第2話 転校初日
九月と月が変わってもまだ残暑が厳しいこと(スイスでは九月には一気に涼しい日が増える)、日本の高校は夏休みが明けても新しい学年になるわけではないこと(スイスでは新学年は八月後半から)、どちらも知識として知っているが、自分がエアコンの効いた校長室で、高校の転校生として控えていることが(スイスでは中学を卒業しただけ)、やはり不思議な感じがした。そしてなにより自分が着ている開襟シャツと黒いズボンを、校長室の窓から見える登校中の男子生徒がみな着用しているのを見て落ち着かなかった。
担任の教師、つまりはホームルーム担当の教師が迎えに来るまでここで待つように言われ、先ほどまで隣に座っていた母が校門に向かっていく後姿を窓から見送った。
「お母さまは、スタイルがよろしいですな。さすが、CIAで働かれていただけのことはある」
CIAで働いていたことと、スタイルがよいことがどう関係するのか陸には理解できなかった。空港に迎えに来てくれた母はスイス時代同様ハイブランドのドレスを着ていたが、今日はこの後そのまま防衛庁に出勤するため、控えめな色合いのスーツを着ている。特に褒められるようなスタイル(英語ではファッションを意味する)とは思えなかった。日本的なお世辞なのだろうか。
校長室に迎えに来てくれた担任の教師の後に従い、教室に向かう。廊下には窓際の壁にロッカーがずらりと並んでいる。その様子はスイスの学校とそれほど変わらない。しかし、ペタペタと足音を立てるスリッパと呼ばれるものを履いているのは日本独特だ(スイスの学校ではずっと土足であった)。スイスの自宅には畳が敷かれた和室があり、そこに入る時には靴を脱ぐ習慣があった服部家だが、スリッパを履く環境と習慣はなかった。それで、祖父母の家にある板間と呼ばれる土足厳禁の部屋で、祖父が前回ビジネスクラスで日本まで往復した際アメニティとしてもらったスリッパを履いて歩く練習をしてきた。
「1-C」とプレートが掲げてある教室に教師が入っていった。呼ばれるまで廊下で待つように言われ、「C」の文字を見つめて待つ。
(クラスの区別は「いろは」や「甲乙丙」ではなく、アルファベットを使うんだ)
引き戸(これもスイスでは自宅と祖父母宅の和室くらいでしか見たことがない)が開き、中に招かれた。男女でみな同じ服装のクラスメイトがきれいに並んだ机に行儀よく座り、私語もせず、自分を見つめていた。張り詰めた空気に一瞬たじろぐ。教師から自己紹介を促された。
「初めまして、はっとり、りくです。スイスから来ました」
「服部くんは、両親の仕事の関係でスイスで生まれ育っている。ご両親は日本人なので、日本語はある程度大丈夫だが、日本に来たのは初めてなので、みんないろいろ助けてあげて欲しい」
その説明をきっかけに生徒たちが隣や前後の席の級友とひそひそと話し始め、それまで陸にはやや重苦しかった教室の雰囲気が和らいだ。
「先生、質問してもよいですか」
一番後ろの席に座る女生徒が勢いよく手を挙げた。
「いや、そういうのは放課中にしてくれるか。今日は二学期の始業日で連絡事項が多いから」
陸が事前に見てきた日本のアニメでは、転校生はいろいろと質問をされていたので、あらかじめQ&Aを作り、祖父にチェックしてもらっていたが、それを使わずに済んだ。
「服部君、一番後ろの、そう、さっき手を挙げて質問した女子の隣が君の席だから」
机の間を通り抜け、指定された席に着いた。173㎝の陸は、スイスでは小さい方でも日本では平均より高いはずで、さすがに転校生だからと先生の目の届き易い前方の席にはならないだろうとは思っていたが、一番後ろの席は望外であった。
(後ろの席ならば、他の生徒の様子を確認でき、真似できるから安心だ)
「かばんは、ここに掛けて」
膝の上にリュックサックを抱えて座ったところ、隣の女子生徒が机の脇を指差しながら教えてくれた。
「私、はせがわ、ちよ。よろしくね」
女生徒はそう名乗ると、早速小さな紙を手渡してきた。陸は教師の話に耳を傾けつつ、それに目を通す。
「得意なスポーツはなに?」
首を少しだけ右に振り、メモ用紙を渡してきた女子生徒を横目で見た。半袖のセイラー服と膝丈のスカートから腕と脚がすらりと伸びている。
(何かスポーツをやっているのだろうな)
かなり鍛えているのが陸にも分かった。視線を教壇に戻すと、しばらくして次のメモ用紙を渡された。
「サッカー好き?」
メモの内容を読んでから、また軽く右を向く。女子生徒がペンを握って、書くジェスチャーをしている。
(ああ、答えを書いて、渡すということか)
そう気付いた陸は最初の質問の回答として、一文字目の漢字を書いたが、どうしても二文字目の漢字が思い出せず、少し考えてからその前に三文字、その後ろに一文字足して、
「ボール蹴り」
と書き、二枚目の方には
「はい」
と書いてメモ用紙を重ねて返した。それらを読んだ女子生徒が一瞬笑みを浮かべた気がした。続けてもっと質問されるかと思いきや、メモはそれきり止まってしまった。
(答えがおかしかったのだろうか。それとも、今度はこちらから質問をしないと、女性に対し失礼に当たるのだろうか)
女生徒の表情から探ろうとしたが、担任の説明を真剣に聞くその横顔からは何も読み取ることはできなかった。
ホームルームが終わり、最後に教師がだれにというわけでもなく、
「男子は服部君にトイレの場所だけ教えあげてくれないか。さすがに長谷川が教えるわけにはいかないだろ」
と頼むと、ある男子生徒が、
「男子トイレは女子トイレの隣だから、長谷川さんでも案内できると思います」
と返事をし、教室中に笑いが起こった。隣の女子生徒も笑っていた。
ホームルームの後の休憩時間に、陸の前に座る男子生徒がトイレを案内してくれた。彼によると、長谷川千代は女子学級委員であり、英語が得意だから、転校生の世話係に任命されたとのことであった。男子の学級委員は背が低く、教室の前の方に座っているのと、理系科目は得意だが、英語があまり得意ではないという理由で陸の世話係にはならなかったというのが彼の推測である。自分の世話係にとって英語が得意であることの必然性が分からず、用を足しながら尋ねると、
「外国からの転校生だから日本語は苦手かもしれないって、担任が言っていたみたいだよ」
陸が転校してきた千代田区立半蔵門高校は学業のレベルが高く、転校希望の生徒は転入試験を受け、かなりの点数を取らなければ、入学は許可されない。スイスでその試験を受験した陸は、他の科目同様、国語(日本語)のテストの結果にはかなり自信があった。
(担任の教師は入試テストの結果を知らないのだろうか。もしかして、試験結果が意外と悪かったのだろうか)
「今朝、ホームルームが始まる前に、長谷川が皆に今日海外からの転校生が来るって教えてくれたんだ。昨日、担任から長谷川に世話係を頼むって、連絡があったってね」
二人並んで洗面台で手を洗う。先に手を洗い終わった男子生徒がポケットからハンカチを取り出して手を拭いた。実は陸は先に用を済ませていたが、男子生徒が終わるまで用を足すふりをして待っていた。スイスでは手洗いの習慣がなく、ハンカチを持ち歩くこともない。母が用意してくれていた通学用のさまざまなアイテムの中に見慣れぬ三枚の布切れがあった。
「これ、ハンカチだよね」
そう母に確認した陸は、祖父から来日前に手洗い、手拭い文化を教えられていたので、トイレ後、食事前に手を洗い、手持ちのハンカチで水滴を拭き取ることは知っていた。スイスではそもそもハンカチというものを売っていない。練習なしのぶっつけ本番である。すべてワンテンポ遅らせ、横目で男子生徒のやり方を確認しながら、その動作を真似た。
「だから、ホームルームの前からみんなで盛り上がっていたんだけど、急に担任が教室に現れて、騒くなって、怒られたんだよ」
男子生徒は手洗いを挟んでそれまでしていた会話の続きを再開した。
(手洗いに間違いはなかったようだ)
緊張を緩め、男子生徒を真似てハンカチを折り畳み、ポケットにしまう。
「長谷川が世話係なら、てっきりハーフの女子生徒でも転校して来るんじゃないかって、俺たちは期待してたのにさ。教室に入ってきたのが、おまえだろ。ちょっとがっかりしたよね」
と冗談っぽく話してくれた。
一時間目は数学で、授業が始まると、千代が自分の机を陸の机に寄せ、授業内容から、日本の授業の進め方、教師の特徴まで解説してくれた。
陸は日本の高校の一学期分の授業内容を全科目ともスイスで自習してきており、夏休みの宿題の答え合わせと解説が中心の二学期初日の授業は問題なく付いていくことができた。それでも千代は、二時間目以降も陸の反応を見ながら、事細かく説明してくれる。
「この高校に転校してくるくらいだから、勉強は苦手ではないようね」
陸が白紙の夏休みの宿題をすいすいと解いていくのを見て、千代が感心した。
「服部君は勉強もだし、日本のこと、日本の高校のこと、結構分かっているみたいね。逆に何が分からないのかしら」
「それがまだ自分でも分からないです」
日本の高校に学食がないことを母が嘆いていた。今日は昨晩コンビニで買っておいたおにぎりとサラダを持参していた。お昼は朝トイレを案内してくれた男子生徒とその友達と一緒に食べた。他のクラスメイトも、みな陸の話を聞くために、陸たちの机の周りに机を近づけ、昼食をとっていた。ジュネーブで育ったこと、スイスでは両親とは日本語、学校では基本的にフランス語だが、ドイツ語や英語も使っていたことを話した。
「服部くんは、両親は日本人なんでしょ。それなのにハーフぽいよね」
女子生徒の一人が聞いてきた。千代は自席で一人でお弁当を食べており、この会話に参加する気はなさそうである。
「父も母もクォーターです」
その陸の回答に、前の席の男子生徒が
「その場合、そのこどもはなんていえばいいだ。クォーターの子供だから、25足す25でハーフになるのかな」
「クオーターとクォーターなら、その子もクォーターよ」
横から冷静な回答があった。千代である。
「たしかにそうか。ハーフとハーフの場合、50+50が100になるなら、純血の日本人に戻ちゃうもんな」
「どんなクォーターなの」
「父方の祖母はスイス人で、曾祖母はドイツ人です。」
「お母さんの方は」
「母はアメリカで生まれ育っていて、祖母がイタリア系、曾祖父がアイルランド系だったはずです」
「4つ混ざってるってことか。かっこいいね」
「日本人を入れれば5つだよね。すごい」
概ね好意的なクラスメイトの反応に、陸は笑みをこぼした。いろんな人種が混じっていることで気味悪く思われないか不安だったからだ。その時、ふと祖父の言葉が頭をよぎった。
「日本人は排外的で、欧米人への憧れはありながら、自分たちのコミュニティに受け入れることには強い抵抗がある」
自らもハーフの日本人として日本に滞在した経験がある祖父の日本人評である。父母もほぼ同様の意見であった。陸が自ら日本社会を、特に同世代の学校生活を調べてみた際は、いじめという現象が一番印象に残った。弱い者いじめというよりは、仲間内で少し異質な者を排除し、みなで攻撃することが多いようだ。服部家が欧州移住後苦しんできた、そしていまだ受けている差別とは違うものである。
(まだまだ油断しない方が良い)
そう自らに言い聞かせた。転校初日は笑顔で迎えてくれているとはいえ、それで今後仲間はずれやいじめの対象とされない保証はない。日本のいじめの事例では仲が良かった友達にいじめられるようになった話がいくつもあった。
「いじめを受けたとしても、それもよい社会経験だ。いざとなれば、いじめっこを
日本でのいじめの不安を伝えると、そう祖父は励ましてくれた。いじめを嫌悪する祖父ではあるが、いじめられる体験さえ陸が普通の日本人になるのに無駄にはならないと考えているようだ。
(いじめられるのは嫌だけれど、怖がられるのも嫌だな)
チャイムが鳴り、机を戻す頃には陸の笑顔はすっかり消えていた。
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