第6話 女スパイ
授業が終わり、多くの生徒が部活に参加するために、一部の生徒はまっすぐ帰宅するために教室から出て行った。祖父の指示でサッカー部に入ることを決めた陸だが、eスポーツ部も諦め切れない。職員室に行き、担任教師に部活の掛け持ちができないか相談することにし、席を立った。
「そうだ。服部くん、結局サッカー部には入るんでしょ」
学級委員の長谷川千代は六時間目の授業、古文の教師から教卓の近くで何か指示を受けていたが、それが終わり、席に戻ると、陸に話しかけてきた。
実は、朝の会話以降、二人の会話は、陸がわからないこと、知らないことを千代が説明する必要最低限のやりとり以外は皆無であった。昨日のホームルーム中はメモを渡してまで質問をしてきた積極的な千代だったが、授業態度は真面目そのもので、私語は一切ない。放課中は、まずは陸が困っていないか様子を確認してからではあるが、大丈夫そうであれば、わざわざ陸には声は掛けずに、提出物を集めたり、職員室に行ったりと学級委員として忙しそうである。
千代としても朝の陸との会話が途中で終わってしまい、陸の部活のことが気になって、早く確認したかったが、最後の授業が終わるまでその余裕がなかった。わずかな隙間時間に急かして聞くことでもないとの思いもあった。
「入るつもりです」
陸の言葉に千代が安堵の表情を見せる。
「正式な入部がいつから可能か、職員室に聞きに行きましょうよ」
「ちょうど職員室に行こうと思っていました」
二人は連れだって職員室に向かった。気が急いていると歩くのが速くなる千代は、よく友達からそれを指摘されるのだが、しまったと、歩みを緩め、隣を歩く陸に謝った。
「ごめん。速かったよね」
「いえ、そんなことはないです」
同じように強がる男子を何人も見てきた千代だが、彼らと違い、陸の息はあがっていない。ならばと、千代は先ほどと同じくらいの速さで歩き始めてから、陸に視線を向ける。大きな歩幅と高い回転数で弾けるように歩く千代と異なり、そのペースになんなく付いてくる陸は、力まず滑るように歩いている。
(なにか、不思議な歩き方。でも、この歩き方なら、疲れにくいだろうな)
千代はそのコツを後で陸に教えてもらおうと思った。
職員室に着くと、千代は迷わず窓側の席に向かった。そこでは担任教師がなにか書き仕事をしていた。
「先生、転校生の部活への入部はどんな規定になっていますか」
「おう、長谷川か。ちょうどよいとこに来てくれた。明日のホームルームで配るプリントのことだが」
「先生、その話はこの後聞きます。先に私の質問に答えてください」
「おお、そうだな。悪かった。転校生って、服部のことだな」
担任が陸の方を見て確認する。
「あ、あの。部活の掛け持ちは大丈夫でしょうか」
「えっ」
二人が声を揃えて聞き返した。
「サッカー部だけじゃなくて、もしかして蹴鞠部でも作るつもりなの」
「けまりって、あの蹴鞠か」
「いえ、」
「いきなり部活にはできないが、同好会なら、条件が緩いぞ。それに掛け持ちも無理がないだろう」
「私も入ろうかな。蹴鞠すると、足技が磨かれるんですよ」
「いえ、そのつもりではないです」
「やはり、部活にしたいのか」
先走る二人に、陸はなかなか自分の考えを伝えられない。
「eスポーツが」
「おお、eスポーツか。服部もビデオゲームするのか」
「はい、ウイニングイレブンなどいろいろと」
千代にも話が分かればと、陸はいくつかある得意ゲームからサッカーゲームを上げてみた。
「おれもウイイレ得意だぞ。プロのサッカー選手も結構やっているらしいな」
担任の、ゲーム好きという意外な素顔と、プロのサッカー選手もゲームをやっているという話の両方に千代が驚いた。
「えっ、そうなんですか。私ビデオゲームとかあまりしないので、知らなかったです」
「プロのサッカー選手はゲームの中の自分を操作できるからなおさら面白いらしいぞ」
「それは確かに楽しいでしょうね。女子チームも選べるサッカーゲームはあるのですか」
せっかく蹴鞠からeスポーツに話題を切り替えられたのに、相変わらず担任と千代だけで話が盛り上がっていく。
「まだ、ないはずだぞ。長谷川が活躍して、もっと人気が高まれば、女子チームも追加されるんではないか」
「そうなったらいいですね。よし、ワールドカップ出場と併せてそれも目標にします」
会話に入るタイミングがつかめず、二人が楽しそうに話しているのを陸はだまって見ているしかなかった。
(日本語だと、まだとっさにうまく言葉が出てこない)
「それより、先生。服部君はすぐに部活に入れるのですか」
「ああ、サッカー部でいいなら、顧問の三浦先生に伝えておくよ」
「よろしくお願いします。よかったね。服部君。先生、それで明日のプリントの方は」
「そうだった。忘れるところだった」
二人はもう陸のことを放って、明日配布するプリントの話を始めていた。陸はこの場で部活の掛け持ちの可否を確認するのは諦めて、職員室を出ようとした。
「服部君、なにか困ったことでもあるのかい」
陸が振り返ると、校長先生が近づいてきた。
「ちょっと校長室に寄っていかないか」
「は、はい」
職員室から校長室へ続く扉を抜け、昨日担任が迎えに来るまで待機していた校長室に入った。昨日と同じソファーを勧められ、腰を下ろす。
「まだ、二日しか経っていないが、日本の学校はどうかね」
「おおよそ思っていたとおりです」
「そうか。それはよかった。ところで、ご両親は忙しいのかな」
「はい、二人とも帰宅はかなり遅いです」
「それは大変だね。食事はどうしてるのかね」
「自分で用意します」
「それはえらいね。スイスでも自炊していたのかい」
「簡単なものは作りますし、出来上がったものを買ってくることもあります」
「ところで、お母さんはまだ現役でスパイ活動もされているのかい」
服部家の事情は担任の教師も詳しくは知らないが、校長だけはおおよそを把握していると、母から説明を受けていた。
「いえ、母の日本での具体的な仕事内容はわからないです」
「元CIAで、世界を股にかけた諜報員だと聞いたときは驚いたよ」
校長は自分が日本の学校に馴染めそうか、忙しい両親の元で慣れない日本の生活は大丈夫か、それを気にかけてくれていると思った陸だが、母のCIAでの経歴に触れられ、校長が何の話をしようとしているのか見失ってしまった。
「わしは、スパイ映画が好きでね。特に女スパイが出てくる作品に目がないんだよ」
(今日は映画の話がよく出てくる日だな)
今朝、前の席のクラスメイトが忍者映画の話をしてきたことを思い出した。
「君のお母さんはまさに映画に出てくる女スパイそのものだね。美しくてスタイルが抜群だ」
陸は自身の日本語の理解力に自信を失い始めた。
「やはり、あれかね。CIAの女性スパイは、仕事柄、容姿の条件が厳しいのだろうか」
一つ一つの単語や語句の意味は理解できるが、しばらく前から校長の言わんとすることが掴めず、陸は必死に頭をひねる。
「お母さんの同僚の人を見たことはあるのかい」
「父がそうです」
「いや、女性の同僚だよ。スイス時代の」
「母の友人が家に来ることはありましたが、CIAの同僚の方だったのかは知りません」
「その友達もお母さんのように美人でスタイルがよかったのかね」
「母が美人かどうかは分からないのですが、遊びに来られた方々は皆さんお綺麗で、アスリートのような体型の方が多かったと記憶しています」
「おお、やはりそうか」
満足げに頷く校長を見て、その目的はわからないが、質問には答えられたのだと陸はほっとした。
「そういえば、サッカー部に入部するようなことを言っていたね」
「はい、そのつもりです」
「うちの高校のサッカー部は男子はそれほどでもないが、女子は全国レベルだよ。特に君のお世話係をしている長谷川君は代表にも選ばれるくらいの選手だ」
「東京都の代表ですか」
「いや、日本代表だ。まだフル代表ではないけれど、ユース世代の代表に選出されている」
「それはすごいですね」
「彼女は、サッカーだけでなく、学業も頑張っているし、学級委員も務め、わが校が誇る優秀な人材だ」
千代を含め他の生徒のことをほとんど知らない陸は頷くしかない。
「だから、君のお母さんのような仕事にスカウトされるのではと私は見ている」
「高校生がですか」
「もちろん、大学を卒業してからだよ」
「長谷川さんはそういう仕事を目指しているのですか」
「まだ日本にそのような職業は正式にはないから、長谷川君も当然知らないだろう」
陸が困惑した表情を見せる。
「君のお母さんを見て、そう思っただけだよ。長谷川君も頭脳明晰で運動神経とスタイルがよいだろう」
陸はここまで校長の話を聞いて、校長が単に雑談をしているだけで、母の仕事や母自身に興味があるのではないかと疑い始めた。
「もう帰ってもよいでしょうか」
「ああ、気を付けて」
「その前に一つ確認してもよいですか」
校長がにっこりと頷く。
「部活の掛け持ちは可能でしょうか」
「問題ないよ」
校長室を出た陸は、部活の掛け持ちができると聞いてほっとしたが、校長との短い会話でえも言われぬ疲労を感じ、eスポーツ部の見学も、サッカー部の練習参加もする気力がなくなってしまった。
昨日とほぼ同じ時刻に帰宅した陸は夕飯を作る前に祖父へ報告メールを送った。朝練と忍者映画、スパイ映画の件に触れ、まだ必要なタイミングで適切な日本語が出てこなくて苦労していると報告した。追伸として、
「日本の文化や価値観、日本語のニュアンスを理解するのはまだまだ難しいです」
今日一日の感想をそう書き添えた。
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