第8話 陸の朝

 陸の朝は早い。毎朝4時の起床である。それはジュネーブにいる時からで、気候が厳しい冬も変わらぬ習慣であった。そう習慣づけたのは祖父である。キッチンで水を一口飲んだ陸は、玄関を出ると、高校への通学路でもある靖国通りの、防衛省と自衛隊市ヶ谷駐屯地を囲む高い塀沿いを早足とも小走りとも見分けが付かぬフォームで移動していく。

 防衛省の正門前には早朝にも関わらず、十名近い警備員と自衛隊員が立っている。

「おはようございます」

 陸が挨拶をしたのは、登下校時にここを通ることで彼らと顔馴染みになったからではない。

「おはよう。服部君」

 何人かが声を出し、残りは表情や手振りで挨拶を返してくれる。陸は首から掛けたパスを見せる。念のために一番近くにいる警備員がパスをチェックするが、実際には顔パス同然である。陸の両親の職場であるので、警備員以外は両親の同僚であるが、職員の家族だからと言って、パスが発給されているわけではない。

「練習、がんばれよ」

 正門を通り過ぎた陸の背後から声がかかる。陸は敷地内のそれぞれの建物の名称も、どの建物で両親が働いているかもよく知らない。正門を抜けてすぐに敷地内で一番大きな建物がある。その奥にある厚生棟(陸が名前を知っている唯一建物)が陸の目的地である。そこには武道場が付設されている。半蔵門高校の柔道部、剣道部はここで週に何日か練習をさせてもらっているが、彼らがここに来るのは放課後なので、陸が同級生と顔を合わせることはない。それが早朝にここへ来る理由でもある。

 陸の祖父は来日のたびにこの武道場に立ち寄っている。自衛官の柔道、空手、剣道の師範たちに指導を行うためである。陸を日本に連れた来た今回の来日に際しても是非にと指導を要望されたが、手ぶらで来てすぐに帰るからと断っていた。代わりにと言うわけではないが、陸が毎朝ここで練習をし、その練習の相手を師範たちが務めることを祖父が提案した。

 忍びを一族の家業としてきた服部家には、戦国時代からいくつもの忍術が伝わっており、その中に古武術が含まれている。古武術に関しては代々の当主が改良を加え、陸の祖父により完成の域に達した。その技が表舞台で披露されることはない。しかし、その威力の凄まじさは格闘技界では伝説となっており、米国陸軍特殊部隊グリーンベレーがわざわざスイスまでヘリを飛ばし、陸の祖父の指導を受けに訪れるほどである。愛国心豊かな祖父は母国の自衛隊には帰国のたびに稽古をつけてきた。

 陸は物心つくと、祖父からその手ほどきを受け、十歳を迎えてからは五年以上に渡り、毎朝その過酷な修行を続けてきた。自分の足元にはまだ到底及ばないが、他の武術の師範クラスとなら互角以上に渡り合える。それが陸の実力に対する祖父の評価であった。

 武道場に着くと、陸はしばらく一人で型の練習を行う。そのうちに練習相手となる師範の一人が現れる。今日は剣道の師範が竹刀片手に入場してきた。

「日本の学校はどうかね」

「はい、やはりスイスとはいろいろ違います」

 陸は来日した翌朝から、初日は父に連れられて、この道場に通っている。毎日別の師範が交代で陸の練習の相手をしてくれるのは、陸の祖父からの依頼だけが理由ではない。彼らにとっては陸との練習が何年かに一度しかない陸の祖父との稽古代わりとなるからであった。

 陸と師範が練習をしていると、陸の父が途中からその練習に参加してくる。実力は陸よりかなり上であるが、前日の仕事が遅くなると、朝の朝習には参加しないこともあり、師範たちは毎朝確実に来る陸を当てにしていた。

 二時間みっちりの練習を終えると、陸は登校のために自宅に戻る。正門を抜ける際には、 

「お疲れ」

「学校で居眠り無理するなよ」

 隊員や警備員から労いや励ましの言葉をもらう。陸は立ち止まり、お辞儀をしてから、再び早足とも小走りとも区別が付かぬ動きで自宅に戻る。

 陸が一日で一番ボリュームのある食事をとるのは朝食である。夕食は自炊するので、平日に母の作り立ての食事を口にできる陸の楽しみの一つである。

 ちなみに、陸の母は防衛省、自衛隊での仕事を終えると、職場で軽い夕食を口にしてから、夫と息子が早朝に練習に行った武道場や筋トレルームでトレーニングに励む。こちらは服部家伝統の古武術ではなく、古巣CIA仕込みのマーシャルアーツやレスリングがベースである。女性自衛官の武道部員やレスリング部員では相手にならず、男性部員が、それも上級者が競って練習相手となってくれた。

「おかえり。ちょうど朝食できているわよ」

 母が出迎えてくれた。

「今朝はパパ来なかったんじゃない。昨晩も遅かったから」

 悪戯っぽく笑いながら、陸の額にキスをして、

「今日は私も早い会議があるの」

 自分の身支度のために部屋に戻っていった。陸の父はすでに出かけているようだ。練習に来れないほど忙しいのだろう。


 陸は朝食を終え、洗い物を済ますと、部屋に上がり、パソコンの電源を入れた。登校まで三十分ほどの時間は、祖父母、従姉たちとのビデオチャットの時間である。スイスはサマータイムを導入しており、九月であれば、日本との時差は七時間、今はちょうど深夜零時である。本来は早寝早起きの祖父と祖母も日本に移住した孫と話すために、生活のリズムを変えてくれていた。日本の夜九時であれば、スイスは午後二時となり、この時間帯の方がお互いもっとゆっくり時間がとれそうであるが、祖父母も、そしてスイスで大学に通う従姉たちも何かと用事が入る時間帯でもある。毎日確実に話すのであれば、スイスの深夜の時間が適していた。

 最初の十五分は祖父母との会話である。祖父には別途eメールで日々のトレーニングの成果や日本での学びを報告、相談しているので、この時間は主に祖母への報告となる。祖父への報告と内容は重複するが、祖母の関心がなさそうなことを省き、日本通とはいえスイス人の祖母に分かりやすいようにかみ砕いた内容を、祖母との普段の会話で用いるスイス訛りのドイツ語で語る。祖母はそれを嬉しそうに聞いてくれ、喜んでくれたり、励ましたりしてくれる。その間祖父は祖母の横でニコニコしながら聞いているだけだ。同じ内容の報告に対し、時に厳しい指導が入るeメールでの祖父とはまるで別人である。カメラの前に仲良く並んで映っている二人に、

「グーテナハト(おやすみなさい)」

 と陸が伝えると、

「パス アウフ ディッヒ アウフ(気を付けていってらっしゃい)。ガンバッテ」

 祖母の最後の言葉だけはいつもこの日本語である。

 続いて、従姉たちとのビデオチャットに切り替える。祖母と一緒に陸をフランクフルトまで見送ってくれた二人である。

 一人っ子の陸と小さい頃からよく遊んでくれたのがこの姉妹であった。弟が欲しかった二人がままごと遊びに近くに住む陸を引き入れたのがきっかけだった。

 姉妹の母、フランクフルトまで見送ってくれた叔母はスイス人と結婚しており、従姉の二人に日本人的な外見の特徴はほとんど残っていない。しかし、スイス人の叔父が日本びいきなので、その家庭内では日本語を含め日本文化がしっかり娘二人に受け継がれていた。

 三人とも英仏独日どれでも会話可能であるが、フランス語圏であるジュネーブ育ちの三人ではフランス語が一番自然な会話となる。このビデオチャットは陸のドイツ語、フランス語、英語の語学力を維持するのが目的である。日本人の外国語下手はスイスでも有名であり、いくら高校で英語の授業があろうとも、日常の会話で使わなければ、陸の英語力は落ちてしまう。まして、日本で滅多に接する機会がないドイツ語やフランス語を維持するのはさらに困難である。祖父がそう判断し、姉妹の父母の理解を得ての時間であった。

「<仏>今日はフランス語でいいのよね」

「<仏>そうよ、お姉ちゃん。昨日はドイツ語だったから」

「<仏>あら、昨日は英語で話さなかったかしら」

「<仏>昨日のトピックが陸がこれから受ける日本の英語テキストのことだったから混同してるんじゃない」

「<仏>こら、陸も話しなさい。フランス語を」

「<仏>そうだよ、姉さんたち。昨日は制服とか日本の高校のことをいろいろ質問してくれたじゃないか」

「<仏>今日は何を話そうかしら」

「<仏>じゃあ、日本食についてなんかどう」

「<仏>いいわね。夕食が早かったから、少しお腹すいてきたところよ」

「<仏>日本でラーメンと寿司は食べたの」

「<仏>まだ食べに行ってないよ」

「<仏>それじゃ何を食べてるの。トウフかしら」

「<仏>昨晩はパスタにした」

「<仏>ああ、夕飯は自炊してるんだよね」

「<仏>回転する寿司に行けばいいじゃない。陸は寿司好きでしょ」

「<仏>家の近くにはないんだよ」

「<仏>日本のレストランは、ラーメンと寿司ばかりじゃないの」

「<仏>まだほとんど外食してないから分からないけど、そんなことはなさそうだよ」

「<仏>それならカップヌードル食べなさいよ。日本なら安いでしょ」

「<仏>スイスで買うより安いとは思うけれど、夕食がカップラーメンでは物足りないし、栄養が足りないよ」

「<仏>いっしょにピザとサラダ食べておけば大丈夫よ」

「<仏>それは姉さんのいつもの食事でしょ。陸に押し付けない」

「<仏>姉さんたちありがとう。もう時間みたい」

「<仏>あら、ほんと。学校に行く時間ね」

「マントゥノ ヴァ イプォンスワン デュトワァ(じゃあ、いってらっしゃい。気を付けてね)」 

 姉妹が声を揃えて、別々のカメラの前から陸に手を振る。陸はPCの電源を落とすと、制服に着替え、リュックを背負い、もう誰もいない一階へと階段を下りる。玄関を出ると、今朝すでに一往復した道をその時よりは少し緩やかな歩みで半蔵門高校へ登校していく。

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