日本サッカー

市川睦

第1話 帰日

 ボーイング787の右側窓際の席から尾翼に描かれる鶴のマークと同じ紅色くれないいろの太陽が晩夏の空に輝くのが見える。視線を下に移せば、その強い西日が照りつける海岸沿いの陸地が見えてきた。これが生まれて初めて見る日本である。

 十五歳の少年は、普段冷静な彼にしては珍しく、前席背面に埋め込まれた11.6インチのモニターに映し出されるフライトマップと窓から見下ろす実際の景色を交互に見比べ、興奮を隠しきれない。隣に座る祖父の顔がほころぶ。

 日本の航空会社二社はどちらもフランクフルト東京間に直行便を就航させている。両便とも今はウクライナでの戦争の影響でロシア領空を避ける航路を採る。JAL408便は通常の航路から三時間ほど北側を遠回りし、カムチャッカ半島の沖から太平洋へ南下中、三万フィート(約九千メートル)上空から徐々に機体の高度を下げ、関東平野を目指していた。

 ちなみに、全日空の方はロシア領空を避けるのに中央アジア諸国を横切る南回りの航路を採用し、通常時に比べ六時間の迂回となる。二人は祖父の意向でフライト時間の短いJAL便に乗っていたが、実は少年はANA便を希望していた。本州を西から横断して東京に至るので、上空から富士山を眺められるからだ。

 「空から富士山を見る機会はなんどでもあるわよ。これから日本で暮らすのだから」

 希望が通らなかったことをスイス訛りのドイツ語で慰めてくれたのは、フランクフルトの空港まで見送りに来てくれた少年の祖母である。少年同様アルプス育ちの彼女は、山への想いが人一倍強い。旅行で祖父と日本を訪れた際には富士山にも登っている。黒髪で褐色の瞳を持ち、肌の色は色白の日本人に近い。その上スイス人にしては小柄なため、来日時に日本人と間違えられたことが自慢の祖母であった。

 この祖母に付き添うように、叔母と従姉二人がジュネーブからフランクフルトまで祖父と少年を見送りに来てくれた。女四人はその後久しぶりのフランクフルトに一泊した後、祖母の故郷であるチューリッヒにも立ち寄るという。

 機長のアナウンスでシートベルトを締める頃、いよいよ憧れの日本の土地がよりはっきりと見えてきた。父の趣味であるジオラマのように小さな建造物と地形の変化が眼下をゆっくり過ぎ去っていく。

 (早く日本の空気が吸いたい)

 そんな少年の想いを弄ぶかのように、一度着陸態勢に入ったボーイングが上昇し、アプローチのやり直しとなった。再び機体の向きを滑走路と平行に整え、今度は無事着陸に成功した。

 

 少年は飛行機に持ち込める一番大きなサイズのトランクを押しながらも、大股で歩く外国人観光客や急ぎ足のビジネス客の間を縫うように進んでいく。その少し前を歩く祖父と二人、それほど急いでいるようには見えないのに、なぜか前行く人々をごぼう抜きしていた。それに気づいたスーツ姿の男性が二人の後に付いていこうとしたが、すぐに小走りとなり、足がもつれて転んでしまった。

 祖父の方は顔認証ゲートを初めて利用して二年ぶりの日本への入国を果たし、少年は入国審査カウンターの列に並んだ。少年を担当した若い入国審査官が日本からの出国履歴がない日本国旅券を受け取ったのはこれが初めてのことで、それを差し出した少年とその少し幼い頃の顔写真を見比べ、手書きされたスイスジュネーブの住所を確認して、スタンプを押した。日本国旅券を受け取り、少年は晴れて法律的にも日本へとなった。欧米各国からの便が集中するこの時間帯、少し先にある外国人用の入国審査カウンターは長蛇の列である。手荷物を預けていない二人はそのまま税関検査に進み、こちらもスムーズに通過した。

 到着ロビーの自動扉が開くと、出迎えの人々が辺り一面を埋め尽くしている。ネームボードを持つ人々が最前列を占める中、少年はそのすぐ後ろに腕を組んでスマートフォンをいじる三か月ぶりの母の姿を見つけた。細身の長身に纏う《まと》白のワンピースと大きめのサングラス、濃紺の波打つ形状のつば広帽が人混みの中でも母を際立たせていた。周りの出迎え客はこの着飾った女性をボディーガードを従えた女優かモデルではないかと少し距離を置いてチラチラと見ており、そのことでも少年は母親を容易に見つけられた。

 「フライトいかがでした。お義父さま」

 「久しぶりの日航機は、エコノミーでもキャビンアテンダントさんの接客が心地いいね。酒と食事も悪くなかった」

 「服部様、日本へようこそ。お待ちしておりました」

 母の後ろに待機していた、母よりやや背が低いが、スーツがはち切れそうな筋肉質のが祖父に声を掛けた。

 「どこで話しますかな」

 「この上に部屋をとっています。どうぞこちらへ」

 トランクを携え、リュックサックを背負う孫とは対照的に、セカンドバック一つ持たない祖父は、

 「わしは仕事の話があるから、ここでお別れだ」

 「えっ、後で合流しないのですか」

 想定外の祖父の言葉に少年は驚きの表情を浮かべる。そんな時でも祖父には丁寧語で話すことを忘れていない。それは少年が十歳を迎えた時から徹底された服部家の躾であった。

 「お前を無事日本に連れてくるのが私の務めだ。ついでにもう一仕事こなしてからスイスに帰る」

 そう言って、祖父は軍人でなければ格闘家としか見えない男に付いて行ってしまった。 

 「お義父様も私やパパ同様、日本に来たら仕事で忙しいの。さあ、日本で暮らす家を早く見たいでしょう」

 少年の母親は高いヒールを物ともせず、ランウェイ上のモデルのように颯爽と立体駐車場に向かって歩を進めた。駐車場への渡り廊下に差し掛かると、その辺りからもはや空調が効いていない。残暑の、もわっとした熱気に全身を包みこまれ、少年は歩みを緩めることなく大きく深呼吸してみた。スイスで生まれ育った少年には暑さ以上にその蒸せるような湿気が島国の夏を感じさせた。

 「NISSAN GTRよ。スーツケース、ボディを傷つけないよう入れてね」

 トランクをスーツケースと呼ぶアメリカ英語を話す少年の母親は、あれやこれやと日本初上陸の感慨に耽る息子の様子にはお構いなしに、細く長い人差指で誇らしげに乗るべき車を示した。スイスでは911カレラを駆っていた母の日本での愛車も同じ深紅のボディーカラーである。

 「こっちのおじいちゃんに買ってもらったの?」

 祖父と違い、母には砕けた口調で話し掛ける。少年の母親はサングラスを少しずらして左目のウインクで息子の質問に応える。息子が助手席に座わると、低い車体に乗り込む時に脱いだ帽子をその膝上にポイと預けた。低いエンジン音を響かす車体を一速と半クラッチでゆるりと発進させ、往路にBGMを提供したラジオのボリュームを絞る。

 「少しは背、伸びたの」

 同年代の日本人男子の平均身長よりは高いが、まだ自分の背丈には追いつかない息子を心配する母は、日本で購入した靴をはいていたので、先ほど並んで歩いても息子の身長が会わない内にどれほど伸びたのか分からなかった。

 少年が祖父母の家で過ごしたスイス最後の夏休みの出来事を語る内に、GTRは首都高速を下り、一般道に合流した。五分ほど走ると、車がさらに減速し、路地を抜け、「市ヶ谷仲之町宿舎」と書かれた案内板の前に停まった。

 「ここで下りて待ってて。車置いてくる」

 近くのパーキングに愛車を駐車してきた母に続いて、少年はトランクを押して、これから親子三人で暮らすことになる防衛省の官舎に入っていった。ジュネーブの祖父母の家を出発してから東京の新宿区までまるまる二十四時間の長旅であった。

 

 エアコンが効くまで暑気を逃すために母がリビングの窓を開けた。窓際のソファに腰を下ろした少年はその窓から夜空を見上げた。昨晩まではアルプスの背景にひしめき合っていた星たちが、日本の湿気と東京の夜の明るさのためにその輝きを潜めている。そんなのっぺりした夏の夜空はこれから少年が過ごす日本での生活を暗示するかのようだ。

 「普通の日本人高校生」

 少年は小さい頃から祖父や両親にいつか日本に戻り、として暮らすことになると言われ続けてきた。それがいつになるかは分からなかったが、半年前に突然日本への帰国を告げられ、その三か月後両親が先行して日本に向かった。二年前に祖父が日本に行った頃から進んでいた話のようだ。

 日本から遠く離れたアルプスの麓で生まれ育ち、しかも両親がともにクォーターで日本人の血が四分の一しか流れていない少年がになるのは簡単なことではない。それでも少年にはそうなってもらわなければならない。それが百五十年以上日本を離れていた服部家の総意、願いであった。そのために少年は日本に帰ってきた。

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