隣で映画観ていた親友が可愛すぎたからキスしちゃった女の子の話

よなが

本編

 あやまちだと認めて謝るのは御免だった。

 

 いっそ、太陽が眩しかったからとでも言ってやろうか、それとも私は一羽の罪なき蝶で花の蜜を頂戴しただけなのだと開き直るのもありかもしれないし、あるいは口づける瞬間にチョコレートの香りがほんのりとしたのを教えてあげるのも誤魔化し方の一つだ。


「どっ、泥棒……!」


 生まれてこの方、私は泥棒呼ばわりされたことがただの一度もなかったはずである。

 十六年余りの人生のうちで最初の数年間の記憶は既に遠い彼方にあって、手癖の悪い赤子であったのなら、親や周囲から盗人扱いを受けた試しもないとは言い切れない。


「け、けだものだよ、彩瑛さえちゃん」


 続けて、けだものだと罵られてしまった。それが賛辞となり得るシチュエーションをいくつか検討してみたけれど、どれもこれも現実離れしている。


「な、なにか言ってよ」


 三日に一度は洗っているというクッションをぎゅっと抱きしめて、鼻から下を隠す文音あやねだけれど、その頬が真っ赤なのがわかった。

 ついさっきまで肩をくっつけ合って隙間のなかった私たちの間に一人分の余裕ができている。四人掛けのソファなのに二人で馬鹿みたいに小さく使っていたのだった。


 春の終わり、午後十時のリビングには私と彼女の二人しかいない。

 彼女の父親は短期出張中で、看護師である母親は夜勤の真っ最中。彼女にきょうだいはいない。そういう一人きりの時に、文音が私を泊まりに誘うのはこれまでに何度もあった。そして私が断ったことは一度もない。冬の日に、いっしょのベッドで眠ったことだってある。


「洗ってきていいよ」

「え?」

「だから、気持ち悪かったなら口許を洗ってきなよ。帰ってほしいなら帰る。絶交って言うなら絶交しよう」

「なんでそんなに冷静なの……?」


 私は軽く首を横に振り、そして深い溜息をした。それから深く息を吸いこもうとしたが上手くいかなかった。


 冷静なわけがない。

 親友のファーストキスを奪ってしまったのだ。わかっている。彼女がそれをいかに大切にしていたのかを知っている。

 どんなにクラスメイトたちがキスやその先について軽々しく話したって、どれだけドラマや映画の中で容易く口づけが交わされたって、文音が初めてのキスを特別にみなしていて、それを本当に好きな人とするのを心の底から望む、恋に恋する少女であるのを、傍にいる私が一番理解していたつもりだ。


「自分が何をしたのかわかっている?」


 涙目になった文音を見るのは二日ぶりだった。

 小学四年生の夏からの付き合いで、かれこれ六年近くになるからその表情を百回、いや二百回は見ている。

 泣き虫と言うと、虫が嫌いな文音は顔をしかめるのが常だった。中学生に上がってからは涙を零すことは少なくなったし、同じ高校に進学してからは私と二人きりの時以外は我慢している、精一杯。


「いいよ、はい」


 俯いてしまうと私までもが泣きそうだったので、震えた声でそう言って彼女に自分の面を差し出した。


「……なに?」

「殴りなよ。平手打ちでもいい」

「よくない。それでにする気なの?」

「わかんない。でも、悲しんでいるんじゃなくて怒っているふうだから」

「わたしは怒ったときに誰かを殴ったり叩いたりしたことなんてない」

「知っている」

「じゃあ、なんで!」


 あ、零れた。

 文音の瞳から涙がぽたぽたと流れ落ちる。そうでもないはずなのに、それを目にしたのはずいぶんと久しぶりな気がした。

 窒息するんじゃないかってぐらい強く、顔をクッションで覆う文音。でも、しないのはわかっていた。苦しくなったら顔からクッションを離す。そんなの当たり前だ。

 

 私はどこにどう逃げればいいのか、そもそも逃げたいのかわからないまま、呆けていた。目の前にあるローテーブルには個包装のチョコレート菓子がまだいくつか残っている。二人のグラスはともに空。底に残るわずかなオレンジ色。

 テーブルの向こう、暗い色をした木製のテレビ台に置かれた50インチ型テレビの画面上にはまだエンドロールが流れ続けていた。

 私たちが観ていた映画はヒューマンドラマとは言えたが恋愛映画と表現するには、何一つ駆け引きのないごく平凡な恋愛しかそこにはなかった。

 耳をすませば静かな音楽が聞こえる。その映画のエンディングにしてはゆったりとし過ぎている気もした。


 文音にキスしたそのときは世界から音が消えてしまったかのようだったのに、今では彼女の嗚咽も音楽も、アナログの壁掛け時計が針を進める音さえもクリアだった。

 なんとなく私は自分の左胸に手を当てる。穏やかな心音が憎らしかった。


「文音が……可愛かったから。だからもう、我慢できなかったの」


 消え入りそうな声が彼女に届いたかどうか怪しかったが、次の言葉を探していると彼女はクッションから顔を離して、目元をこすり、鼻をすすり、私を見ずに呟くのだった。


「犬や猫じゃないんだから」


 思わず「ごめん」と喉から出かかって、しかし飲み込んだ。

 私が可愛い動物を相手にキスするタイプの女の子ではないのを彼女は知っている。勝手にそう思い込んでいた。

 でもそんなのはわからない。だって、これまではっきりと表明したことがない。自分はどんなに犬や猫とじゃれ合ってもキスはしない人間です、だなんて。そんなのわざわざ言わないのが普通のはずだ。


 もしも文音が、女の子同士で遊び感覚でキスをする子なら私は彼女の唇を奪いはしなかっただろう。もしも文音が、その綺麗な黒髪や肌の手入れを怠って私の心をかき乱すいい香りをさせていなかったら私は肩を寄せ合わなかっただろう。もしも文音が春の夜にしては薄着で無防備にもその胸元を晒していなかったら、私はもっと映画に集中できただろう。もしもを連ねて結べどもその輪は私の首を絞めることしかできない。


 好きなの。好きなのよ。

 告白は声にならずに私の内側で泡のように弾けるだけだった。

 私より一回り小さな文音の華奢な身体を力いっぱい抱きしめて耳元で愛を囁けたら。でもそれは彼女を怖がらせてしまうかもしれない。綺麗な蝶を見る目ならまだしも、地を這う虫を踏んづけたときの眼差しを向けられるの耐え難い。


 私たちは友達で、そうでしかなかった。

 女の子同士の恋愛を彼女がどう思っているかを探ったこともない。諦めていた。それは彼女が私の想いに応えてくれることを、というだけではない。

 

 どうせこんな気持ち、なくなっちゃう。

 

 たとえば、と想像する。街でばったり容姿の整った男の子と知り合って、それで交流を重ねていくと、するりと彼に恋をしてしまう。そんな私自身を簡単に描きだしてしまう。頭の中で描きだせてしまう。

 別に街中でなくてもいいし、容姿だって平均的でもかまわない。明日にでもクラスの男子、ろくに話したこともない子から告白を受けてしまえば、その時は断っても後で意識してしまうだろう。

 流されない自信がない。ぜんぶ思春期のせいにしてもいいだろうか。


 でも、と思いとどまる。


 それで文音が応援せずに「やめなよそんな人」と言って、それで私の唇を奪ったのなら。そうしてくれたらきっと、私はそれが正しい、それがいい、それを待っていたと言わんばかりに彼女を抱きしめるのに。私は彼女を、彼女だけを好きであり続けるのに。


「彩瑛ちゃんはさ……」


 涙声の彼女。触れられない自分が情けない。その涙を拭ってあげられない自分が惨めだ。


 いつかの私は文音の涙声を疎ましく思った。それはまだ彼女と友達になって日が浅い頃。私からすると彼女が意味もなければわけもなく泣いては聞き取れない声で話し始めるのは、バッテリー残量が少ないスマホの電源を切ったり入れたりと繰り返すみたいだった。


 ハンカチを差し出したことは数度しかない。手を握ってあげた回数はもう少し多い。励ましの言葉を作ってぶつけてみた回数は同じぐらい。「黙って隣にいてほしい」とやっぱり聞き取りづらい声で求められたのは中学生になってすぐだ。たしか、通学路にあるレンガ花壇に咲いていたチューリップが夜の嵐でぐちゃぐちゃになった翌朝のことだった。


「誰が相手でも平気で、その場の勢いでこういうことするの?」

「しない」

 

 時間をかけてやっと言葉をついだ文音に対して、私は即答する。


「じゃあ……わたしだけ?」

「それは――――どうだろう」


 文音が無言でクッションを投げつけてきた。避けられる距離ではない。顔に直撃する。ずるっと落ちるクッションから彼女の匂いがした。


 目元を赤くしたまま睨んでくる文音。さっきよりもはっきりとした怒り。こんなふうな表情を最後に見たのはいつだったか。

 去年、私がソフトテニスの引退試合を目前に左足を捻挫した時に、心無いことを言ってきた男子にそんな顔をしていたっけ。

 すぐ泣いちゃうくせに強気で、でも基本的にはマイペースでゆるゆる生きていて、それで……。


 文音は睨んだまま、いきなり前ならえをした。器用にも両腕いっしょに私に殴りかかってくるのかと思ったのは一瞬で、それは綺麗な前ならえだった。

 けれどそれは本来、立っている時にするもので、ソファに腰掛け、そして相手に真っ正面からするポーズではない。

 戸惑う私に「ん」とだけ彼女は音を発した。惑いが増す。


「どうしたの……?」


 おそるおそる訊ねた。

 文音はいわゆる天然キャラではない。突拍子もない行動をして皆を驚かす子ではない。むしろ筋の通らないことを厭う子だ。


「だ、抱きしめてよ」

「なぜ?」


 私の反射的な返答に文音の前ならえが崩れる。でもその姿勢のほうが抱きしめやすい。そうだと頭ではわかっても行動には移れない。


「いいから」

「許してくれるの?」

「それを確かめるから」


 一歩も譲らない時の顔だ。大好きな顔だ。涙の跡が残っていても、それでも愛おしかった。

 

 私は慎重に、罅の入ったガラスの像を抱擁するような心地で、文音にゆっくりと抱き着いた。これまでの日々の中、彼女とのスキンシップでハグをしてきた経験がなかったといえば嘘になる。それは一般的には同衾するよりも遥かに易しい行為で、でも私が彼女を恋愛対象と見てからはできずにいたことだ。


「教えて、彩瑛ちゃん」


 甘く震えた囁き声は私の脳を溶かし、心臓を激しくかき鳴らす。


「遊びじゃない、そうだよね?」

「誘導尋問?」

「教えて」

「……遊びじゃ、ないよ」

「本気でいいんだよね?」


 耳をくすぐる吐息に私が下腹部を熱くしていることを彼女は知らないのだと思う。私はダメだと思った。彼女が私との恋、それに好奇心をそそられて、勢い任せで試してしまうようなことは。私が堪えきれずに彼女にキスをしてしまったのと同様に、彼女がこの場の空気に当てられて取り返しのつかない深みに落ちてしまうのは避けないといけなかった。抗わないといけなかった。


 でも無理だった。ゼロになった距離をまた無限にするのが嫌で嫌でしかたなかった。一番近くにいるのに遠い存在だった文音を今こうして抱きしめて、このままでいたいと自分勝手にひたすら想い続けて、その想いに釣り合うだけの気持ちを返してほしいと必死にすがりついていた。


 ふとエンドロールが終わって画面が切り替わるのが視界の端で見えた。かくして映画は幕を閉じたが、私たちはまだ何も始まっていない。


「好きなの。文音のことが好きで好きでしかたないの……」


 彼女の香りもぬくもりもこの肌に感じているのにその顔を見ることができないまま、私はとうとう愛を囁いた。


 文音が私を離す。解かれる抱擁に私は絶望的な展開を予期したけれど、彼女の顔を目にしてそれが杞憂であるとすぐにわかる。


「あのね、えーっと……ん、ん。やり直しを希望します」


 彼女がはにかむ。


「やり直し?」

「あんな不意打ちが初めてなのはちょっと」


 ちょっと、なんだろう。なんでもいい。そんな些末なことに気を取られている場合ではない。


「じゃあ、文音からしてほしい。そうしたら……」

「そうしたら?」

「文音からしてくれた最初のキスってことでファーストキスになる」


 詭弁だ。ロマンチックを装った屁理屈。


「私の本気も彩瑛ちゃんに伝えられて、一石二鳥だね」


 こつん、と額を合わせてきてそんなことを言う。映画のワンシーンみたいに。恋人たちの日常みたいに。私が夢見てきたように。


「ほら……目を閉じて?」


 恥ずかしい。視界に文音がいなくなるのが怖い。そんなことを言ったらどんな顔をするのだろう。きっとどんな顔でも好きになる。


「好きだよ、彩瑛ちゃん。大好き」

 

 彼女の唇、その柔らかさを何かに喩える必要はなかった。春の夜の夢は短く儚いものの喩えだけれど、この春の夜の現実が願わくは二人のこれからを照らす灯りになってよと、そんなふうに望んだ。

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隣で映画観ていた親友が可愛すぎたからキスしちゃった女の子の話 よなが @yonaga221001

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