第5話 ニンジャ

 まだ登校してくる生徒が少ない始業三十分前に高校の正門を抜けた陸は、グランドでボールを蹴っている人がいるのに気が付いた。二人ともポニーテールに髪を結んでいるので、女子部員のようだ。

(たしか「朝練」だったかな。授業の前の練習は)

 サッカーボールがちょうど陸の方に転がってきた。

「ありがとう。蹴ってくれる」

 昨晩の祖父のメールを思い出し、トラップでボールを軽く浮かせると、ボールを拾いにこちらに向かってくる部員ではなく、声を掛けてきた奥で待っている部員に向かってロビングのボールを蹴った。そのボールはペナルティマーク付近に立っていた部員にノーバウンドでピタリと届き、その部員はほとんど動かずに胸トラップすることができた。半蔵門高校のグランドは狭いので、サイドラインの外からペナルティマークまでの距離も実際のサッカーコートの三分の二程度であるが、それでもその正確な距離感のキックに二人は唖然として声も出なかった。

 

 陸は人もまばらな教室に入ると、近くのクラスメイトと挨拶を交わして、自分の席に着いた。

(今のところ、問題なくやれている。この後気を付けなければいけないことは)

 日本の高校生活で注意すべき点をホームルームが始まる前に復習しようと思い出していると、

「服部君、さっきのキックすごかったね。それより、昨日はどうして途中で帰ってしまったの」

 右隣から勢いよく言葉が飛んできた。振り向くと、せっけんの香りが漂ってきた。笑顔の千代が立っている。

(朝練でゴール前にいたのは、長谷川さんだったんだ。昨日の練習の時と髪型が違うから気づかなかった)

「部室にはシャワーがあるのですか」

 陸は受けた質問に答えず、香りが気になり、質問を返した。

「体育館の更衣室にはシャワー室もあるけれど、朝練の後に浴びている余裕はないから、これよ」

 千代が汗拭きシートをスカートのポケットから取り出し、陸に見せてから、鞄にしまった。

「たくさん必要だから、夏は週末にまとめ買いしているの」

(日本にはそういう便利なものがあるのか)

 そう感心しながら、陸は再び考え事に戻ろうと前を向くと、

「ちょっと待って。本題はそれじゃないでしょ。今朝のロングパスと昨日の見学を早々に打ち切ったこと」

(そうだ、蹴鞠をアピールしよう)

「あれは、蹴鞠の練習の中で、離れた籠にボールを入れる遊びをよくしていたお陰です」

「あれも、蹴鞠の技なの」

(ほんとは違うけれど)

「まあ、そうです。蹴鞠の鞠は軽いから、距離が遠い場合はサッカーボールでやっていました」

「あんなに正確に蹴るにはなにかコツがあるの」

 昨日蹴鞠の技がサッカーに活かせると気付いた千代は貪欲に蹴鞠のことを知ろうとしていた。陸は少し考えてから、

「少しずつ距離を伸ばしていきます。ある距離で毎日100回蹴って、一週間ミスがなければ、少し遠くに籠をずらします。それを繰り返して、遠くまで正確に蹴ることができるようになりました」

「それって、忍者がまだ苗の頃から毎日その木を飛び越えて、大木に生長したら、脅威のジャンプ力を習得、っていう修行の話みたいだな」

 陸の前の席に座る男子生徒が振り返って、口を挟んできた。

「じゃあ、それは日本の伝統的な練習方法なのかしら」

「そうなんだろうな。それよりさ、服部はなんでそんな他人行儀な言葉遣いしてるんだよ」

「それは仕方ないでしょ。スイスでご両親とは砕けた日本語では話してなかったんじゃないかしら」

「言葉遣いまで伝統的なのか。ござる、とは言わないんだな」

千代は男子生徒が陸を少し馬鹿にした冗談はスルーして、

「ハーフや外国人のタレントとかが意外ときれいな日本語使ってたりするわよね」

「確かに。服部はハーフで、いやクォーターだっけ、見た目もちょっと日本人っぽくないから、下手に俺らと同じような話し方するより、今の方が違和感ないかも」

 前の席の男子と千代の間でどんどん会話が進んでいく。

 教室の前方の戸が開き、担任教師が入ってきた。ほっとした陸は、今日も祖父に報告や相談するべきことがたくさんあると、担任の話の耳を傾けつつ、先ほどのやりとりを思い返した。

 言葉遣いに関しては、ある程度想定した通りの反応である。陸との会話が一番多い母の、イントネーションと表現が少しおかしなアメリカ訛りの日本語の影響を受けないよう、当面は標準語を丁寧語で話し、少しずつ同級生の口調を真似していくというのが、陸がいつ日本に帰るかは決まっていないずいぶん前に祖父が決めた方針である。そのためにNHKのニュースや日本語講座を聞き、祖父との会話で定着させてきた。

 それよりも陸がひやっとしたのは、「忍者」という言葉が出たことであった。服部一族が江戸時代を通して忍者を家業としてきたことは極秘ということではない。大政奉還を機に欧州に拠点を移した服部家は代々欧米各国の諜報機関に属してきた。元MI6の陸の父、元CIAの母は陸より一足早く日本に移り、これまでの一族の経験やノウハウも活かし、祖国の諜報活動強化プロジェクトに参画している。しかし、忍者の末裔という事実は陸が普通の日本人として暮らすには障害となる情報である。学校生活においては決してばれないようにと祖父から厳命されていた。それで、昨日の蹴鞠の件も陸は焦って祖父に確認したのであった。

(練習方法の説明が蹴鞠のアピールではなく、忍者を思い起こさせるとは)

 そう反省した陸だが、祖父によると海外では忍者がまだ日本で活躍していると思っている人が意外と多い一方、日本ではそもそも日常的に思い出す存在や言葉でないはず。

(それなのに、なぜ彼は忍者をすぐに連想したのだろう)

 目の前の座る同級生の背中を見つめて考えていると、彼が必死になにかをノートに書いているのに気がついた。今はホームルームの時間で担任はいろいろな連絡事項を伝えているが、それほど必死に書き取るようなことは話していない。彼の脇の下からノートが見えた。絵を描いているようだ。輪郭を書き終え、鉛筆を斜めに倒して、色を塗っている。最後に星を三つ書き加えて、絵は完成したようだ。男子生徒は軽く振り返り、ノートを陸に見せてきた。担任教師の目には自分の説明で理解できないことがある陸に男子生徒が教えてあげているように映っている。

 それは、手裏剣を投げる忍者のイラストであった。

 「うまいだろ」

 俄かに緊張する陸に、

 「最近さ、忍者映画を見たんだよ。知らないと思うけれど、昔日本には忍者が実在したんだぜ」

 その言葉に陸は少しほっとして、

 「どんな題名の映画ですか」

 「「忍びの者」、古い昭和の映画だけど、リアリティがすごかった」

 「なぜ、忍者映画を」

 「俺、映画部なんだけど、夏休みの間に渋い映画を見つける競争してたんだ」

 彼は伸びをする振りをして体を後ろに反らし、陸に囁いた。

 「自分で見つけられないから、じいちゃんに教えてもらったんだよ」

 祖父に教えを請うところに陸は親近感を感じた。二人の会話が聞こえていた千代の前に座る女子生徒が、

 「ニンジャだって、男子ってガキね」

 振り返って、千代に同意を求めた。千代は愛想笑いを返し、そろそろ担任の話に集中した方がよいと、陸に目配せしてくれた。 

 

 

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