第12話 不安の正体

JR市ヶ谷駅で半蔵門高校の制服を着た男子生徒の一団が改札を抜けていく。生徒たちは後続の人たちの邪魔にならないようにと、ホームに降りる階段への動線から少し脇に逸れてから改札の方を振り返り、一人だけ改札の外に残った生徒に手を振った。

「またな、服部」

「じゃあな、陸」

 半蔵門高校に徒歩通学している生徒は陸を含めほんの僅かである。一人になった陸は自宅への帰路、今日はいつにも増して日本に関する学びが多かった上、サッカー部の同級生との距離が一気に縮り、そのうれしさのせいか、つい歩速が上がりがちとなる。周りから見れば、ぎこちなさなど微塵も感じさせない歩き方はしている陸だが、自分では強く意識してブレーキを掛けながら歩いていた。歩く速度を意識するたびに、母の愛車911カレラを思い出す。アルプスの山道をドライブしている時、母は助手席に座る陸に下り坂でエンジンブレーキや時にはサイドブレーキを使って減速するドライビングテクニックを楽しげに解説してくれた。

「アクセルもブレーキも踏み続けたら、馬鹿になるの。バカって、利かなくなるって意味ね。もちろん、アクセルとブレーキを同時に踏むのが一番車を壊れやすくするけれどね」

 珍しく信号待ちせず靖国通りを渡ることができ、陸は気分良く防衛庁と自衛隊市ヶ谷駐屯地の正門前を通り過ぎる。陸の生まれ育ったスイスは町中でも信号が少ない。タイミングが悪いと一分以上待つことになる靖国通りを渡る信号は、最初こそ物珍しく感じた陸にとってもすでにあまり愉快なものではなくなっていた。陸と一緒に信号を渡ったほとんどの人はパスを見せながら防衛庁と自衛隊市ヶ谷駐屯地の正門を潜り抜けていく。この時間、正門から西に延びる塀沿いの歩道を歩いているのは、いつものように陸一人である。

 周囲に人がいなくなり、陸は歩みを加速させていく。祖父から日本では周りの人の歩くスピードに合わせるよう厳命されている。祖父と陸が日本に帰ってきた日、空港で二人に付いていこうとした男性が転んでしまったことが直接の理由だが、他人の言動を気にする日本で必要以上に目立たないためでもある。その加速は、ギアを上げるというよりは頭の中で掛けていた体全体へのブレーキを解除するイメージである。そうすることで、頭の回転から五感まで抑え込まれていたものが一気に開放される感覚を覚え、陸は本来の自分に戻った気分となる。

(何かまずいぞ)

 歩く速度を上げてすぐに強い違和感が込み上げてきた。立ち止まって、辺りをキョロキョロ見回す。怪しい人影は見当たらない。

「気のせいか」

 陸は呟き、歩みを再開した。しかし、数歩進んだところで再び足を止めた。陸は塀に寄り掛かり、腕組みしたまま靖国通りを疾走する車を目で追ったり、頭上に茂る深緑の木々をぼんやり見つめた。考え事をする時に何かを眺めながら腕組みするのは陸が祖父から引き継いだ癖である。

 最初は誰かに後を付けられたり、死角から狙われていることを疑ったが(一族の職業柄、後者の可能性も子どもの頃から叩き込まれていた)、その気配はない。それではこの不安感はどこから来るのか。しばらく考えたがすぐに答えは見つからなかった。この状態では祖父や従姉妹たちにこの違和感、不安感を相談したところで、その正体は掴めない気がする。分からないことはできる限りその場で解決すべし。時間が経つほど解決は難しくなる。祖父の教えに従い、陸は今来た道を学校の方へ戻り始めた。

正門前で警備に当たっている自衛官の一人は、早朝の警備で道場に通う陸とは面識がある。先程うれしそうに帰っていった陸がなぜかあちらを見たり、こちらを見たりしながら戻って来る。何か忘れ物か落とし物でもしたのかと陸に尋ねた。陸は上の空で生返事を返しただけで、信号が青になると、駅の方へと靖国通りを渡っていった。


 お濠とお濠端を走る中央線および総武線の上に架かる市ヶ谷橋を渡り、 陸は市ヶ谷駅前まで戻ってきた。ふと駅から南西に延びる坂を見上げる。坂の東側に立ち並ぶビルが西陽に照らされ、眩しく輝いていた。

「服部君、どうしたの」

 その声で見上げていた視線を戻すと、ビルの影に信号待ちの一団が立っている。信号が変わり、千代と数名の女子サッカー部員が陸に手を振りながらゆっくりと横断歩道を渡ってきた。陸は先程感じた不安の原因が千代だと直感した。千代の姿が視界に入るなり、ざわざわした感情が強まったのだ。原因は千代で間違いなさそうだが、どうして千代のことで気持ちが落ち着かないのかまでは分からない。千代たちが近づいてくる。なにか言わなくては···

「長谷川さん、あまり無理をしない方がいいと思います」

自分が咄嗟に口にした言葉に陸自身が驚いた。歩行者用の信号の青色が点滅し出し、横断歩道を急いで渡ろうと、立ち止まっている陸と千代たちの間を何人も駆け抜けていく。その往来の喧騒に陸の声はかき消され気味となる。

「ありがとう」

 千代が陸にそう返した。陸は千代の言葉を聞いて安心したのか、軽く頷き、市ヶ谷橋の方へ戻っていく。その後ろ姿を見送った千代たちも再び歩き出し、そのまま駅の改札口へ吸い込まれていった。


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