第17話 陸の後悔
陸は学校からの帰宅途中に自衛隊市ヶ谷駐屯地に寄り、その正門で母を呼び出してもらった。今日は会議で遅くなると聞いていたので、まだ学校からのメールを見ていないだろうし、自分からメッセンジャーを入れてもすぐに反応がないと思い、駄目で元々、
「家族の者ですが、服部ソフィアと話したいのですが」
母の名前を伝えた。朝の道場通いで顔なじみの警備員や警備担当の隊員がいたので、すぐに連絡を取ってもらえた。母に内線をしてくれた隊員に、少し待つように言われ、靖国通りを行き交う自動車を見ながら待っていると、
「あら、どうしたの。家で一人でいるのが寂しいのなら、道場で練習していけば」
案の定、母は忙しくて個人スマホを見る余裕がなかったようだが、陸の呼び出しには、冗談を言いながら笑顔で出てきてくれた。ちょうど会議の合間とのことだった。
夕方遅い時間は防衛庁と自衛隊関係者以外にも正門前の通行量は多く、門扉の脇に立つ陸の母を見て、自衛隊のイメージとはそぐわないその容姿に、立ち止まったり、二度見する人もいれば、何かの撮影かと周りにカメラや撮影クルーを探す人もいた。今日は落ち着いた濃紺のパンツスーツを着ているが、息子の陸から見ても日本の職場で初めて見るそのすらりとした立ち姿はかっこいい(それがこの場合の適切な日本語か自信はないが)。
日本に来てからまだ一ヶ月、母との外出は数えるほどしかないが、外出時はブランドもののカジュアルなドレスを着ることが多い母は、歩いているだけですれ違う人の注目を集めてしまう。スイスではそんな経験はあまりなかったが、日本では外出の度ともなれば、陸も母への注目に慣れつつあった。しかし、学校のことで微妙な内容を母に相談しようとしている時に、この周りからの視線は少しうるさく感じた。靖国通りを渡る横断歩道の信号が赤になるのを待って、陸が今日起きたサッカー部での出来事と顧問の三浦に言われたことを母に伝えた。
「確かに、学校からメールが来てるわ」
母はスマホを取り出し、メールを読んでいる。趣味の読書では日本の文学作品を日本語と英語翻訳で読み比べるのが好きな母は、話し言葉ほど日本語の読み書きに不安はない。
「なぜ私がお詫びしなければならないの。その
陸もその理由を上手く説明できない。父を呼び出してもこの手の話ではあまり参考になる意見は聞けないだろう。こういう時に頼りになるのは日本の理解が一番深い祖父ということになる。
母に見送られ、一人で自宅に帰った陸が祖父とのビデオチャットで事情を説明し、対応を相談した。
「おまえの両親が電話だとしても、相手の家族に謝ると、たしかに、かえってややこしいことになる気がする」
しかし、部活の顧問から長谷川家に連絡をするように言われているのを無視するわけにはいかないと、祖父の下した判断は、陸が一人で千代の家にお見舞いに行くことであった。
そのことをメッセンジャーで母に知らせると、少しして返信が返ってきた。
「お義父(とう)さまは花を買っていくようにと言ってたのね。花もいいけれど、病院にお見舞いに行くわけではないから、食べ物がよいのではと同僚が教えてくれたわ」
三浦から知らされたであろう長谷川家の住所に加え、近所のケーキ屋のウェブサイトのリンクが母からのメッセージに貼られていた。個人経営のケーキ屋で、今日の営業時間はすでに終了していたが、母の同僚がケーキ屋に電話で事情を説明して、店を開けてもらっているとも書かれていた。そのケーキ屋に急ぎながら、陸は千代の怪我のことを考えていた。
(長谷川さんはせっかく部活以外の活動を少し我慢していたのに、結局怪我をしてしまった)
陸は自分の嫌な予感が的中したことに対し誇るどころか、強く責任を感じている。
(もっと早く気付いていれば、そして、長谷川さんに伝えていれば、あの怪我は未然に防げたはず)
あの当時は陸自身もなぜ千代のことで不安に感じるのか、なぜ千代に無理をしないでと言ったのか、正確には理解できていなかったが、今ならしっかり説明もできる。
千代の毎日の努力が千代自身のキャパシティを超えていたために、心身の中で一番負荷が掛る部分、もしくは一番弱い部分がその負荷に耐えられなくなり、怪我が起きてしまった。怪我をする前に千代がすでに危うい状態になっているのを陸が本能的に察したのだ。祖父から叩き込まれた古武術の教えと修業のお陰である。
相手をじっくり観察しさえすれば、陸でも達人の祖父ほどとはいかずとも相手の状態をある程度正確に把握できるが、実戦では限られた情報で瞬時に相手の力や状況を掴まなければならない。相手の状態を深く正しく捉える術は、多岐にわたる古武術の技の中で陸が最も苦手なことであった。その原因について、祖父から次のように指摘されていた。
「相手の心の内側にずかずかと入っていく感覚に陸が抵抗を感じているからだ」
この技は単なる観察力だけでなく、本人も自覚しない心の領域、無意識をあぶり出したり、そこに入り込む必要があるからだ。時にその相手のトラウマや悲惨な過去といったものまで見えてしまう。
「だから、陸はスパイに向いていない」
そう直接言われたわけはないが、祖父は陸が幼い時にすでにその性格を見抜き、スパイへの適性の有無は見抜いていたのだろう。やろうと思えばやれた陸の優しい性格を鍛え直す教育を祖父が敢えて控えたことを後に母から聞かされた。幼い時から自分もスパイになるつもりでいた陸は、中学進学を間近に控えたある日、両親もいるところで、近い将来日本へ行く可能性と無理に一族の家業を継ぐ必要がないことを祖父から言われて、最初は喜び、ホッとしたが、後からじわじわと淋しく、悔しい思いが湧いてきた。それ以降の祖父との修業に一段と気合が入ったことを思い出す。
(でも、結局この技だけは今でも全く上達していない)
日常生活で必要になるとは思わなかったこの技の未熟さで、まさかまた悔しい思いをするとは思いもしなかった。他の修行に比べ苦手意識から本腰が入らなかったのは間違いない(祖父も無理強いはしなかった)。この修業にもっと真剣に打ち込めばよかったという後悔の念が湧いてくる。しかし、その思いはすぐに
(でも、これが今の自分の実力ならば、もっと時間をかけて長谷川さんのことを観察して把握することだってできたはず)
という一歩前向きな悔しさへと昇華した。
徐々にその回数や時間は減ってきているとはいえ、学校生活に関してまだ分からないことが度々発生する陸にお世話係である千代は、いつも丁寧に説明をしてくれる。教室で何かあれば、まず千代を見る習慣が陸にはついていた。振り返れば、日本に来てから一番話をしているのは千代で間違いない。母や祖父母、従姉妹ともほぼ毎日話をするが、時間はかなり限られている。
(あれだけの時間接していたのに)
陸が千代と接した時間があれば、祖父なら十分過ぎる情報量であろう。でも、自分には足りず、千代の怪我を防げなかった。
(では、どうやって長谷川さんのことをもっと知ることができるだろう)
それを考えているうちにケーキ屋に到着し、母のメッセージに書かれていたオススメのケーキを購入し、代金を払うと、閉店後に店を開けてくれたことに対しお礼を伝えた。母のメッセージにも忘れないようにと書かれていたが、さすがに言われるまでもなく、陸もそうするつもりでいた。
今度は市ヶ谷駅に向かいながら、先程の考えに戻るとすぐに、
(忙しい長谷川さん相手に今以上の時間を見つけるのは無理だろう)
とすぐに結論が出た。ケーキを購入している間も陸の思考は止まらず、考え続けていたようだ。
(家族か恋人同士にでもなるのでなければ)
では、どうするか。
その対策を陸はすでに見つけていた。現状の接触機会や時間内で千代のことを素早く深く把握できるようになる。そのために、この技を磨く修業を集中的に行うというものである。もう苦手だと逃げてはいられない。
(長谷川さんの怪我の件が落ち着いたら、どのような修業が効果的かじいさまに相談しよう)
怪我が癒えれば、千代が再びサッカーの練習に、勉学にと全力で取り組むのは疑いの余地がない。しかし、完治までは少し日数がかかるであろう。修業の時間はある。
(もう長谷川さんに怪我をさせたくはない)
そこまで決意しながら、陸は
(こんな動機で修行をしたいと言ったら、じいさまは怒るかな)
と不安になった。祖父の反応や納得してもらう説明の仕方をあれこれ考えているうちに、
「結果は、目的の善し悪しや手段の巧拙をすべて流し去る」
という言葉を思い出した。これは祖父ではなく、父から聞いたものである。緻密さと情熱を併せ持つ父の言葉だけに、理想など存在せず、どんなに周到に準備しても思い通りには進まない、結果だけがすべての熾烈なスパイ社会の現実を垣間見る思いだった。
ならば、動機がどうあれ、祖父が孫に関して唯一嘆いたその心の弱さ(祖父は心の優しさと言ったが、陸自身はそう解釈した)により習熟が進まなかった古武術の技をマスターできれば、祖父も喜ぶのではないか。
やるべきことが決まり、今やれることがなければ、もうこの件でくよくよしていてもしょうがない。そう割り切れる陸は、JR市ヶ谷駅に着くと、家を出る前にさっと調べた千代の自宅までの経路をスマホで再確認した。そのまま自動改札でスマホを読み取り部分にかざして通りず過ぎると、ホームへの階段をケーキが崩れないよう気をつけながら小走りに降りていった。
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