第15話 千代の怪我
駆け寄った三浦に対し、
「先生、大丈夫です。足が滑っただけです」
千代はそう主張するが、
「念のために無理しない方が良い」
三浦は千代本人より、怪我が悪化するとの陸の言葉を信じたわけではない。自主性という名目で何事も生徒任せの三浦だが、千代の言葉通りであって欲しいと強く願いながらも、心配性の性格から大事を取るという判断を下し、千代が立ち上がるのを許さなかった。三浦に呼ばれた大柄な女子部員数名が千代を助け起こして、一人が千代を
「少し休めば、大丈夫です」
大事にしたくない千代は、背負われまいと、脚を庇いつつ抵抗を示す。三浦は本人がそれほど言うならと、千代を背負おうとしている女子部員の動きを手振りで止めた。
「先生、長谷川さんをすぐに病院に連れて行き、診察を受けるべきだと思います」
一度は千代に突き飛ばされた陸だが、それにも懲りずに千代の隣に戻り、屈み込んで千代の脚の様子を改めて観察した上でそう主張した。その言葉に千代はその美しい眉を顰めて先程よりもさらに強く陸を睨みつけた。学校では見せたことがない千代の険しい表情に千代を囲む女子サッカー部員たちは驚き、千代が本気で陸に対し怒っていると感じた。二人の発言にしばらく考え込んだ三浦であったが、自分では判断が難しいと、
「とりあえず、保健室で診てもらおう」
改めて女子部員たちに指示して、抵抗する千代を保健室に運ばせた。
保健室のベッドに寝かされた千代の脚を保健師が慎重に触診している。その手が左の腿裏に触れた時、
「いっ」
思わず呻き声が漏れた。千代としてはなんとしても病院での診察を避けたかったので、平静を装っていたが、なにもしていなくとも激痛の走る腿裏を保健師に優しく触れられると、痛みを堪えられなかった。その声はベッドの脇に立つ三浦や少し離れた位置に立つ千代を保健室まで運んできた女子部員たちにも聞こえた。
「まだ腫れてはいないので、わかりにくいですが、軽傷ではなさそうです。すぐに病院に行ってください」
保健師の見立ては陸と同じだった。
「大丈夫です。少し冷やしてください。そんな大げさなものではないです。自分の脚なので分かります」
自分でもこれは軽い症状ではないかもしれないと感じ始めている千代だが、怪我は大した事ないと必至にアピールを続ける。病院行きをなんとか回避したい。
保健師と千代の顔を交互に見た三浦は、うなずく保健師の言葉に従い、
「車を保健室の前に回します」
車を取りに駐車場へ向かった。
千代が声を出して泣き出した。痛みのためではない。病院で診察を受ければ、週末の都大会決勝に出場できない可能性が高いからだ。
試合までに少しでも怪我が回復すれば、いや、たとえ回復しなくても、千代は試合に出るつもりでいる。いつものパフォーマンスが発揮できなくとも、自分が出場するだけで相手チームにはプレッシャーをかけられる。マークが何枚もつく。半蔵門高校女子サッカー部は決して千代のワンマンチームではない。都選抜に選ばれるメンバーが何人もいる強豪チームだ。自分が囮に徹していても、味方が得点を取ってくれるはず。先制すれば、守り切る守備力もある。それから自分は交代すればよい。いつものようには走れない自分は守備では役に立たない。いや、自分が前線に残っているだけで、相手は何人もマークを残す必要があり、それだけ相手チームの攻撃に割ける枚数が減る。脚の状態が多少悪くても、他のメンバーより自分の方がチームの勝利に貢献できる。日本ユース代表に選出され、都大会では得点王に立つ自負により千代は自分のいない半蔵門高校女子サッカー部が決勝の試合に臨むことが想像できなかった。それは千代だけでなく、他の女子サッカー部員とも共通の思いであった。それだけ千代の存在がこのチームでは大きい。だからこそ、脚の痛みぐらいで試合に出ないという選択肢は千代にはなく、試合に出て多少脚の状態が悪化しても、二ヶ月以上先の全国大会までに治せばよいと考えていた。これまで大きな怪我をしたことがない千代は、自分は怪我に強く、回復も早いはずと思っている。冬の選手権に出場して活躍するために夏休みの厳しい練習にも耐えてきたのだ。それなのに、病院で検査を受けてしまえば、たとえ重傷でなくとも週末の試合への出場は許されないかもしれない。夏の猛練習が、それは千代だけでなく女子サッカー部全員の練習が無駄になってしまう。悔しさとチームメイトへの申し訳なさで千代の嗚咽が止まらなかった。
「そう、あなた自慢の教え子が怪我をしちゃったの」
千代が三浦の車に運び込まれていったグランドに面した保健室の戸口で保健師の山崎がスマホ片手に話をしている。その相手は女子サッカー部の顧問である峰で、二人は何かあれば、すぐに連絡を取り合う関係である。
「うん、軽くはなさそうね」
山崎も峰同様自衛隊員である。保健師の資格を持つため、二年前から半蔵門高校の主任保健師不在時に半蔵門高校の保健室で勤務していた。今年からは他校に異動となった主任保健師に代わり、自衛隊に籍を置いたまま山崎が一人で半蔵門高校の保健の先生を務めている。今年に入り、男子生徒の腹痛と捻挫(という自己申告で保健室へ行く回数)が急増したと教頭が嘆いたが、それも全部すぐに治してしまうからと、校長は気にするどころか、山崎に感心しきりである。
「三浦先生が車で半蔵門病院に連れて行って下さったわ。心のケアはあなたの方でよろしくね。最初は病院行くことに強く抵抗していたし、最後はあの気丈な
部活動のない生徒たちが保健室の前を通って校門に向かっている。スマホを白衣のポケットにしまった山崎が生徒たちに手を振ると、嬉しそうに手を振り返してくる生徒が多いが、恥ずかしがって下を向いてしまう男子生徒もいる。
(あの抵抗ぶりの長谷川さんをよく保健室まで連れてこれたわね。優柔不断な三浦先生が)
そう心の中で呟きながら、山崎がグランドに目をやると、まだ部活道の終了時間ではないが、サッカー部が片づけを始めていた。
千代が去ったグランドは、なんとなく練習を続ける雰囲気ではなく、男子、女子ともに部員たちはばらばらと部室に戻っていった。その様子を見て、それぞれのマネージャーたちも練習道具を片付け始めた。
陸はマネージャーの手伝いをしようと、周りに散らばるボールを集めていた。
「触らないで」
女子サッカー部の備品であるサッカーボールを拾おうとした陸に女子サッカー部のマネージャー二人が鋭い声をあげた。手を止め、顔を上げた陸に、
「千代に怪我をさせておいて、一言もないの?」
「しかも、どさくさに紛れて千代に後ろから抱きついたりして」
非難の言葉を投げかける。
近くにいた男子サッカー部のマネージャーは、
「本当にそうなの?」
陸がそんなことをしたとは信じられない様子である。
「ごめんなさい」
陸は女子サッカー部のマネージャーたちに頭を下げた。とりあえずなんにでもお詫びの言葉を口にする習慣が陸に身に付きつつある。
「謝って済む問題ではないわよ」
謝罪の言葉を求められたのに、謝れば、言葉だけでは済まないと言われるやり取りを日本に来てから何度か見聞きした陸は、今自分でも初めてそれを経験した。それでもまだそのやり取りの意味がよく理解はできないが、これが日本のコミュニケーションの様式美なのであろうと思った。
「千代が重傷だったら、絶対に許さないからね」
二人は陸が拾おうとしたボールを奪い取るように拾い上げると、そばにいたくないとばかりに、別のボールを拾いに足早にその場を離れていった。
「私は千代が倒れるところを見ていなかったから分からないけれど、服部君がそんなことするはずないよね」
「はい、していません」
「そうよね。みんなショックで、だれかのせいにしたいのよ。それで服部君をやり玉にあげてるだけだと思うわ。千代が病院から戻ってくれば、誤解も解けるわよ」
保健室からではやりとりの内容まで聞き取れなかったが、女子生徒たちに邪険に扱われる男子生徒の様子を保健師の山崎が興味深そうに見ていた。
着替えを終えた陸は校門の脇で千代と三浦が病院から戻ってくるのを待った。少し離れた場所には女子サッカー部員が10名ほど陸を避けるようにして、同じく千代の帰りを待っている。
男子サッカー部顧問、三浦の車が戻ってきた。ヘッドライトに照らされた女子サッカー部員たちがまぶしそうに顔を背けた。三浦が助手席側の窓を下ろして、
「みんな、待っていたのか。長谷川は自宅まで送ってきたから、みなも早く帰るように」
「千代の怪我の具合はどうだったんですか」
女子サッカー部員たちは千代のこと、そして週末の試合のことが不安で、少しでも早くその答えを聞きたがった。三浦は後ろから車が来ないか、バックミラーで確認してから、首を横に振り、
「残念ながら軽傷ではなかった」
と答えた。その回答は女子部員たちをひどく落胆させた。
「長谷川の着替えや鞄を持ってきてくれないか。先生が自宅に届けてくる」
「ここに持ってきています」
女子サッカー部のマネージャーが後部座席のドアを開け、千代の荷物を座席に載せた。三浦は今度は運転席側の窓を下ろし、
「服部、先生が見ていたかぎりはお前の守備の対応に問題があったとは思わないが、お前とのコンタクトで長谷川が怪我をしたのは事実だ。両親にこのことを話して、長谷川のご家庭にお見舞いを兼ねてお詫びの一言を伝えてもらうのがよいだろう。長谷川家の連絡先などは後で、登録されている保護者のメールアドレスに送っておく」
頷く陸とは三浦の車を挟んで反対側にいる女子部員たちには、ちょうど校門前の道を大型のトラックが通過したため、三浦が陸に話した言葉の前半部分が聞こえなかった。怪我をした千代の家にお詫びの連絡をするよう三浦が陸に指示しているところだけ彼女たちの耳に届いた。
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