唯一の居場所

若子

図書室にて

 私はどこにも行けないし、何にもなれやしない。物語の主人公になれはしないし、誰かの人生という物語に登場する人間にもなれない。すべてを諦めてしまって、差し込んできた光に自分から手を伸ばすのも疲れてしまった。なんの努力もしない、ただただ無気力に堕ちていく人間。それが私である。


 小説を読むたびに、漫画、歴史作品を見るたびに、そんなことを思う私はおそらく壊滅的に創作物というものに向いていないのだと思う。それでもここ、図書室が私の唯一の居場所で。この場所を私は気に入っているし、本を読むことこそが私の生きがいになっている。

 何故か。単純な話だ。何にもなれない私が何かを読んでいる時だけは劣等感を感じずにいられるからである。非現実的な世界に飛んでいけて、人の美しさに触れられる。小説はいい。誰かの物語は創作であれ現実のものであれ、非常に美しく、愛おしいものだから。

「……まるで麻薬のようね」

 それを読めば自分が苦しくなることが分かっているのに、どうしてもやめることができない。自らの手で本を選び、熱中し、そして焦燥感に駆られる。なんて馬鹿なことをしているのだろうと自分でも思う。

 本を机の上に置いて、天井を見上げた。真っ黒な天井にライトブルーの光が複数瞬いている。深海に浮かぶ海月。とこの天井を定義するならば、ここはさしずめ深海に沈む忘れられた図書室といったところか。人気のない、誰も管理をしていない、認識さえしてもらえないさびれた空間。この不思議な空間に最初こそ興奮したが、もう慣れてしまった。

「誰か、訪れてくれればいいのに」

 そう呟いて、自分で笑ってしまった。本心ではなかった。別に誰も来なくていい。誰も知らなくていいし、知るべきじゃない。ただ少しだけ。少しだけ、本が好きな誰かと話せたら素敵だと思ったのだ。一人の空間が何よりも落ち着くせに、何故そんなことを望むのだろう。物語によく出てくる仲間という存在にあてられてしまったのだろうか。

 まあそんなことはどうでもいい。次は何を読もうかと、ゆっくりと歩き始めた時だった。

 違和感を感じた。この世界のものではないような、異質な存在の気配がする。この場にいてはならない存在。恐らく、近づいては、ならない。けれどその違和感の元に足が動いてしまうのは、好奇心か、確かめて安心をしたいからか。

「……男」

 本に囲まれて、まるで最初からそこにいたかのようにその男は眠っていた。見た目からして15くらいだろうか。どこにでもいるような黒い髪に少しも焼けていない肌。大事そうに一冊の本をかかえて、普通に昼寝でもするみたいに安らかに眠っている。

「……嘘」

 だって、こんなこと。確かに願った。誰かと話がしたいとほんの少しだけ思った。けれど。ここは自分だけの空間だ。誰かが来るだなんて、そんなこと、聞いていない。

  昔、とあることを教えてくれた人がいたことを思い出す。曰く

「この世界のものではない存在は元の場所に半日で帰るんだ。帰る方法は…」

 この忠告を聞いたのは何年前だったか。ただまあ、その忠告通りならば。

 ゆっくりと息を吸って、吐き出す。放っておこう。とりあえずは、そのまま。まず離れて、問題なんてなかったのだと放っておけば、何とかなるんじゃないか。何も考えたくない。本だけ読んでいたい。

 そうっとその男から離れようとしたときに、その男の目がゆっくりと開いた。開いて、そしてその視線が私をとらえる。

「……だれ?」

「……あなたこそ、誰よ」

「僕はどうしてここに?」

「知らない……けど、まあ、半日で帰れるんじゃない」

「楽観的だなあ……」

 非常に不愉快だと感じた。自分の領域に他者に踏み込まれることは思った以上に不快なことだった。私には、ここしか居場所がないのに。その唯一の場所を荒らされた気分だ。

 その男は物珍しそうにあたりを見回した。

「不思議な場所だな。君はいつからここにいるの?」

「あなたよりも前からよ」

「ふーん?じゃあ一足先に帰るのは君かな」

 私も一緒に帰るのだと勘違いをしているらしい。まあこのどこの夢想家が何のために作ったのか突っ込みを入れたくなるような不思議な空間だ。この不思議空間を好み、この中で毎日のように小説を読みふける女がいるなんて誰も思わない。帰るのは違う世界から突然現れたあなただけですよと心の中で返事をして、近くにあった小説を一冊抜き取った。

 どうせ仲良くなれたとして、半日で終わる関係なのだ。仲良くしたところで、苦しいだけということは痛いほどわかっている。

「あ!」

「……何?」

「その小説、めちゃくちゃ好きなやつ!」

「え」

「いいよなあその作者の小説!僕大好きでさ、本当に使う言葉が綺麗で、思わずため息ついちゃうんだよなあ」

「……そうね。この作者の書く小説は本当に綺麗。言葉もだけど、その言葉を使って紡がれる心情描写が、特に」

「わかるわかる!一か月前くらいに発売された新作はもう読んだ?」

 ……近づいては、仲良くしては駄目。心を許してしまえば自分が傷つくだけだと、遠くで誰かが言った気がした。

「読んだよ。私にはちょっとわからないところもあったけど、とても感動した」

「わかる。あれは泣くよなあ。あの少年が母親の手をとるところなんて特に」

「そうね。……小説、好きなの?」

「もちろん」

 珍しい、と思った。それだけ。ただそれだけの話。男性が本を読むイメージはなくて、しかも異質なこの存在が本を好きだなんてとても意外で、興味をそそられた。それだけの話。

「……おすすめの本でも紹介してくれないか」

 その声がひどく不安にゆられていることに気が付いて、思わずその男の顔を見た。当たり前だ。私だってこの男が来て驚いたのだ。この男も、そうに違いない。しかも相手からしてみればここは異空間……しかも不思議な照明のせいで不気味さは増している。いや、あっちの世界の普通がどうなっているかなんて知らないが。反応を見るにやはりここはおかしな場所なのだ。私はこの時初めてこの男に同情した。

「おすすめ、ねえ」

 本を読んでいるときは現実を忘れられる。本を好きだというくらいだから、その没頭感は既に体感済みなのだろう。

 私は少し悩んで、家族愛が書かれた作品を手に取った。一瞬この学校の七不思議を集めたホラーでも薦めてやろうかとも考えたが、まあ、いいだろう。

「はい」

「……ああ、いいよな、この小説」

 なんだ、読んだことがあるのか。やはり怪談がのっている小説でも薦めておけばよかったなと思いながら、そのまま椅子に座った。

 男もそのままその本を読むつもりらしく、向かいの椅子に腰をおろす。互いに本を読みだして、各々小説に引き込まれていった。



「……帰れるのかな」

 ぽつりとつぶやかれたその音に、私は現実に引き戻される。男はもう既に小説を読み終えたらしい。

「帰れるよ。……帰りたい?」

 本から顔を上げることもせず、私はそう言った。どこかで聞いたような台詞だった。

「そりゃまあ、帰りたいよ。ここは本当に素敵な場所だけどさ、僕には夢があるんだ」

「夢?」

「そう。……小説家になりたいんだ。読むのも好きだけど、書くのも好きでさ。ほら、これは初めて製本してみた僕の小説」

 言いながら、大事そうに持っていた本を私に見せる。

 私にはまぶしすぎるな、と思った。夢を持った存在も、夢に向かって努力する存在も。希望を持った存在も、小説の中だけで十分なんだけど。と思った。夢も希望も何も持たない私にとっては、毒だなと心の中でつぶやく。

「君は不安にはならないの?帰りたいと不安に思うのが普通だと思うんだけど」

 普通。確かに、それが普通だろう。異空間に飛ばされたとして、帰れるのか、このままここで死ぬのか。不安になるのが、普通だ。

「帰ってもなあ、という感じだね」

 適当に相槌を打てば、闇が深いなあと返された。これ以上会話をする気力もなくなってしまって、私は一冊本を取り、男に渡す。

「お、これ読んだことない」

「それはよかった」

 それにしても本を見つけるのが早いねと褒められる。当たり前だ。何がどこにあるかくらい把握している。

 だけどそれは言わずに、ありがとう、とだけ言った。

 また、無言の空間が出来上がっていく。


 今度は私が先に読み終わる番だった。顔の向きは本に向けたまま、視線だけその男に動かす。

 どうしてこの男はこの空間に現れたのだろう。最初は私が願ったからだと思い軽くパニックになったが、本当に不思議だ。神の思し召しか。それともそういう周期みたいなものがあるのか。周期みたいなものだとすると本当に嫌だな。今回は友好的な人だったけれど、もっとひどい人が来る可能性だってあるのだ。憂鬱でしかない。

「あ」

 そう呟けば男の体がこわばった。ゆっくりと顔をあげて、こちらを見、そして私の視線の先を見る。

「今いいところなんだけど……持って帰れるのかなこの本」

「持って帰るのはやめてほしいかなあ」

 私たちの視界の先。ちょうど男が現れたところに、外の世界が広がっていた。

「田んぼ……これ、あなたがここにくる直前にいた場所?」

「多分そう。……うん、見慣れた場所」

 どこまでも広がっていくような田畑。日が傾いて空を焦がし、夜の到来を予告している。どこにでも行けるような、世界。

「……やっぱこの本持って帰れるか試してみるか」

「大丈夫だよ。ここにあるってことはそっちの世界でもあるから。」

 そういえば、男はじっと私を見る。

「おかしいよな」

「何が?」

「なんで君はこの空間に、何がどこにあるのかを把握しているんだ?……何故、半日で帰れることを知っている。どうして、君は……まるで」

「私はここに囚われているわけではないよ」

 自分に言い聞かせるためにも、強くそう言った。

「私は自ら望んで、ここにいることを決めたの。ここが、ここだけが、私の唯一の居場所」

「……どういうことだよ」

「私は帰らないと決めて、帰りたいと願った前任者と入れ替わったの」

 男はひどく動揺した。それとは正反対に、何か冷たいものがひんやりと私の心を覆っていく感覚がした。

 世の中に、どこにいっても馴染めない人間はいるし受け入れられない人間はいる。たまたまそれが私だったというだけの話。どこに行ってもお荷物で、人を不快にしかさせない。いつも何かに怯えている。それを見て人は私に狙いを定めるのだ。こいつは攻撃しても大丈夫な人間だ、と。

 誰も来ない私だけの空間こそが私の居場所になり得た。私はこの図書室から基本的に出ることは出来ないけれど、出ようとも思わなかった。前任者の人も、あまり外に出ることに乗り気ではなかったみたいだったので、似たような人がここに来るのかもしれない。

「私の話なんてどうでもいいでしょ。早く帰りな」

「……君は、これからもずっと、ここに囚われ続けるのか」

「あなたは優しい人だね。絶対苦労するよ」

「帰りたいと願えよ」

「どこにも居場所がないのに?」

 ぐ、と男は息を詰める。誰も私を救えないし、どんな言葉も私には届かない。そんなことは私が一番理解していた。

「ここは私にとって楽園なんだ。邪魔しないで」

「……そう、思いたいだけじゃないのか」

 ああ、うるさい。煩わしい。もう何も言わないでほしい。

「本当は、誰かと一緒に話したかったんじゃないか。学校で騒いで、何でもないことで笑って」

「あんたに何がわかる!!」

 気がつけば叫んでいた。こんなにも感情が昂ぶるのは、初めてのことだった。

「それを求めて、そんな普通の幸せを求めて努力して、努力して努力して……駄目だったときの絶望感が、貴方にわかるわけない」

 男が手に持っている、自分で製本したのだという小説を見て、心からそう思う。

 夢を追いかけるだけの余裕がある。その時間がある。製本だなんて、そんなの、日常的に罵詈雑言をあびせられてたら、できないもので。本当に腹立たしく思った。

「………ごめんなさい。声を荒らげてしまって」

「いや、僕こそ」

「でもね、努力じゃどうしようもないこともあるのよ。例えば貴方は多分私を連れて外に出ようとでも思っているんでしょうけど」

 ここの空間からは、一人しか出られないのよ。といえば、男は明らかに狼狽えていた。

 そういう節理である。どういう原理でこの空間ができているのかなんて興味もない。が、前任者はそういったことをいろいろと調べていたようで。初めてここに来たときは、それは詳しくここの空間について教えてもらったものだった。

「だからあなたは帰るのよ。……帰らなきゃ。心配する人、いるんでしょ?」

「でも、そうしたら、君が」

「一人は慣れているし、ここにいるのも慣れているよ。だから私は大丈夫。そもそも、外の世界のほうが怖いもの」

 元の世界に帰ること。男は踏ん切りがつかない様子だった。でも、大丈夫だ。そろそろ時間である。

 外の世界が、広がっていく。ここの人間を探し求めるかのように、図書室を覆っていく。相変わらずの不思議空間だ。深海を思わせるこの図書室に、外の、夕焼けの赤が入ってくるのは、なんとも異様な光景だった。

「なあ!君、それでいいのか!?」

「それでいいのよ」

 元の世界に男が取り込まれていく。体の一部分でも取り込まれれば抜け出せないようで、しばらくもがいていたが、それもすぐに無くなり、元の世界に取り込まれていった。

 体全てが向こうに行くと同時に、元の図書室に状態が切り替わる。あの美しい夕暮れ時などなかったかのように。先ほどまでここに私以外の人間がいたなんてなかったかのように、静寂があたりを包んだ。

「……私は、どこにもいけないし、何にもなれやしないのよ」

 ここに誰が来ても、幸せな気持ちで帰ることなんて出来ないだろう。そんなことは知っている。だから誰もここに来るべきではないし、誰も知るべきではないのだ。

 男が座っていた席をみると、本が一冊置かれていた。男が大事そうに持っていた本だった。少し興味をそそられ、表紙を開く。数ページ読んで、閉じた。

「あんなに楽しげに話していたのに忘れるなんて」

 まあいいか、と思い、図書室の一角。背の低い棚の上に、その本を立てかけた。

「……救い、ね。どうでもいいな」

 冷たく暗い海のようなこの場所で、私は一生を過ごすのだろう。私を助け出そうと地上から手を差し伸ばされることはあっても、その手が私を掴むことは無い。ゆっくりと、着実に。誰の手も届かないところまで、もうおちてしまった。

 ……私のことは忘れればいい。私のことを思い出さないで。私の知らないところで、ここの図書室でのことなんてなかったように。幸せになってしまえばいい。私と全くの無関係なところで、笑っていればいい。

「身勝手、かな」

 一人そう呟いて、さて何を読もうかと本の海へ足を運んだ。


「ねえ知ってる?学校の怪談、七不思議のひとつ」

「知ってる知ってる!図書室に閉じ込められちゃう話!」

「そこに迷い込んだら最後、二度と外には出られなくなっちゃうんだよね」

「違う違う。一人は出られるの」

「そうだっけ」

「そう。その図書室には絶対に一人ずつしか入れないし、一人ずつしか出られない。でもね、その図書室には最初から、一人、いるの」

「…ということは」

「その図書室の番人が先に外に出てしまえば、自分がその図書室に置き去りにされて閉じ込められるって話!」

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唯一の居場所 若子 @wakashinyago

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