第16話 千代と峰
自衛隊総務課での仕事を一旦切り上げ、病院に駆け付けた峰は、整形外科前のベンチに痛めた脚を伸ばして座っている千代とその脇にそわそわとした様子で立っている三浦を見つけた。千代の隣には松葉杖が立て掛けてある。三浦は峰に気づくと、
「学校や長谷川の自宅に連絡をとりたいので、代わりに付いていてもらえませんか。今、検査結果を待っているところです」
普段、峰と話す際にはその機会を存分に堪能する三浦だが、今はそんな余裕もないらしい。スマホの画面で電話番号を確認すると、小走りで通路を移動していった。
半蔵門高校の保健師をしている同僚の山崎から連絡があったとおり、峰を見上げた千代の目は赤く腫れていた。もう涙は止まったようだが、相当泣いたのだろう。
「もしかして、怪我を舐めているんじゃないかしら」
慰めの言葉がもらえると思っていたところ、めったに聞いたことがない厳しい峰の声色に千代はびくっとし、下を向いてしまった。峰には千代が病院に来るのに抵抗した気持ちがよく理解できたが、そのことには触れず、自分の昔話を始めた。
「私が怪我をしたのは、ユース代表の東南アジア遠征の試合中よ」
峰の声色にいつもの優しさが加わり、千代が顔を上げて、自分の目の前に立つ恩師を再び見上げた。
「ちょうど十年前、高校二年の秋のことだった」
千代が何か言いかけて口を閉じた。
「どんなひどい怪我だったのか気になるんでしょ」
千代が小さく頷く。峰の女子サッカー部顧問就任が発表されると、男子サッカー部の一人が峰の高校までの来歴、そして怪我で引退した記事をネットで見つけてきた。そのおかげで峰が女子サッカーのU18日本代表でフォワードのレギュラーであったこと、大きな怪我で現役を引退したことの二点は半蔵門高校サッカー部内で早々に知れ渡っていた。峰もそれくらいの情報は自分から話すまでもなく、今のネット社会なら部員たちに知られているだろうと認識していた。
しかし、それ以上詳しい話はネットでいくら検索してもほとんど出てこない。十七歳当時の峰の写真がネット上にいくつか残っていたので、それを見た男子部員たちがざわついただけだった。
一方、実際に指導を受ける女子部員の間では、医療技術も今とそれほど大差ない十年前に、ユース代表のレギュラーだった峰ほどの選手が大きな怪我とはいえ、そのまま現役を引退してしまった事情がなんであるか話題となった。サッカーの指導歴もネットには何も書かれておらず、怪我をして以降の情報は現役継続断念という記事にモデルデビューも、と書かれているだけだったからだ。
「最初はそれほどひどい怪我とは思わなかった。でも、怪我をしてから治療を受けるまでに十日もかかってしまったの」
その後の峰の話を聞いて、千代は峰の不運を自分のことのように悲しんだ。そして、怪我を舐めているんじゃないかと峰が最初に発した言葉が改めて千代の心にずしりと響いてきた。間違いなく自分は怪我を軽く、甘く見ていた。
試合会場が某国の地方都市であったこと、日本から同行した医療スタッフが家族の不幸ですぐに帰国してしまったこと、某国の医療水準の低さ、遠征チームの不十分な引率体制などが重なり、峰はすぐには帰国せず、怪我の治療をしないまま遠征に最後まで帯同することになってしまった。怪我をした直後の状態がそれほどひどく見えず、峰本人もできれば短い時間でも試合に出場したいと直訴していたことも災いした。遠征最初の試合中に受けたタックルで痛めた峰の膝は、日本に帰国するまで本格的な治療を受けられず、その結果、完治するまでに本来よりもずっと時間がかかってしまったのだ。
「父がいない私は、母に負担をかけないためにもサッカーで奨学金をもらって大学に行きたかったの」
そう話す峰は、進路先と奨学金を確かなものとするために、高校最後の大会、冬の選手権に間に合わせようと、怪我の完治前にトレーニングを再開し、再び怪我を悪化させ、それが致命傷となり、選手生命が断たれたことを淡々と話してくれた。
「母は世間知らずの上に生活のために仕事に追われ、当時、自分の将来を信頼して相談できる人がいなかった」
壁に掛る時計を見つめて、寂しげに話す峰の横顔を見ながら、千代は自分のサッカー人生を真剣に考えてくれる家族と恩師がいることの有難さを知った。
「オーバトレーニング症候群って知っている?」
「はい、聞いたことあります」
「私はあの当時、恐らくそれだったと思う。そのせいで非常に怪我をしやすい状態だった。怪我をする前からさっき話した事情で兎に角練習やトレーニングをし過ぎだった。でも、そんなものがあるなんて知ったのも、現役を諦めたずっと後だった」
千代は当時の峰の気持ちが手に取るように分かる。自分も海外のサッカーチームでプロになるためにあらゆる努力をしている。その上、父の方針によりサッカーで成功しない場合に備え、勉強や学校の活動にも並々ならぬエネルギーを割いている。
「だから、あなたには私の二の舞いをさせまいと気を付けてきたつもりだったけれど」
峰が千代に頭を下げた。
「ごめんなさいね。あなたの怪我を防げなかった」
峰に謝られて、千代は焦った。
「先生はいつも私の練習のやり過ぎを止めてくれました。でも、私は焦る気持ちからそれを物足りないと感じていたんです」
峰が優しい眼差しで千代を見ている。周りからもよく言われるが、見た目も含め二人は似ている点が多い。過去の自分と重ね合わせ、峰は教え子の中でも特に千代をかわいく思い、千代は経歴が似ている峰に憧れを持って師事する関係となった。
「だから、峰先生のいない練習では自分が満足するまでやってました。私こそ先生の意図や配慮を理解できずに申し訳ありません」
今度は千代が座ったまま峰に頭を下げた。
「私の怪我の経験をもっと早く話してあげればよかったかもね」
峰は一呼吸入れてから、さらに言葉を続けた。
「服部くんが参加するようになってからよね。練習での強度が更に上がったのは」
峰に指摘され、千代は陸のことを思い出した。陸がサッカー部に入ってくれ、一緒に練習するようになり、練習の質と強度があがったのは間違いない。頷く千代に、
「女子同士ではあそこまでの練習は無理。あの練習の負荷をもっと考慮すべきだった」
峰は自分の認識の甘さを悔やみ、苦い表情を見せる。その恩師の表情が先週市ヶ谷駅前で陸が千代に見せた心配そうな表情と重なった。
「実は先週、服部くんが私に無理しないようにと言ってくれていたんです」
「えっ、そうなの?」
「はい、その時は正直どういう意味か分からなかったのですが、今ならよく分かります」
峰は陸が千代のいっぱいいっぱいの状態を把握し、本人にその危うさを指摘までしていたことに驚いた。
「それに、この怪我だって、私が大したことがないと強がっていたのに、服部くんが三浦先生に病院で診察すべきと言ってくれたんです」
陸が千代の怪我の状態まで見抜いていたことに峰の驚きが増す。
「山崎先生だと思っていたわ、病院行きを勧めたのは」
「山崎先生のところに連れて行かれることにさえ強く抵抗してましたから、私」
千代は峰にそれらの経緯を話すことで、陸が自分のことをどれだけ気にかけてくれているかを身に染みて感じ、よい練習相手というだけでない、陸の存在のありがたみに気づいた。その刹那、千代はなにかにそっと心臓を掴まれるような感覚を覚えた。こんな気分になったのは初めてのことである。
千代の表情が優しく変化したのに気付いた峰は、
(もう、大丈夫そうね)
壁に掛かる時計で時刻を確認してから、千代の隣に腰を下ろした。峰の関心は千代の精神状態から陸が何者であるかに移り、陸に関して知っていることを頭の中で整理し始めた。少しして、診察室の戸が開き、顔を出した看護士が千代の名前を呼んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます