第13話 不安の正体2
「服部君は何て言ってたの?最初に千代に呼びかけたのは聞こえたけど」
ホームへの階段を下りながら、同級生の一人が千代に尋ねた。
「私もよく聞こえなかった」
その千代の返答に、
「でも、ありがとうって返してたじゃない」
「もしかして、また告白?」
朝夕千代と一緒にいることが多い彼女たちは、半蔵門高校に限らず多くの男子生徒と少しの女子生徒が登下校の間に千代に告白に来るのを目撃している。彼女たちがいる前で千代に告白する生徒は数えるほどで、ほとんど場合は二人で少し離れた場所へ移動し、少しして千代が一人で戻ってくる。ほぼ毎日のように繰り返される千代への告白は彼女らにとっては日常茶飯事と言ってよかった。
「服部君なら、スイス育ちだから、公衆の面前で堂々と告白しそうじゃない」
「たしかに、ありそう」
「いつもはおっとりしている服部君がさっき話しかけてきた時は心なしか強張った表情してたよね」
千代の同級生たちにとって、これは冷やかしや冗談ではなく、普段起きていることから判断して一番可能性が高いと思える推測であった。
「えっ、そんな表情だったかしら」
転校初日から陸と接している千代にとっては、やや不安げな陸の表情こそ見慣れている。
「服部君がなんて言ったのか聞こえなかったのなら、なんでありがとうなんて言ったのよ」
「それは、」
少しの間を置いて千代が答えを続けた。
「服部君の顔を見たら、感謝の気持ちを伝えたくなったの」
学校から市ヶ谷駅に向かう間、今日の試合形式の練習が話題となり、千代は陸のお陰でこれからはもっと質の高い練習ができそうと嬉しそうに語っていた。千代はクラスでは学級委員を務める優等生キャラだが、サッカー部の同級生たちにとっては、男女問わずモテまくっているのに恋愛に疎い一方、サッカーには恋するように一途な、それでいて少し天然な女子であった。そんな千代ならさもありなん。この状況で陸に感謝の言葉を伝えたことに違和感はない。
「服部君は千代の返事を聞いてすぐにあの場を去っていったよね」
「それに、千代の返事を聞いた服部君はほっとした表情を浮かべてたよ」
「もし、告白だったら、千代の言葉はオッケーっていう意味に受け取られてるんじゃない」
千代以外のみなが「確かに」と頷いている。
「私、どうすればいいのかな」
千代が心配そうに尋ねる。
「千代はそもそも服部君じゃだめなの?」
「千代には意外とお似合いだよ」
千代にアタックし、振られた生徒を半年だけで何十人と見てきている同級生たちは、しかし、千代の理想のタイプを知らなければ、好きな人がいるかどうかも聞かされていない。当然、そのような話題はこれまで何度も出たのだが、その度に千代が考え込んで黙ってしまう。自然と千代へのその手の質問は最近ご無沙汰になっていた。千代が恥ずかしがって隠しているとは思えず、理由こそ分からないが、本当に答えられないのだと同級生たちは受け止めていた。今回も千代からこれ以上の回答があるとは誰も思っていない。
「まずは本当に告白だったかどうか服部君に確認しなよ」
「明日学校で、昨日の話はなんだった?って聞くしかないね」
「服部君も天然キャラっぽいから、昨日の話ってなんのことって聞き返しそう」
「白ヤギさんと黒ヤギさんの童謡みたい」
同級生たちは千代からの返答など期待せず、千代と陸の話題で盛り上がっている。一人が「やぎさんゆうびん」の童謡を歌い始めると、千代以外の同級生もそれに倣って歌い出した。中には白ヤギ、黒ヤギの歌詞を千代や陸の名前に置き換えて歌う
(無理をするなって、どういう意味?)
先ほどのやりとりで、陸の一番近くにいた千代には陸の声がしっかり届いていた。頑張ってはいるが、無理をしているつもりはない千代は、陸がわざわざ駅まで戻ってきて自分にそう言葉を掛けてきた意図がわからない。ただ、陸の言葉はサッカーに関することであろうし、自分を気遣ってくれていることは伝わってきたので、お礼の言葉を返した。同級生たちに陸の言葉をそのまま伝えると、どういう意味かといろいろ詮索されそうで、陸の声は聞こえなかったふりをした。自分の恋愛の話をいくらされても気にならないが、サッカーのことにはあまり口を挟まれたくない。陸が千代に告白したのではと同級生たちが騒いでいるのを幸いに考え事に集中した。少し俯き加減にじっと考えに耽る千代の表情は、同級生たちには初心な戸惑いにも見えるのだった。
陸の気遣いの理由、そして練習中に陸との軽い接触で体勢を崩した原因をいろいろと考えてみた千代だが、どちらの答えも簡単には見つからない。電車に乗ってからは歌うのを止め、千代と陸の恋愛話を再開している同級生たちの会話が思案に行き詰った千代の耳に入ってきた。
「でも、サッカー部内でつきあっちゃうと、いろいろと大変よね」
「相手が服部君となると、これからは千代の直接の練習相手にもなるわけだし、二人が練習でやりあうのを見てたら、こっちが照れちゃうかも」
「服部君とは付き合わない方がいいってこと?」
千代が珍しく口を挟み、みなを驚かせた。サッカーの話題ならば積極的に発言する千代も恋愛の話となると、ほとんど会話に参加してこないか、何か言うにしても少しずれた答えをするのが常であった。
「千代は服部君のことどう思ってるの?」
千代の答えは期待せずに投げかけられた質問に
「練習相手としてとても頼りになりそう」
千代から再び答えが返ってきたことで、みなさらに驚いた。しかし、その内容はいつもの千代らしく質問の意図からずれた回答で、みなが笑い出した。
「千代のことだから、所詮そんなことだとは思ったわ」
「でも、千代が頼りにするなんて、うちの学校で一番千代に想われている男子は、服部君で間違いないかもね」
「もうさ、千代が満足する練習パートナーが彼氏ということでいいんじゃない」
「田中先輩なんか、千代に振られた上に、怪我までさせられちゃったからね」
今日の試合形式の練習で男子チームのディフェンダーとして千代のマークに付いた際、怪我をしてしまった二年の先輩のことである。
「踏んだり蹴ったりよね」
「私、田中先輩の足を踏んだり、倒れたところを蹴ったりしてないわよ」
千代が本気か冗談か分からない返しをして、さらに皆を笑わせた。皆の笑いに千代が怪訝な表情をしている。冗談で言ったのではないようだ。
陸は自分がとっさに口にした千代への気遣いの言葉に自身でも驚いたが、千代の返事を聞いて、千代もそれを自覚していることを知った。それならば、自分の不安の原因が千代であることも間違いない。確かに陸の目には学校生活全般で千代がかなり無理をしていると映っていた。それはサッカーに限らず、教室での振る舞いもである。陸が幼い頃から修行している古武術では心身ともに無理を一番戒めている。自らを危険に陥れる元凶であると。
(長谷川さんが自分でもその無理に気付いているのなら、もう心配はいらないだろう)
陸の不安感は鎮まった。それと入れ替わり、今度はわざわざ駅まで戻って千代に気遣いの言葉を伝えたことが急に気恥ずかしくなった。
(言わずもがなのことを伝えてしまった)
そんな後悔の念が一時陸の心を占めたが、
(不安をそのままにしておくよりずっとましだ)
靖国通りを渡る頃にはそう気持ちを切り替えていた。
「忘れ物か、落し物は見つかったようだね」
陸が防衛庁と自衛隊市ヶ谷駐屯地の正門前まで戻ってくると、すっきりした陸の表情を確認した警備の隊員からそう声を掛けれた。陸は何のことかわからず、しかし、隊員が自分のことを気に掛けてくれていることは理解できたので、
「ありがとうございます」
丁寧にお礼した。警備の隊員はにっこりと頷く。
祖父は千代とのやりとりをどう評価するだろうか。陸は今日の出来事を祖父に早くメールで伝えたく、自分以外は誰も歩いていない塀沿いの歩道を体の動きのリミッターを外し、急いだ。 頭が冴え、祖父へのメールの文案が次々と浮かんできた。
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