第9話 千代の夢
転校から二週間も経つと、千代が陸に世話を焼く回数がぐっと少なくなった。日常的な学校生活は一通り経験したが、陸が次に何をしてよいか分からないという事態は起きていない。それはひとえに、千代が授業中より少しだけ机を寄せ一緒に食べる昼食の間に、翌日の予定や注意事項、学校内の様々なことを分かりやすく説明してくれるお陰であった。
その千代に遠慮してか、最初の一週目は陸に話しかける女子生徒はほとんどいなかった。陸が自立して動けるようになるにつれ、業間のたびに陸の席の周りに集まる女子生徒が増えていった。
「服部君、スイスって、どんな景色なの。スマホの写真見せて」
「ハイジみたいな女の子はいるの」
「スイスの高校生はどんな感じ」
好奇心旺盛にいろいろと質問を投げかけてくれる。しかし、男子生徒と話したのは、初日にトイレへ案内してくれた生徒と、二日目に忍者映画の話をしてくれた生徒だけである。朝、おはようございます、といえば、おはよう、と挨拶は返してくれる。陸は自然に話す機会が増えるものと思っていたが、なぜか教室では話しかけてもらえない。サッカー部で同じ男子生徒も、eスポーツ部と間違えたアニメ同好会の生徒とも教室では会話がない。陸は祖父や従姉たちにこのことを相談したが、気にする必要はないというのが三人の共通の回答で、話したいならば、自分から話しかければよいという助言までみな同じだった。
陸は女子生徒から受ける質問に答えながら、クラスメイトの男子たちが何をしているか観察した。机に伏せて寝ている人もいれば、おそらくトイレにいくのだと思うが、教室を出ていく人もいる。しかし、多くは、二三人が集まって話をしている。
(スイスの学校とそれほど違わない気がする)
女子生徒たちからの質問に一通り答えると、おもむろに席を立ち、近くの男子グループに近づいた。
「な、なに」
男子生徒たちは突然近づいてきた陸を見て驚いている。
「何の話をしているのですか」
「えっ、何か聞こえた」
「いいえ、聞こえていません」
「じゃあ、なにか用かい」
「まだ話していないと思いまして」
「確かに、そうだけど」
最初に陸が話しかけた男子生徒が助けを求めるように隣の生徒の方を向く。
「女子たちに囲まれていたのに、なんで急におれたちのとこに来たのかってことだよ」
隣の男子生徒がフォローに入った。
「みんなさんは男子同士、女子同士で話しているので、その方がよいのではと」
「だって、服部は転校生でさ、しかも、スイスからだろ。そりゃ、女子が放っておかないよ」
「スイスからの転校生だからめずらしいということですか」
「女子ってそういうの好きじゃないか」
「そう、ヨーロッパとか、スイスって、なんかおしゃれな感じするしね」
それまで面白そうに陸たちのやりとりを眺めていたさらに隣の席の男子生徒が少しからかい口調で話に加わってきた。
「みなさんはあまり興味がないですか」
「興味ないことはないけれど、わざわざ休み時間中に質問攻めにするほどにはね」
「そう、女子たちが飽きたら、声かけようかなぐらい」
「レディファーストですか」
「いや、そんなエチケットみたいなものじゃないよ」
「服部、なんか変わってて面白いな」
「たしかに。口調が丁寧なところも。やっぱり、スイスで生まれ育つとそういう感じなんかな」
思い切って男子生徒のグループの一つに飛び込んだ陸は、意外と会話が続いてほっとした。
「ねえ、そういう純朴な感じも魅力的よね」
「紗季ったら、大胆じゃない。服部君のことを魅力的だなんて」
先ほど陸を囲んでいた女子たちもいつの間にか陸を追いかけ、会話の輪に合流していた。
この日をきっかけに陸は男性生徒たちとも打ち解け、クラスメイトとの距離が縮まったことを感じた。まだ女子生徒に囲まれていることの方が多いが、男子生徒との会話も増えていった。その週末のビデオチャットではクラスメイトとの交流を嬉しそうに報告して、祖母を喜ばせた。ビデオチャットでその話題になると、従姉妹の二人はほらね、という表情を見せただけだった。
男子生徒たちが陸に少し距離をとっていたのは、余計なことを陸に言って混乱させ、ただでさえ忙しい千代にかかる手間を増やさないようにという配慮からであった。陸が学校生活に慣れてきたのは端で見ていても明らかであったし、陸は意外と日本語も日本のことも理解していることが分かってきて、そろそろ自分たちも陸と話したいと、ちょうどきっかけを探し、待っているところであった。
一方、これまで陸の世話を焼いてくれた千代との会話はめっきり少なくなっていった。千代は昼休みも机を寄せてこず、誰かが陸に声を掛け、一緒に昼食を食べ始めるのを待って、親しい友達のグループに加わるか、忙しい時は一人で食事を済ませてしまうことも多い。学級委員の仕事がない時は、休憩時間中に一人で勉強をしていることも少なくなく、陸は校長が褒めていた千代の優等生ぶりを再認識しつつも、千代の頑張り具合が少し気になった。
そんなまだ残暑も厳しい九月四週目、六時間目の授業が終わると、今日は学級委員の用事がないのか、千代がすぐに部活に行く気配である。一緒に部室へ向かおうと誘い、陸から千代に話しかけた。
「放課中も勉強していることが多いですが、難易度の高い大学を目標にしているのですか」
千代が少し寂しそうに笑った。
「私、学級委員をしているから、勘違いされているかもしれないけれど、実は勉強はあまり得意ではないの」
予想外の回答に驚く陸に、
「すぐにプロになれない場合、それなりの大学に進学しないといけないから、必死なのよ」
「プロって、女子サッカーのですか」
「そう。私の夢はまずはプロの女子サッカー選手になること」
「日本代表に選ばれているから、プロ選手になれそうですね」
「あら、知っていたの。うれしい。でもまだユース世代の代表だから」
「校長先生から聞きました」
「私はできれば、イギリスかアメリカのプロリーグに行きたいの。だから、英語の勉強を特に頑張ってるの」
「その上学級委員をやるのは大変ですね」
「それは立候補したのよ。リーダーシップを学ぶチャンスだし、父にもそういう立場を積極的に経験しておくように言われているの」
「長谷川さんのところは、お父さんなのですね」
「どういうこと」
「うちは祖父からいろいろと」
それに続く適切な表現を探し、
「助言してくれます」
と付け加えた。実は、指示されている、と言いかけて、それでは服部家の事情を知らない千代に誤解されると懸念して言葉を選び直した。
「おじいさんは日本にいるの」
「スイスです。一族の伝統を守っていくことと、早く日本に馴染んで、普通の日本人になるように言われています」
「そうなんだ。うちは、父が元プロのサッカー選手で、私がサッカーをやる条件が学校の成績や大学への進学なの」
「セカンドキャリア(プロスポーツ選手の引退後の人生)のためですか」
「あら、そんな言葉よく知っているのね。父は私がまだ小さい時にプロの選手を引退して、その後の仕事でかなり苦労してるの。だから私がサッカー選手になることにあまり賛成していないみたい」
いつも快活な千代が少し沈んだ表情を見せる。二人は並んで下駄箱にスリッパをいれ、下履きに履き替えた。
最近の日本の傾向として、以前ほど親が子の進路や将来に口を出さなくなったと陸は理解していた。自分の一族は祖国を離れて暮らすという特殊な環境ゆえに、孫(陸)の生き方に祖父の意向が強く反映せざるえないが、日本で生まれ育った千代が父親の考えを受け入れ、高校生活を送っていることは意外であった。何であれ千代と共通点があることは嬉しかったが、それ以上に千代が見せた寂しげな笑顔と沈んだ表情が強く印象に残った。
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