第4話 深窓2

陽がとぷりと沈んだ頃、途端に人間は不安や恐れに飲み込まれていく。それは彼女も例外ではなかった。用意された湯船の中で毎日毎日ひとりで消えない過去に脅かされている。か細いその身体のどこから溢れているのだろうか、蛇口から滴る水と共にボロボロと涙が水面を揺らす。


彼にだけは知られたくない、ボロボロの手や爛れた頬や傷跡の腕。そう、本当は誰にも触れられたくない。何度洗っても消えないシミが腕に広がっていくのがいつも見える。

ぬるりと滑る真っ白な石鹸を齧って削って飲み込んで。たくさん水を飲んで吐いて、飲んで吐いて、…… 何度も繰り返したのにどうして綺麗になれないの?どうして消えてくれないの?

……いたい、きたない、きたない!!!


彼が描く世界はあまりに美しい。でも、だから、……ねぇ、私だって何も見たくなかった!!!…… 彼は見えないから。こんなこと考えるのも酷いことだとは分かっているんだけど…… 彼が盲目で本当に良かった。そうじゃなかったら、彼と話すことも出来なかった。でも、やっぱり彼と彼の絵が見えないのは、それだけは嫌だ。でも、…… 私をもう見たくないのに。今すぐこの心ごと身体も全部、窓の外あの夜空に放り込んでしまいたい。



初めて彼の絵を見たのは、桜の花びらがシーツの片隅を染めた頃。いつも真っ赤な腕を持つ彼女には丁度良い花冷えの夜のことだった。そうしていつもより落ち着いた心音に、足は彼女を庭に向かわせた。

見上げると夜風に揺られた桜が彼女を覆った。その時だった、他より赤い桜が足元に飛んできたのは。辺りを見回していても、見上げても誰もそこにはいなかった。それでもこの病院で絵を描くのは彼だけだ、と全員が知っていた。彼女も勿論彼の顔が思い浮かんだ。

これは届けなければならない。そう本能的に彼女は思った。

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