第26話 すやすや
イルグリムへ戻って以来、オリヴィアは長引く頭痛の発作に苦しんでいた。
マナセが呼んできた医師によって痛み止めの注射を打ってもらえたが、痛み止めが切れるとまた頭痛が再発した。飲み薬でも注射でも、頭痛を抑えることができない。レグラスで過ごしていたときは薬などなくてもすやすやと眠れたのに、ここでは不眠続きだ。
オリヴィアは朦朧とした意識の中で、サイレンが鳴り響いているのを聞いた。不安をかき立てる嫌な音だ。悪い夢を見ているのかと思ったが、「侵入者あり、ただちに対処せよ」との全館放送が聞こえてくると、どうやら本当に緊急事態のようだと理解した。
状況が分からないが、寝ているわけにはいかなそうだ。オリヴィアはよろよろとベッドから起き出した。
女子寮の仲間たちは大丈夫だろうか。オリヴィアは二つ隣の部屋、アイリーンを訪ねた。彼女は二つ年下の
やはりアイリーンはサイレンの音に気づいていなかった。緊急事態、みんなを逃がしてあげて、と身振りで示すとこくりと頷いた。その後で、アイリーンは足が悪いサリーを背負い、まだ移植手術をされていない五歳のナディアを軽々と抱えて走っていった。
サイレンの音が頭痛を煽る。オリヴィアは廊下の壁を伝ってどうにか歩き、すべての部屋を回って逃げ遅れている仲間がいないことを確認したところで、立ち上がる力を失ってしまった。
身体が冷えていくのを感じた。いよいよ死ぬのかもしれない。
レグラスで出会った人たちの顔を思い浮かべる。ただ世話をしてもらうばかりで、何も恩返しできなかった。結局
そして――。
オリヴィアの脳裏には、あと二人の顔が浮かぶ。リコと
「大丈夫や」と繰り返し励ましてくれた理市、素敵なお洋服を貸してくれたリコ、雨をしのぐために軍服を貸してくれた理市、おいしいミートパイを焼いてくれたリコ、オリヴィアのためにマナセに立ち向かってくれた理市――。
まだ死にたくないと思った。あのひとに、伝えなくてはならないことがある。オリヴィアは懸命に立ち上がろうとした。けれども熱に浮かされた身体からは力が四散していく。がくりと膝が折れた。もう視界も曖昧だ。
「オリヴィア」
低くて、優しい声がする。理市の声だ。迎えに来てくれたのだ。この世界で最後に聞く声が、彼の声でよかった。
頬に感じる温かさに身を委ねたとき、その柔らかな感触がたまさかにオリヴィアを覚醒させた。閉じかけていた目を開く。
見覚えのあるレースの立ち襟。その隙間から、首筋に走る傷跡が覗いている。
オリヴィアはこの傷を知っている気がした。――そう、突然の雨に降られて理市が軍服を貸してくれたとき、大きな傷があるのを確かに見たのだ。
「リコさん……理市さん?」
抱きしめてくれる腕に力がこもる。大きな手で髪を撫でられると、心が安らぐとともに頭痛が少しずつ治まっていった。
「待たせてすまんかったな。もう大丈夫や」
姿こそリコ・モリスのままだ。しかし彼は、スカート姿のまま
ああ、なぜ今の今まで気づかなかったのだろう。この人はずっと傍で、私を見守っていてくれたのだ。
「会いたかった」
「どっちにや?」
「どっちも……」
幸せ過ぎて涙がこぼれる。オリヴィアはぎゅっとリコを、理市を抱きしめ返した。
「お二人さん、感動の再会のところ悪いけど、続きは脱出してからにしないか?」
理市の背後から聞こえた声も、オリヴィアにとっては嬉しいものだった。
「ヒューさん! 傷は大丈夫なんですか⁉」
「なんてことないよ、ただのかすり傷さ」
それが強がりなのは分かりきったことだったが、それでもオリヴィアはほっとした。
「一応僕もいますよぉ! まあ別にいいですけどねぇ!」
聡介もヒューの後ろからひょっこり顔を出す。みんなが助けに来てくれた。それだけで、また力が湧いてくる。
「さっさと逃げましょうよぉ! ただただ正面突破するだけの、めちゃくちゃ頭の悪い作戦なんですからぁ!」
「いけるか? オリヴィア」
「はい」
理市に支えられながら、オリヴィアは再び立ち上がる。
レグラスで出会った仲間たちとともに女子寮から出た、そのとき。
〈オリヴィア、行かせない〉
その声は、芽生えた希望を摘み取るかのように響いた。
女子寮を出た先、砂埃が舞うだけの殺風景な中庭に、マナセが立っていた。
「ヒュー、聡介。オリヴィアを頼む」
リコの長い髪とスカートをなびかせながら、理市が異界刀を抜き放った。
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