいるのは確かに裕子なのだが、気配を感じるわけではなく、目の前に見えているから、存在しているという認識でいるだけで、もし、
「そこにいるのは、裕子の幻だ」
と言われれば、素直に信じていたに違いない。それほど、その時の裕子には気配がなくなっていて、いかにもシルエットに浮かんでいる影絵を彷彿させるものであった。
それでも、裕子が修平に気づいたのが分かると、今までのシルエットではない。裕子が浮かび上がってきた。それは、昼間さつきと一緒にいた裕子ではなく、
「以前どこかで会ったことがあったような」
という思いを抱かせた裕子だった。
「あの、すみません。以前どこかでお会いしましたでしょうか?」
修平の聞きたいことが、最初の裕子からの言葉だったというのは、修平を驚かせたが、逆に嬉しくもあった。
――同じことを思ったんだ――
修平はずっと意識していたのに、すぐには思い出せなかったが、裕子は気づいた瞬間に、以前どこかで出会ったことがあると直感したようだ。修平が、以前どこかで裕子と出会ったことがあると感じたのは、そんな裕子から発せられたオーラで感じたのかも知れない。そうなると、もはや裕子から溢れているオーラは「負のオーラ」ではない。修平にとって、裕子と二人きりになるというシチュエーションは、最初から用意されていたことのように思えてならなかった。
「あなたも、そう思われますか? 実は私もそうなんです」
というと、裕子はニッコリと笑って、修平の表情を、すべて受け入れてくれるように思えた。修平は続けた。
「実は、昨日、喫茶店で皆さんをお見掛けしたんですよ」
その時、裕子と目を合わせたこと、「負のオーラ」を感じたこと、そして、裕子が自分に気づかなかったことなど、まったく話す気はなかったが、見かけたことだけは最初に言っておかないと、フェアではないような気がしたのだ。
――一体、何に対してフェアではないというのだろう?
思わず、自分に問いただしてみたが、その答えは出てくるわけはない。フェアというのは、相手との立場関係の元に考えるもので、裕子と自分の間に、どんな立場関係が存在しているのか分からなかった。だが、二人が同時に以前どこかで会ったことがあると思ったのは偶然ではないだろう。そうなると、それぞれに立場関係が存在していたことは紛れもない事実に思えたのだ。
「そうですか。大学の友達同士でやってきたんですが、五人のうち、三人は、萩の街を訪れるのは初めてではなかったんです。私も何度か来たことはあったんですけどね」
と、話してくれた。
「そういえば、昨日一人の女の子が救急車で運ばれたようだったけど、どうなったんだい?」
気になっていたことを、訊ねてみた。裕子は少し間を置いたが、
「ええ、大丈夫だと、少し遅くなってからだったけど、連絡がありました。でも、数日間は入院が必要だということで、私たちも、元々萩に数日滞在する予定だったので、入院している彼女とは別行動になるわね。でも、誰か二人は彼女の病院でついていることになるので、人数的には半々での行動になるかも知れないわ」
ということは、裕子とは昨日一緒にいたさつきという女性がペアになるのではないかと勝手に思っていた。
「さおりさんは、妊娠されていたんですか?」
その質問には、間髪入れずに裕子は答えた。
「ええ、妊娠していたようです」
その言葉には、重さが感じられ、誰かに質問されても、毅然とした態度で答えなければいけないという覚悟のようなものが感じられた。
修平は、妊娠という言葉を聞くと、なぜか小学生の頃、近くに住んでいたお姉さんを思い出す。
「俺にとっての初恋」
その思いは今でも変わらない。それだけに、お姉さんに対して抱いた淡い恋心と、気持ち悪く感じた血の臭いとのギャップに悩んだことを、いまさらのように思い出す。
「今のように知識を持っていれば、お姉さんに対しての思いも変わっていたかな?」
それは、好きだったという思いに対してではない。ギャップの負の方の感情である。気持ち悪さから、お姉さんに対して淫靡な印象を抱いていたことを、その時は分からなかった。
いや、分かっていて、自分で認めたくなかったのかも知れない。認めることが怖いという当たり前の感覚を、素直に自分で認めることができるのは、中学時代までだったような気がする。
認めることが怖いということは、それだけ自分が純情であるということを感じている証拠で、純情でなくなることが、大人になる一歩だという思いは、偏見であろうか?
あの時、修平の前からいなくなったお姉さん。修平に何かを訴えたかったような気がした。何かを訴えたとしても、まだ子供の修平に何ができるというわけではない。お姉さん自体も、まだ子供なのだ
だが、今から思えば、ある時からお姉さんの態度が明らかに変わった気がする。それは大げさなようだが、
「他の誰にも分からないことでも、俺になら分かったことだったんだ」
という思いから、
「明らかに違った」
という感覚になったのだと思う。
しかし、明らかに違っていたにも関わらず、何もできなかったのは、その正体が何であるか分からなかったからだ。まだまだ子供だったくせに、お姉さんを前にすると、ついつい背伸びしたくなる思いは、よほどお姉さんに、大人っぽさを感じたからなのかも知れない。
お姉さんがいなくなってから、学校の集会で、
「これからは、登下校に集団で行動するようにしてください」
という話があった。
それまでは、友達同士で登下校をしていたが、その時からは、学校で決められた集団に従って、登下校することになった。学校で決められた集団は、他の学年の生徒も混じっている。六年生から一年生まで、地区で決まった中に含まれていれば、集団に加えられる。四年生だった修平は、六人の集団の中に入っていて、上級生は六年生が一人、後は同じ四年生がもう一人、後は三年生と二年生で構成された。最初こそ違和感があったが、慣れてくると、集団での登下校は気になるものでもなくなった。まるで最初から集団で登下校をしていたかのような感覚に陥ったくらいだ。
前の年まで、お姉さんと一緒に登校していたはずなのに、その思いは遠い過去のように小さくなっていて、それが去年のことだという意識を持とうものなら、違う次元の出来事だったかのような印象を受けるのは、夢を見ている感覚に似ていたからなのかも知れなかった。
集団登下校をしなければいけなくなった理由を知ったのは、それから少ししてのことだった。
集団登下校が始まってから少しして、今度は通学時間になると、交差点や人通りの少ない場所などに、警官や父兄が旗を持って生徒を誘導する姿が見られた。いくら子供と言えども、その仰々しさに、
「何かおかしい」
という思いを抱かないわけはないだろう。
そして、そのうちに噂として、
「数か月前から、変質者が横行している」
という話を聞かされた。
特に小学生などの生徒をターゲットに悪戯をする輩だという。家に帰って母親に噂のことを聞いてみた。
「変質者が出るって聞いたんだけど、どんな人なんだい?」
すると母親は、
「詳しいことは分からないけど、一人で歩いている子供をどこかに連れ込んで、悪戯しているらしいのよ。犯人は男らしいんだけど、小学生が男の子であっても、安心はできないという話なの」
子供心に、
「怖いものなんだ」
という思いはあったが、実際に悪戯というだけで、どんなことをされるのかまでは分からない。したがって、想像の域を出ることはできず、どうしても話を聞いたとしても、それは他人事でしかないのだった。
どちらにしても、集団で登下校をしているし、警察官や父兄が見回ってくれているので安心なのだが、考えてみれば、それもいつまで継続してくれるか分からない。それだけに、警戒態勢が解かれてからの動向が恐ろしくもあった。ちょうど、学校の国語の時間に、
「天災は忘れた頃にやってくる」
ということわざを習ったばかりだ。
しかも、その時に先生から、
「ずっと何もないからといって安心していると、急に襲ってくることもあるから、普段から気を付けておく必要があるんだ」
という話を聞いたばかりだった。
もちろん、学校側も警察も分かっていることだろう。何しろ大人のすることなのだから、子供にも分かることくらい、分かっていて当然である。
もし、変質者がずっとこの街に潜伏していたとしたら、一度騒ぎを起こせば、ほとぼりが冷めるまで、何もしなければいいと思うだろう。そして、ほとぼりが冷めた時に、また行動を起こす。何度も同じことを繰り返していれば、警察の威信にも関わることなので、警察も全力を尽くすのだろうが、このイタチごっこ、本当にずっと続いていくのだろうか?
だが、今回の変質者は、無事に捕まった。これだけ警戒が厳しいにも関わらず、性懲りもなく、子供を呼び出して悪戯しようとしたのだった。
小学六年生のお姉さんがその被害者で、公衆トイレに連れ込まれるところを見ていた人が、警察に連絡して御用となった。時間的にそれほど経っていたわけではなかったので、女の子が受けた被害は最小限度に留められたようだが、精神的なトラウマは、確実にその女の子の中に残ってしまったようだ。
警察からは事情聴取を受け、マスコミから囲まれることもあったようだ。それまで明るかった女の子が、人と目を合わせることをしなくなり、次第に学校にも通わなくなった。時の人として担がれた代償は大きく、最後は逃げるようにして、家族で街を離れていった。今から思えば、絵に描いたような被害者の悲劇なのだが、あの頃の修平も、そして家族も、皆、彼女を担いだ一人だった。
「そういえば、一年前まで一緒に通学していたお姉さんが人知れず引っ越していく前も、同じような雰囲気だったような気がする」
小学三年生のあの頃には分からなかったことだったが、四年生になり、しかももう一度同じように晒し者にされて、逃げるように去って行ったお姉さんの姿が一年前の記憶とダブってしまい、
「お姉さんは、どんな思いでこの街を去って行ったのだろう?」
と思うようになった。
お姉さんが変質者に悪戯されたかどうかはハッキリとしないが、少なくとも、理由が分からないだけに、修平の中の最大の謎として残ったことで、
「今後、どんなに女性を好きになっても、お姉さんに感じた永遠の思いよりも強いものはないかも知れない」
と感じた。
理由が分からないということは、永遠という言葉を使うことができる唯一の手段であり、後戻りできないという意識を今後何度思っても、最終的に、気持ちはここに戻ってくることになるに違いない。
修平は、その時のお姉さんの顔を、
「永遠に思い出すことができなくなったような気がする」
と思っていたが、ある時、一度ハッキリと思い出したことがあった。
それは夢にお姉さんが出てきた時のことであって、夢から覚めても、その表情は頭から離れなかった。
しかし、それは一時期のものであり、二日もすれば、また完全に忘れてしまっていた。今度こそ、永遠に思い出すことはできないと思ったが、定期的に彼女の顔を思い出すことようになった。やはり彼女が夢に出てくるからだった。
夢の中では、修平は小学三年生である。しかし、夢を見ている修平は、自分が大人になって、大学に通っているという意識はあった。それなのに、夢の主人公としての自分は小学三年生で、夢に出てくる彼女は、小学六年生の「お姉さん」なのだ。
「これが夢というものなんだ」
夢の中の主人公である自分と、夢を見ている自分がまったく別の自分だという意識を持った時、目を覚ました時も、夢の内容を完全に忘れることはないのだと思うようになっていた。
その時のお姉さんの表情は、何とも言えない顔だった。助けを求めているように見えるにも関わらず、近づこうとすると、逃げ腰になってしまっているような表情。一貫しての怯えの表情に変わりはないが、見られたくないという思いが恥じらいを呼び、修平の方も助けてあげたいという思いとは別に、苛めたいという気持ちも分かる気がして、もし目が覚めるきっかけを自分から持ったのだとすれば、その気持ちに驚きを感じることで、目を覚ましてしまったのかも知れない。
怯えている相手に対して、助けなければいけないという感情とは別に、苛めたいという感情があることが自分の中にもあると知った時、
「オトコなら、誰だって同じような感情を抱くものなのかも知れない」
と感じた。
自分が苛めたいと思ったことに対しての、自分なりの言い訳なのだろうが、こう思うことは、
「誰でも変質者になる可能性がある」
ということを示唆していた。
いくら自分の感情に対しての言い訳で感じたこととはいえ、自分の首を絞めるような結果になってしまったことは、
「自分の中で隠し通せることを表に出してしまうと、現実的に自分で自分の首を絞めることになる」
ということに繋がってくる。
夢というものを甘く見ていると、このような連鎖をこれからも生まないとは限らない。なるべくなら、夢の内容は、目が覚めるにしたがって忘れていってしまいたいものだと思うようになったのはこの時からだったが、忘れたくない夢さえも忘れてしまうようになった。
いや、実際には、忘れたくない夢は忘れてしまい、忘れてしまいたい夢は、えてして中途半端に覚えていたりするものだった。
中途半端な思い込みは、ロクな結果を生まないという教訓のようなものなのかも知れない。
お姉さんの記憶を思い出すたびに、その表情には微妙な差があった。そのせいで何度も思い出すたびに、次第にお姉さんの本当の顔がどんな感じだったのかということを忘れてしまっていた。
記憶を曖昧にしたのは、自分の中の不安定な精神状態のせいであると思っている。したがって、完全に昔の顔が分からなくなってしまったのも、修平自身のせいだった。
「夢なんか見なければよかったのに」
夢を見ることによって、忘れたくないという意識が強くなり、
「いつまでも忘れないように、時々思い出すようにしたい」
という思いが、夢を見させたのだろう。
しかし、その思いは、忘れたくないという思いに付属してのものであって、絶対に持っていなくてはいけない思いではなかったはずだ。ここにも中途半端な思いが存在し、余計な思いを抱かせることで、結果的に最悪の結果を招くことになったに違いない。
修平は後悔していた。
後悔してもどうしようもなかったが、後悔をしなくなると、今度はお姉さんに対して感じていた、
「忘れたくない」
という気持ちまでも、忘れ去ってしまいそうに思うのが怖いのだ。
後悔しても始まらないが、後悔を終わらせることで、忘れたくないという思いを断ち切ってしまうことになるのであれば、後悔は自分にとって、必要不可欠なものであっても仕方のないことだと思うようになっていた。
だが、修平は、お姉さんのことで何を一体忘れたくないと思っているのだろう?
確かにお姉さんの顔や表情を忘れてしまったことは後悔に値する。しかし、それだけであれば、後悔を引きずる必要はない。何か、他に忘れたくないという思いがあるからこそ、後悔を続けてでも、忘れたくないという思いを持続させる必要があったのだ。
修平は、自分が小学三年生の頃の記憶を引き出そうとしていた。
あの時、毎日のようにお姉さんの家にいき、一緒に学校に通っていた。
お姉さんのイメージとして、どうしても忘れられないのが、血の臭いを嗅いだ時に感じた、
「大人の雰囲気」
だった。
血の臭いから、小学三年生の自分がどうして血の臭いを感じたのか、思い出せない。
「ひょっとすると、大人の雰囲気を感じたのは昔ではなく、後になってからなのかも知れない」
つまり、過去の記憶の時系列が、修平の中で固定化されてしまっていて、
「血の臭いを感じたから、大人の雰囲気を感じた」
という一連の流れを形成したのかも知れないという思い込みだった。
修平は裕子と仲良くなった。付き合ってみたいという思いがないわけではないが、それよりも、ずっと連絡を取り合っていたいという思いの方が強かった。自然な感覚で付き合っていければいいという軽い気持ちだったのだ。
裕子という女性は、友達の間でも人見知りする方だと言われていたようだ。初対面の人に心を開くことはまずない。何度か会って話をすることで、心を開いていくようだ。だかた、付き合うことになった相手がいたとしても、二人でデートするようになるまでには、結構な時間が掛かる。ただ、相手がオープンな性格の人でないと裕子は心を開かないというわけではない。どちらかというと、相手も静かなタイプの人の方が多い。お互いに似た者同士の方が、話をしていても分かり合えるのかも知れない。
修平とは、さつきと一緒にいる時に知り合った。さつきの中での修平の第一印象は、
「寂しさを感じさせる人」
というイメージだった。
しかし、すぐにそれは間違いであることに気づいた。
「感じていたのは寂しさではなく、相手に悟られないようにしなければいけないという思いが、閉鎖的に見え、寂しさを感じさせただけだったんだわ」
修平に対しての第一印象は、誰もが大差のないものだった。しかし、知り合っていくうちに、修平に対してのイメージは変わっていき、人によって、大きく二つに分かれるようだ。
「人を寄せ付けることをしない神秘的なところがある人」
と、感じる場合と、
「彼を見ていると、どんどん分かってくる気がする。それは、彼が私の性格と似ているからだわ」
という思いを感じる場合である。
どちらも最初のイメージから派生的に感じられたものだが、裕子の場合は後者だった。裕子のように修平の性格が自分に似ていると思っている人は、えてして神秘的に見られている人が多い。そういう意味では、派生したとちらも、まったく違っているように見えて、案外、似たところを秘めているのかも知れない。
裕子は、今まで男性と付き合ったことがないわけではない。ただ、いつも一緒にいないと気が済まないというタイプではなく、逆に男性の方に、ずっと一緒にいたいと思わせるタイプで、次第に近づいてくる男性に、次第に冷めてくるところがある裕子は、長く付き合っても三か月というほど、急に相手が嫌になったりしていた。
「裕子は、付き合いにくいタイプの女性よ」
と、さつきから言われたりもした。しかし、
「いや、まだお付き合いしたいというところまでは行ってないからね」
というと、少し考えてから、
「でもね。裕子と付き合った男性は、大体最初は誰もがそんなことを言っているのよ。男性の方が控えめというか、どこか、逃げ腰というか……」
と、気になることを言っていた。それでも、
――俺に限ってそんなことはない――
と、真剣に好きになったわけでもない女性に、気持ちを翻弄されるなどということはないのだと自分に言い聞かせていた。
裕子という女性は、それまでの修平の好きな女性のタイプを変えたという意味では、大きな存在になった。性格にいうと、
「タイプが広がった」
というべきなのかも知れないが、誰かを好きになったらその人しか見えなくなる修平にとって、最初に、
「好きな女性のタイプが変わった」
と感じたのなら、それ以外の発想は出てこない。シャットアウトされたと思ってもいいだろう。
さつきに言われた、
「逃げ腰」
という言葉が心に引っかかった。
確かに逃げ腰と言われるのが一番しっくりくる。別れることになった時のための言い訳だとしても、どこか空々しい気がするのに、それを分かっていて口にするのだ。逃げ腰という表現がピッタリな気がする。
裕子を見ていると、平常心の時は、友達以上の関係を築ける気がするのに、女性として意識してしまうと、まるで自分が、ヘビに睨まれたカエルのようになってしまいそうで怖いのだ。
今の裕子は二十二歳で、その時の修平と同い年だった。
だが、どう見ても、自分よりも五つくらい年上に見える。五人組の中でも一番落ち着いて見えるからだろうが、その理由が、
「彼女の魅力は、笑顔の時よりも、少し憂いに満ちた顔をしている時の方が際立っている」
というところにあった。
知り合ってすぐに、そのことに気づいていたはずなのに、意識として表に出てくることはなかった。そのことに気が付いたのは、連絡を取り合うようになってから、しばらく経ってからのことだった。
彼女とは、連絡を取り合っているだけでよかった。普通なら、段階を踏んで、どんどん相手に近づいていくものなのだろうが、裕子に対しては、下手に近づこうとすると、相手から拒否られるような気がして仕方がなかった。
「拒否られるくらいだったら、近づこうと思わない方がマシだ」
今までで、そんな風に思える女性は、修平にとって初めてだった。
青春時代の恋というのは、もっと燃え上がるような感情が表に出てくるものだと思っていた。それだけに、裕子に対しての感情は、恋ではないと思う。
しかし、この感情は、今に始まったものではなかった。誰かを密かに思う続けることが恋愛だと思って言う修平にとって、これが初恋ではないと思うからだ。
今までに、
「これが初恋だ」
と思うことは何度かあったが、そのどれが本当の初恋なのか、自分でも分からない。どれが初恋だったかなどということは、この際、あまり関係のないことのように思えた。
裕子という女性は、ショートカットの似合う女性だった。どこかボーイッシュなところがあるくせに、笑顔が可愛いと思える女性に対して、そのギャップから、好きになることもあった。
「ショートカットの似合う女の子は、ロングも似合うはずだ」
というのが、修平の理論だった。もちろん、根拠などどこにもない。しかし、まず自分がそう感じることが肝心だと思っていたのだ。
ということは、ショートカットが似合う女の子の条件というと、
「笑顔が可愛い」
というのが、今までであれば絶対不可欠な条件だったはずである。
しかし、裕子と知り合ってから、その思いは瓦解していた。裕子のように、
「笑顔の素敵さよりも、憂いを感じさせる表情の方が、彼女らしい」
と思える人もいるということを知ったからだ。
ただ、そんな女性といきなり付き合いたいとは思わなかった。むしろ、
「彼女は、俺にとってのアイドルなんだ」
という感覚の方が強くなる。
近づきがたい存在の人と、偶然知り合うことになるなど、想像もしなかった。だが、一度気になってしまうと、どんどん気持ちは近づいていくというもので、遠ざかっていくものなら、余計に引き付けておきたいと思う気持ちになるのも、このタイプのようで、実際に表に出ている感情と、秘めたる感情とで、ここまで開きがあるというのも、初めてのことだった。
さらに彼女の特徴としては、身体が華奢だった。初めてキスをした時、抱きしめたのもその時が最初だったのだが、あまりにも華奢な身体をしていることに驚かされた。
「少しでも強く抱きしめれば、折れてしまいそうだ」
今まで修平は、華奢な女の子を好きになったことはなかった。自分がスリムで痩せていることから、
「好きになる女性はグラマーなタイプの人だ」
と思ってきた。
ないものねだりというところであろうか。
胸もそれほど大きいわけではない。一種の「幼児体型」と言ってもいいだろう。
修平の好みのタイプの女性は、顔はあどけなさの残る女の子で、体型はグラマーな感じのギャップが好きだったのだが、裕子の場合はまったく正反対である。それでも正反対なりのギャップは、それなりに、修平の性癖を刺激したようだ。
裕子が修平と会う時、いつもワンピースにカーデガンを羽織っているようないで立ちだった。
「その恰好、とても似合っているよ」
というと、
「そう? そう言ってくれると嬉しいわ」
と、修平の方を見ることなくはにかんでいたが、頬にほんのりと浮かんだ紅潮した笑顔は、いつも魅力に感じていた憂いの表情に負けず劣らずの素敵な表情に見えた。
それから、彼女はいつもワンピースにカーデガンを羽織った姿に終始していた。
「俺のことを彼氏だと思っていないからできることなのかな?」
と、本当は嬉しいくせに、素直に喜べないことで、自分なりの言い訳を考えてしまう修平だった。
背の高い修平は、裕子と腕を組んで歩くと、髪の毛がちょうど、鼻のあたりにくる。その時に香ってくる芳しい匂いは、シャンプーだけではない、何か男心をくすぐるものを感じさせた。
付き合っているわけでもないのに、裕子は修平の腕に自分の腕を絡めてくる。
「俺たちって、付き合っていると思っていいのかな?」
と、修平が聞くと、
「ええ、私はそのつもりよ」
と、あっけらかんと言われ、拍子抜けしたことがあった。
確かに、最初は修平の方が付き合うということに少し違和感を感じていたが、次第に気になり始めてから、修平の方から、付き合おうという機会を逃してきた。それでも、裕子は友達のように接してくれて、その時裕子が、
「私たちは友達以上、友達未満ではないのよね」
という言い方をした時、修平は、
「それってどういうこと? 友達未満ということは、友達ではないということよね?」
と聞いてみた。
「ええ、そうね。でも、友達以上の友達を、男女間の友達という限定的なものにしてしまえば、この言い方も成り立つような気がするわ」
「ということは、男女間の友達というのは、一般的な友達という感覚とは違うということ?」
「私はそう思っているわ。友情の代わりに、男女の恋愛のような感覚が潜んでいてもいいような気がするの。だから、正確には、恋人未満と言ってもいいんでしょうけど、私の中では同性の友達よりも、少しランクが上のような気がしているので、そんな言い方をしたの」
と言われたので、
「俺たちって付き合っていると思っていいのかな?」
という言葉に繋がったのだ。
つまりは、友達から恋人同士になるまでには、ツーステップランクアップが必要なのだと裕子は言いたいのではないだろうか。
修平は、その時、手放しに嬉しかった。自分が考えていることよりも、さらに奥深いところで裕子は考えていたのだ。
裕子と付き合っているということは、他の誰も知らなかった。修平の友達はもちろんのこと、萩で出会った裕子の友達四人ともである。ただ、途中からさつきは気づいたようで、さつきにだけは、隠そうという意識はなかった。そのうちにさつきに裕子のことを相談するようにもなっていったのだった。
さつきは裕子とは似ていなかった。引っ込み思案な裕子に対して、常に表に出ているのがさつきで、本当であれば、さつきは裕子が男性と付き合うということなど、認めたくないタイプなのだろうと思えるほどだった。
そういう意味では、さつきは修平にどこか挑戦的なところがあるような気がした。ただ、さつきは女性である。男性とは一線を画した見方をするところがあり、特に男性に対しては、逆らえないと感じているような昔ながらのところがある女性であった。
さつきの方が、裕子に比べると、よほど女性らしい。そういう意味では、さつきは男性からモテた。しかし、修平のタイプではなかった。笑顔が似合うところが男性ウケするのだろうが、修平にはどこかわざとらしさが感じられた。
もちろん、さつきにそんなつもりはないのだろうが、修平にはそう見えて仕方がなかったのだ。
裕子と付き合い始めてから、裕子は自分の友達の話もしないし、修平の友達のことも聞いてこない。お互いに二人きりの関係を望んでいるようだ。
「他の男性なら、重たいと感じるかも知れないな」
そういう意味では、さつきと友達関係ができているのはありがたかった。裕子に黙って会っているのは気が引けたが、後ろめたい気持ちがあるわけではない。これも、裕子のことをもっと知りたいという気持ちの表れでもあるのだ。どこに後ろめたさなどあろうものだろうか。
修平は、きっと他の人が見れば、
「おかしな関係」
に見えるであろう関係を、少し楽しもうと思っていたのだ。
裕子と付き合い始めてから少しして、さおりが元気な赤ん坊を生んだという話を聞いた。肉体的にも精神的にもすっかり落ち着いたさおりは、元々、芯の強いところがある女性だということは、さつきからも、裕子からも聞かされていた。
それなのに、常軌を逸したような行動を取ったのは、それだけ追い詰められていたということなのだろうが、裕子やさつきの雰囲気と実際の性格のギャップを見ていると、修平には、さほど驚くべきことではないように思えた。
まだ肉体的には元に戻っていたわけではないさおりも、精神的に元に戻るのが先だった。
「その方がさおりらしいわ」
というのが、さつきと裕子の一致した意見で、今ではすっかり母親となって、毎日を忙しく過ごしているようだ。
父親は、最初からいないものだとして、さおりは真剣に一人で育てるつもりでいるようだ。それでも捨てる神あれば拾う神ありとでもいうべきか、パート先の上司から、好きになられているらしい。本人も相手のまんざらでもないと思っているようだが、いかんせん、子持ちということで、どうしても足踏みをしてしまう。
「相手の男性は、それも承知の上で、さおりがいいって言ってくれているのにね」
と、ため息交じりで裕子は話した。
「私も高校時代に好きな男の子がいたんだけど、私の親友も彼のことを好きだって言ったのよ」
裕子の性格からいけば、自分からまわりに言うようなことはしなかったはずなので、友達は、そんな裕子の気持ちを見越して、自分から先に言ったのかも知れない。二人の関係がどの程度のものなのか分からないが、先に告白した方が有利だという一般的な考え方からなのか、それとも、親友に気持ちを隠して相手にアタックすることをフェアではないと思うような女性だったのか、どちらにしても、裕子の方が不利であることは目に見えていた。
「それで?」
「彼を友達に譲る決心をしたのよね。元々私は自分から口に出して気持ちを表に出したわけではないので、簡単に諦めがついたの」
そんなことだろうと思った。そして、裕子は続ける。
「でも、彼のことを譲る気持ちになると、急に友達は彼に対しての気持ちが冷めてしまったっていうのよ。まるで私はバカみたいだって思ったの」
「本当にそう思ったの?」
修平は聞き直すと、裕子は苦笑いを浮かべながら、
「本当はね。友達に譲ろうと思うまでは、真剣に好きだったっていう思いはあるの。でも、譲ろうと思った瞬間から、私の気持ちは本当に冷めてしまったの。本当に彼のことが好きだったのかどうかも分からないくらいにね」
「その気持ち、分からないわけでもない気がするな」
「でも、友達は冷めてしまったから、私に返すって言ったのよ。私は一度も彼のことを好きだって言ったことがないのにね。そのことを友達に言うと、『私のその性格がイライラするの。だから、あなたから彼を奪ってやろうと思ったの』っていうのよ。私は何も言えなくなってしまって、その友達とはしこりができてしまって、それからは、友達として付き合えなくなってしまったわ」
「そのことを話す相手は、僕が初めて?」
「いいえ、さつきにだけは話したわ。でも、男性相手にこんな話を自分ができるようになるなんて、思ってもみなかったわ」
さつきは、自分から気持ちを表に出すことはしないが、しっかりしたところがある。それは、この時の経験が繋がってきているのではないかと、修平は思った。
「きっと、私のような経験は、誰もが一度は通る道なのかも知れないんだって、最近思うようになったの。だから、変に意地を張ったり無駄なことなんだって、さおりには伝えたいの」
「今の話をさおりちゃんにしてあげればいいのに」
「考え方や感じ方は人それぞれなので、迂闊なことは言えない気がするの。特にさおりのように、大切な人がいなくなり、精神的に限界に達して、自分でも想像もつかないような行動に出てしまったのだから、余計に話せないわ」
さおりの生んだ子の父親は、バイク事故で亡くなった。高校も中退していて、親からも勘当同然の扱いを受けていて、親としても、彼が芯で初めてさおりと、そのお腹の中にいる子供の存在を知った。
しかし、それはさおりにとって耐えがたい仕打ちが待っていた。
「あなたが息子をたぶらかして、死に至らしめたのよ」
という、狂気に満ちた精神状態に陥っていた母親から浴びた罵声は、そう簡単に立ち直れるものではなかった。まわりが必死で制止し、さおりに詫びを入れても、すでにさおりの耳には届かなかった。
その時のさおりの精神状態がどんなものだったのか、誰にも想像はつかないだろう。今回の旅行も、彼の死からしばらく経って、それでも抜け殻のようになってしまっているさおりに対して友達が計画したものだった。
計画当時は、まさかさおりが妊娠しているなど、誰も知らなかったが、旅行をしている最中に、皆、自然と気が付いた。
その時、さおりに対して、誰もが遠慮した態度を取ることで、さおりの居場所を奪っていることに誰も気づかなかった。彼女が想像を絶する行動に出たのも、仕方のないことなのだろう。
「さおりは、きっと私たちの態度のよそよそしさに、違和感を感じたに違いないわ。私たち、今までよそよそしい態度なんか取ったことはなかったもの。私もそうなんだけど、皆他人から受けるよそよそしさには敏感なの。特に友達となれば、なおさらだわ」
と言っていた。
まさしくその通りだろう。
裕子は、他人の話をする時、自分の話から入ることが多かった。自分の経験から話すことで、相手に説得力を感じさせたいと思っているようだった。
修平もその思いはよく分かった。
中学時代の友達だった下野隆も同じようなところがあった。まず自分の話をして、それから本題に入っていく。そんな隆の考え方に、中学時代の修平は傾倒していた。
それだけに、裕子の話し方は、相手が女性であっても、親友と話をしているような気分になれる。それが修平にとって嬉しいことであるのは間違いない。
「私は、高校一年生の時に、そんなことがあってから、友達は作らないようにしていたの。下手に作ると、煩わしさしかないような気がしてね。お互いに変な気を遣いながら付き合っていかなければいけないのなら、友達なんかいらない」
「その思いは俺にもあったよ。俺は中学時代に親友だと思っていた友達と、別の高校に行くようになって、そのことを感じたかな? 少しでも距離ができてしまうと、親友が親友ではなくなる。そんな思いに陥ってしまったんだ」
「どういうこと?」
「友達はこうでなければいけないって、無意識に感じていたんだろうね。特に親友ともなるとなおさらで自分の望んだとおりに動いてくれないと、一気に他人になってしまったような気がしてくるんだ。それが裕子が友達に彼を譲ろうと思った気持ちと同じだとは言わないけど、近いものはあると思うんだ」
「そうね。だから、私も修平さんも、自分のことを先に分かってもらって、相手の話を聞くような性格なのかも知れないわね」
「分かっていたのかい?」
「ええ、でも、本当は同じような性格なら、引き合うか反発しあうかのどちらかだと思うんだけど、私たちはどっちなのかしら?」
「少なくとも、お互いに思っていることを言える相手であれば、引き合うと思っていいんじゃないかって俺は思うよ」
「そうね。確かにそれは言えるわね。自分のことを先に言うことが多い私に対して、本音でぶつかってくれたのは、今までではさつき一人だったように思うの。さつきも同じようなところがあるって言ってくれたし、彼女の話を聞いていると、まるで自分にも同じようなことがかつてあったのではないかと思えてくるから不思議だったわ」
女性の間で親友という言葉が存在するのかどうか、修平には分からなかった。ましてや男女間ではどうであろう。裕子には少なくとも五人の友達がいて、親友と呼べるのは一人だけだ。それでも皆で旅行を楽しんでいる。
それに比べて修平は、最初は友達との旅行が多かったが、一人旅を覚えると、一人の方が断然好きになってしまった。今まで一緒に旅行した仲間を親友だと思ったことはなかったが、旅行している間は、
「いずれは、親友になれる相手だ」
と思っていた。
今までで親友と言えるのは、下野隆だけだった。彼とも高校に入学後、ぎこちなくなってから連絡を取っていない。お互いに変な遠慮があったのだろうか。それなのに親友だと思えるのは、それ以降、本当の親友と思えるような相手が誰一人として現れなかった。
そういう意味での女性の親友は、さつきになるのではないだろうか。
裕子とは付き合っている。裕子とさつきは親友である。そして、修平とさつきは……、親友だというのは、おかしいだろうか?
裕子が相手だと、なかなか聞くことができない話も、さつきが相手だと話すことができる。ただし、その話は、裕子に関係のない話に終始した。
ここで、裕子の話題を出してしまうと、三人の関係が一気に崩れてしまいそうな気がするからだ。
三人一緒にどこかに出掛けたことはない。そういう意味では、三人の中で誰が蚊帳の外かというと、
「裕子なのだ」
と修平はずっと思っていた。
しかし、実際にはこの場合の蚊帳の外は修平だった。
裕子が何も知らないと思っていたのは修平だけのことで、三人の関係を牛耳っていたのは、さつきだったのだ。
元々、さつきと修平の間での、誰にも言えないような会話の中に、裕子の話を混ぜないようにしようと言い出したのは、さつきだった。修平は最初、納得がいかないと思いながらも、すぐに承諾した。修平は、さつきと話をしている時、裕子の話題を出さないように言い出したのは自分なのだと錯覚した。そして、そのまま思い込んだようだ。なぜなら、錯覚の裏に、後ろめたさが存在したからだ。この場合の後ろめたさとはもちろん、裕子に黙って、さつきには何でも話せるという親友のような関係を持ってしまったということだった。
結果的に、それがさつきの思い通りに展開する形になった。まさか、すべてがさつきの頭の中で形成された計画であるなどとは思えないが、さつきの様子を見ていると、さつきの考え方をそのまま行動に移せば、本人が考えている以上の効果を生み出すことがあるということを分かっているかのように感じたからだ。
三人の関係の全体図が見えてきた時にはすでに遅かった。裕子との関係は、疲れ以外の何者も生み出すことのないものだった。そして、さつきとの関係も、気が付けばすべてさつきの考え通りに進展している。そのことは、修平の中にあるプライドが、どうしても許すことのできないことだった。
三人の関係は、そこで途切れてしまった。裕子との関係は、さつきの存在があろうがなかろうが、結果的には同じだったような気がする。つまりは、
「普通の男女の別れ」
だったのだ。
さつきとは、男女の関係になったわけではないが、男女間での親友としての関係を保っていけると思っていただけに、さつきが修平にした仕打ちは、修平のプライドを傷つけたことで、終息に向かうのは仕方のないことだった。だが、さつきに対して、どうしても忘れられない感情が同居していたのも事実だった。それが何を意味するものなのか、その時の修平には分からない。
――時が解決してくれる――
そう思うしかなかった。
そして、その通り、二人とは連絡を取り合うこともなくなり、気が付けば以前の修平に戻っていた。
――あの時間は何だったのだろう?
別に無駄に過ごした時間だったとは思っていない。かといって、何かを得た期間たったとも思えない。自分の人生の中で何を意味するものなのか、分からない期間だった。後になって思い出すこともあるだろうが、前を向いている限り、思い出すことはないに違いない。
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