第22話 賑わい
七月二十二日、王立研究所に留まっている
オリヴィアを逃がしてしまった――軍部へはそう報告した――失態に対して、
相手は
たとえ謹慎や本国への送還が命じられていたとしても関係ない。軍規に背いてでも、命を捨ててでも、あの子を助け出す。
心の中に芽吹いた思いを自覚したとき、理市はまず己を疑った。
なぜそこまであの子にこだわるのか? たかだか二週間余りをともに過ごしただけの少女に、思い入れが過ぎるのではないか? 一時の激情のために、我を忘れているだけではないか?
けれどもいくら自分の心の底へ潜ってみても、見つかるのは固く結ばれた決意だけで、むしろ考えれば考えるほどオリヴィアのけなげな姿が思い返されて、なおのこと彼女をイルグリムの邪悪から解放せねばと思うのだった。
意志は確かだ。分からないのは、その意志の出所――つまり、理市がオリヴィアに抱く感情は一体何なのか、ということだった。
リコとして母親代わりを務めたせいで、オリヴィアを我が子のように思っているのかもしれない。でも、本当にそれだけだろうか。オリヴィアと離ればなれになってから、胸に穴が空いたような気がする。この気持ちは一体何なのだろう――などと考えていたら、流れてくるそうめんを取りこぼした。
「あ」
「またキャッチ失敗じゃないですかぁ。意外とどんくさいですねぇ、ヒコボシさん」
ガラスの樋の下流で待つ
聡介が発明した全自動流しそうめんマシンはすごい。茹でたそうめんを上流側の
「昨日ちゃんと寝ましたぁ? 顔色悪いですよ」
ヒューが重体でオリヴィアが去ったいまの状況でぐっすり眠れるほど、理市は図太くはない。
一方で聡介も、目の下に隈を作っている。
「もしかしてヒコボシさん、くだらないことで悩んでません?」
図星すぎて言葉が出なかった。聡介がニヤリと笑う。
「いや、むしろ、『俺、くだらんことで悩んでんなぁ』って悩んでるのかなぁ」
「物真似やめえや」
「別にいいじゃないですかぁ、悩んだって。心の中は自由ですよぉ! でも夜眠れないのは良くないですねぇ。処分もなかったことですし、気晴らしに出かけてきたらどうです? レグラス観光も楽しいですよぉ!」
聡介がそうめんをちゅるちゅると旨そうに啜った。
「……せやな」
とても観光などする気分ではないが、確かに理市にも行くべき場所があった。
***
理市は一度地下通路を通り、モリス家に帰った。オリヴィアが出て行った後に、食器棚で塞いでいたキッチンにある隠し通路を元に戻しておいたのだ。オリヴィアもヒューもいないモリス家は、主の帰りを待ちかねて眠っているかのようだった。
衣装部屋で女装をしてリコになり、あえて外へ出る。
〈リコ……! リコじゃないか! 大変だったね〉
隣の家のウィルソン夫人が、目を潤ませてリコを抱きしめた。
オリヴィアがいなくても、理市はリコを演じる務めがある。たまには姿を見られておかねば。ましてヒューがあんな目にあって、新聞にまで載った直後である。近隣住民の注目が集まっているだろう。
大きな鞄を抱え、生死の境をさまよう夫を付きっきりで看病する妻の姿を印象づける。後はウィルソン夫人が、周囲の人に少しばかりの尾ひれをつけて話してくれるだろう。
〈大丈夫、きっとヒューは良くなるよ〉
〈ええ、私もそう信じていますわ。ありがとう〉
ヒューとリコをおしどり夫婦だと信じて疑わない人の真心がありがたい。夫婦ではなくても、相棒には違いないのだ。リコを演じることで、ヒューが戻ってくる場所を守ることができるような気がした。
イースト・ポンド・パークで爆発事件が起きたというのに、街の賑わいは普段と変わらない。混雑するバスを乗り継いで、中央病院前で降りた。正門から入ってヒューの妻を名乗り、もう知っている病室へ案内してもらう。
ヒューは静かに眠っていた。かすかな寝息を聞いて、生きているのだと心底ほっとする。
「ヒュー、お前のかわいい嫁が来たで」
人目がないことを確かめてから、リコは理市の声で呼びかけてみた。反応はない。それでもリコは、理市は、言葉を継いだ。
みんながヒューを心配していること、ヒューの名前が新聞に載ったこと、聡介はとんだ変人だと思っていたが意外といいやつかもしれないこと、聡介が発明した流しそうめんマシンのこと。話したいことはたくさんあるが、オリヴィアが去ったことだけは話せなかった。
「そうめんいうても、お前は知らんわな。小麦でできた麺で、白うて細長うて……」
そこで言葉に詰まった。答えの返ってこない寂しさに唇を噛む。
「また来るわ。……死なんといてくれよ。頼むわほんま」
少しばかり本音を言って立ち上がり、ヒューに背を向け、一歩踏み出したとき。
「そうめんなら知ってるよ。冷や麦みたいなやつだろ?」
答えは、返ってきた。
リコはゆっくりと振り返った。空耳でないことを祈りながら。
まだどこか寝ぼけたような目を瞬いて、ヒューが微笑んでいる。
本当は胸がいっぱいで、いまにも感極まりそうだったけれど。
「おう、そうか。ほな、お医者さん呼んでくるわ」
涙をこらえるのが精一杯だったリコは、間の抜けた答えとぎこちない笑みを返して病室を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます