第4話 帰日の理由

 練習が進むと、マネージャーも仕事が忙しくなり、陸は一人、グランドの周囲に植えられた木々の一本に寄り掛かり、サッカー部の練習を眺めていた。肩に木の葉が一枚落ちてきた。手に取ると、イチョウの葉であった。

「イチョウは我が一族より早く日本からドイツに渡ったんだよ」

 小さい頃、祖父と紅葉鮮やかな林道を散歩している時、その中にイチョウの木を見つけた祖父がそう教えてくれた。スイスを立つ時にはすでに山々が色づき始めていたが、東京ではまだ青々としているイチョウの茂みを見上げ、イチョウには遅れながらも明治維新直後の百五十年以上前に渡欧したご先祖様のことを思った。

 そんなことを思い出すのも、すでにサッカー部のレベルや雰囲気は把握でき、これ以上の見学の必要がなく、退屈しかけていたから。先ほどはそのご先祖様がドイツへ移住する際、携えていった蹴鞠の芸を図らずも披露してしまったことで、まだ入部もしていないにも関わらず、サッカー部員に随分と強い印象を残してしまった。もしこのままサッカー部に入部すれば、特別扱いされてしまうのではないか。そんな部活に入るわけにはいかない。普通の高校生活が送れなくなってしまう。

 それだけではない。蹴鞠という現代の日本人には、特に若い世代には馴染みが薄い芸当を披露したことで、その噂が広まり、面白がってクラスや学校でも注目されてしまう恐れがある。そのことも陸が望む普通の高校生活の妨げとなってしまう。転校初日から大きな間違いを犯してしまった。

 とはいえ、すでに陸に後悔の念は残っていない。このような時、陸は現実を受け止め、いち早く対策を立てるべしという教育を祖父および両親から受けている。陸はこの状況をどう改善すべきか考え始めていた。そして、すぐに思いついた方法を実行に移した。

「用事があるので」

(祖父曰く、その場を波風立てずに去る言い訳として便利な表現)、ゼッケンの束を抱え、近くを通り過ぎようとしたマネージャーにそう声を掛け、陸はサッカー部の見学を切り上げた。

 高校からは陸の足で十五分ほどの自宅に戻ると、玄関でズボンに付いた土の汚れを払った。母にばれないようにと、洗面所で汚れが残ったところを濡らしたハンカチでふき取る。

「あら、もう帰ってたのね。高校はどうだった」

 防衛庁に出社しているはずの母に背後から声を掛けられ、陸は思わず声が出そうになる。母と父は普段から足音を立てず、近づいてきても気配を感じない。それには慣れている陸だが、今日は少し後ろめたい気持ちがあり、母の声にぎくりとした。

「何をこっそりやってるの」

 陸の母はうれしそうに陸の肩越しにのぞき込んできた。土の汚れが目立つハンカチを陸が咄嗟に隠そうとする。

「見せなさい」

 母が素早くハンカチを奪い取った。その機敏な動作はさすが元CIAの敏腕スパイである。しかし、自分が期待したものとは違ったらしく、それを自分の顔の前に垂らし、首を傾げている。 

「なに、これ」

「実は、部活の見学中に転んでしまって」

「あら、あなたが転ぶなんてめずらしい」

 母の突っ込みに、

(たしかに、転んだ、は無かったかな)

 今日はよい言い訳が思いつかない日だと悔やんだ陸だが、ここはこのまま押し切るしかない。母の指摘には敢えて反応せず、

「転んで汚れた制服を拭いていたんだ」

「あら、そうだったの。残念だわ」

 母の期待が何だったかは詮索はせず、

「じいさまに学校のことを報告しないと」

 話題を切り替えるよいタイミングとばかりに、日課である祖父への連絡を持ち出した。

「お義父さまへの報告は大事だけど、私にはなにもないのかしら」

「母さんは忙しいのかと思って」

「そう、このデイパックを忘れちゃって、取りに来たの。すぐに戻らないと」

「ということは、今晩は練習があるんだね」

 母が右目でウインクした。、の意味で母はよくウインクする。

「じゃあ、今日のことは明日の朝話すね」

「すぐに伝えることがないのなら、安心だわ」

 アイロニーを口にするのは、母の機嫌がよい証拠である。母がトレーニングウエアとシューズを入れているものは、英語由来のデイパックよりも、ドイツ語に馴染みのある陸にはリュックサックの呼び名がしっくりくるが、それを肩に掛けなおした母を玄関で見送る。階段を上った陸は、自分の部屋に入り、ベッドに寝転がると、スマホで祖父宛のeメールを打った。SNSは祖父に禁止されている。

 こちらが夕方の五時ということは、向こうは、午前十時ごろである。すぐに返事が返ってきた。陸が学校から帰宅する頃と、祖父は待ち構えていたようだ。

「陸へ。目立ちすぎたのはあまりよくなかったが、蹴鞠で皆が感心するくらいは全

く問題ない。それどころか、蹴鞠が日本の若者にも興味を持たれたとはうれしい限りだ。変に気をまわして、わざと失敗したり、下手に見せなくてよかった。わしも蹴鞠の技がサッカーの競技で活かせるという発想はなかった。それを指摘した子は鋭い。サッカー部に入って、試合でも活躍し、蹴鞠をもっと知ってもらうのも悪くない」

 叱られる覚悟で祖父に報告した部活見学での蹴鞠騒動は、かえって祖父を喜ばせる結果となったが、サッカー部に入るということは、eスポーツ部への入部を諦めなければならない。祖父の返信は、その字面だけ読めば、あくまでサッカー部への入部を勧めているだけだが、これまでの経験からそれが祖父の断固とした指示であることを陸は理解していた。

 eスポーツ部が諦め切れない陸が祖父のメールにすぐには返信せずにいると、祖父からもう一通のメールが届いた。陸が躊躇しているのが見えているかのようだ。

「欧米からの帰国子女は日本では特別扱いされやすい。スイスからの転校生という日本人が憧れがちな属性を打ち消すため、蹴鞠が得意、サッカーで活躍するという特徴はかえってよいと思う。今や一芸に秀でた高校生は日本にたくさんいるようだ。平均的な高校生を目指し、目立たないことを優先して、消極的な学校生活を送るのも違うと思うからな。

 わしやおまえの父親の世代とは明らかに日本人の常識や価値観は変わってきている。それを深く理解し、共感できるようになることがおまえの使命だ。我が一族はそれを必要としている。わしやお前の父親の年齢ではもはや困難だ。知識としての把握でしかない。こちらにいる時になんども説明したことなので、十分わかっていると思うが、よい機会なので、おまえを少しでも早く日本に行かせたかったわけを改めて書いた。今後も繰り返しこのメールに目を通すのがよいだろう」

祖父にしては珍しい長いメールはまだ続く。

「また、事前にスイスで調べた情報はすでに陳腐化しているかもしれない。日本に戻った目的を果たすために、自分でも必要な情報をどんどん更新していくことだ。わしに確認や相談がすぐにできない場合もあるだろう。その時は自分で適切な答えを出せるように判断力を磨いておくことだ。

 追伸:但し、蹴鞠以外の技能は高校では他言無用」 

 「じいさま、分かっています」

 メールでの返信でなく、独り言としてつぶやくことで、陸は祖父の意図と指示を承知したことを自分自身に言い聞かせた。

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