第35話 沙織の謝罪

「だから、コウタが筆箱でやっつけたのよ、きゃんきゃんと泣き叫んで逃げて行ったよ、あの犬」


 それは結果であって、偶然が俺を助けてくれたのだ。


「実は俺、その頃、書道塾へ通っていてな。

 あの大きな筆箱には、たまたま大きな文鎮ぶんちんが入っていたんだよ」


 沙織は、俺の言う意味が、よく分からないという感じだ。

 ここまでじっと話を聞いていたしのぶちゃんが、一つ手を叩いた。


「ああ、なるほど、幸太さんの筆箱を噛んだワンコは、中身の文鎮を強い力で噛みついて、激痛を感じたってことですね」


 さすが、しのぶだとは思ったが、俺は少しからかってみる。


「いらっしゃいませ、しのぶちゃん」


「その言葉はやめてくださいよ、いじわるなんだから幸太さんは」


 しのぶは、軽く俺の腕をはたいた。


「ああ、ごめん、ごめん、つい調子に乗っちゃって悪い」


 その様子を見て、沙織が一旦いったん口をすぼめてから言う。


「ああ、また、二人の世界ができてる。

 なによ、その、いらっしゃいませって」


「ああ、これは最近始まったアニメの話さ、沙織は見ないだろ、アニメは」


 俺は、沙織を見てから、同意を求める感じで、その視線をしのぶちゃんに移した。


「アニメは最近あんま見てないから、どうでもいいけどさ。

 私が言いたいのはさ・・・

 小さい頃に何度も遊んだことがあるのに、あんたがあの時、私のことを全然思い出してくれなかったから、腹が立って、くやしくて、あんなことを言っちゃったけど・・・

 コウタを私が嫌う筈がないってことよ」


 こんなにしおらしい沙織を初めて見た。

 俺は予想外の態度を見せた沙織に、正直かなりとまどっていた。


「そ、そうなのか、、、」


 それしか言えなかったが、しのぶちゃんが、俺と沙織を交互に見て言う。


「良かったね、幸太さん」


 たぶん、良かったんだろうが、自分の気持にまだ整理がつかないまま、俺は言葉を発した。


「じゃあ、俺も悪かったってことで、あの時のことは、なかったことにしようか」


 しおらしくしていた沙織が、ぱあっと表情を明るくして答える。


「うん、わかってくれてありがとう、コウタ」


 さっき、良かったねと言ってくれた筈なのに、しのぶちゃんは口をへの字にしている。

 そして、姉の沙織にきちっと向き直ってから、クレームをつける。


「姉さん、幸太さんを気安く呼び捨てにするの、やめてくれない」


 沙織は妹に文句を言われても、まだ嬉しそうで、聞いて聞いてという感じで話し出す。


「だってさ、昔はお互いに、コウタ、サオリって呼び合ってたんだよ。

 確かに、私がコウタを追い込んだみたいになっちゃって、どうしようかと思って、仲直りの機会を探すつもりで、教室でもそれとなく、ずっとコウタを見ていたの。

 それなのに、全然視線を合わせてくれないから、謝れなくて困ってたんだ。

 だから、遅くなっちゃったけど、改めてコウタ、あの時はごめんなさい」


 その言葉にウソはないようで、沙織は頭を深々と俺に向かって下げ続けた。

 さらさらのロングヘアが、貞子みたいに頭を隠して見えて、少し不気味だったが、そんなことは言えるはずもないなw


「わかった。

 俺の方こそ、あの時は、きもくてごめん。

 それに沙織のことをすっかり忘れていたこともごめん」


 俺が頭を下げると、頭を上げかけていた沙織は、あわててもう一度頭を下げるのが上目に見えた。

 毒気を抜かれたように、俺たちを見ていたしのぶちゃんだったが、二人をちゃかすようにこう言う。


「謎は解けたよ、ワトソン君。

 新しいクラスで初めて一緒になったばかりなのに、姉さんが、幸太さんのフルネームを言えたのは、そういう過去があったからだね」


 沙織はうんうんと頷く。冷淡などころか、えらい素直な子だった。

 俺の胸がきゅんとする。

 そんな自分をごまかすように、俺はしゃべる。


「ああ、そういうことか。

 俺も、自分のことをフルネームで呼ばれたことを、後になって不思議だと思っていたんだよ。

 初日に、クラス全員の名前を覚える女には、この先も頭と口ではどうやっても勝てないだろうと、すげえ敗北感だったぜ。

 だから、それからは沙織を見ないようにしてたんだ」


 沙織はますます素直になって、自分の感情を隠す余裕が無いらしい。


「あの日に、フルネームを知っていた男子は、コウタだけだよ。

 女子に限っても、前からの友だち一人だけ・・・」


 そう言って、俺を見つめるが、これ以上はやめてくれ。

 俺の気持ちが、恋心に覆われてしまいそうだw


「じゃあ、やっぱりこれは幸太さんの方が悪かったのかも、女子的には」


 しのぶちゃんは、無表情にそう言った。

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