第10話 ぽたぽた

 モリス家に朝早く郵便が届いた。それも速達だ。

 リコが受取に出ると、郵便配達員は変装したナンシーだった。表の顔はペリントン商会の受付嬢、その正体はレグラス軍諜報部所属の軍曹である。

〈申し訳ありません、私のミスで、昨日カミツハラ軍からの電報をお伝えし忘れていて〉

 ナンシーはリコにこっそり耳打ちをした。通常、神原軍かみつはらぐんからの連絡は電報でペリントン商会に届き、出勤したヒューが一字一句間違えずに暗記して理市に伝えるが、今回はミスの責任を取って自分で伝令に走ったらしい。形のいい顎を伝って、汗のしずくがぽたぽた落ちる。

 リコは封筒の住所をあらためるふりをして、そこに書かれた簡易式の暗号を解読した。住所の固有名詞に偽装された単語は、それぞれ別の神原語かみつはらごに対応している。


 ミカド ヤマイ コウタイシ セッショウ


 最高の貴人に対する敬語さえ略されたメッセージに、リコは一瞬眉を曇らせた。

〈追ってさらに連絡があるはずですので、届き次第モリス准尉にお伝えします〉

 ナンシーが小声で付け足す。リコは頷き返した。

〈あら、ごめんなさい、これはうちの住所じゃないみたい〉

〈わあ、本当だ! 失礼しました!〉

 一芝居打って、封筒を受け取らずにナンシーを帰らせる。わざわざ来てくれた彼女に紅茶の一杯でも出してやりたいが、ちょうど二階の寝室からいつもより寝坊気味のオリヴィアが下りてきたところだった。

「おはようございます。昨日はどきどきしてしまって、あまりよく寝られませんでした。……どうかしましたか、リコさん?」

 オリヴィアに尋ねられて我に返る。険しい顔をしていたのかもしれない。

「別に何でもないの。さあ、早く朝ごはん食べちゃいなさい」

 朝食を食卓に並べて、リコはオリヴィアに背を向けた。

 帝が病気になり、皇太子――つまり辰巳宮たつみのみやが摂政として政務を代行する、との報せ。辰巳宮は、実質的に神原国かみつはらのくにの最高権力を手にしたことになる。

 たっつんは純粋で優しい。年も若い。彼を傀儡かいらいにしようとする老獪ろうかいやからは、文官武官問わず多いだろう。

(……何事もなければええけど)

 いまの理市りいちには、世界の果てから友の平穏を祈るしかできない。

 


***



 一発ごとに大気が揺れ、海面に波紋が拡がる。そこかしこで砲声が轟いていた。

 西フレイドン港の防衛隊は、この日もイルグリム軍と激しい戦闘を繰り広げていた。レグラス海軍の新兵ピーター・ガーデンは、小隊の仲間たちとともに岸壁のトーチカから敵の揚陸艦ようりくかんを狙っていた。

 ピーターはいつも不思議に思っていた。イルグリムの艦船は時代遅れの旧型ばかりだ。いつもトーチカの砲撃と機雷の壁を乗り越えられず、沈没するか撤退するかしている。今回もレグラス軍優勢で、港を守り切れる見込みだ。それでもなぜか一部の敵兵は、上陸してフレイドンの市街地を攻めているという。

 密航と言われているが、そんなことができるものだろうか。確かに西フレイドン港周辺の海岸線は複雑に入り組んでいるから、目立たない大きさの船ならどこかの浅瀬に乗りつけることは不可能ではないかもしれないが、機雷の餌食になるリスクの方が高いはずだ。まともな軍隊なら、そんな攻め方はしないものだ。

〈敵だ!〉

 その声は、なぜか背後から聞こえた。

 慌てて銃を構え振り返る。ピーターには何が起こったのか分からなかった。敵は海の向こうから来るはずだ。それなのに背後の入口から現れた。――それも、たったひとりで。

 敵は長身で、若かった。二十歳のピーターよりも年下に見えた。長くて癖の強い黒髪が、束ねられもせず黒馬のたてがみのように揺れている。黒いブレザーと赤いネクタイは、まるで学生服のようだ。

〈畜生!〉

 仲間が至近距離で銃を撃った。何発も撃った。そのたびにブレザーに穴が空く。だが銃弾が足下に転がるだけで、敵の身体を傷つけることはできなかった。

〈落ち着け〉

 低いが、やはりどこか幼さの残る声だった。敵は両手に短剣を構えて近寄ってきた。信じがたい光景である。まともに銃撃を受けて、無傷の人間がいるとは。

〈ひとりでも俺の質問に答えられたら、殺さない。でも、嘘はだめだ〉

 穏やかで訥々とつとつとした口調が、かえって恐ろしく感じる。ピーターも仲間たちも、みなすくみ上がっていた。

〈白い髪で、目の赤い東洋人の女の子、見なかったか?〉

 ピーターには心当たりがなかった。そんな珍しい容姿の少女がいたら、さすがに記憶にあるはずだ。

〈見……見た! 昨日イースト・ポンド・パークにいた!〉

 叫んだのは隊長だった。

〈本当か?〉

〈本当だ! 昨日は一時帰宅日だったから、妻に頼まれて犬の散歩をしてたんだ。時計塔の下に麦わら帽子の女の子がいて、一瞬帽子を脱いだとき髪がミルクみたいに真っ白だった。背広のレグラス人と、レグラスの軍服を着た東洋人が一緒にいた〉

 ピーターは隊長を疑った。命惜しさに嘘をついているのではないかと。敵も同じ気持ちだったはずだ。

 しかしその疑念は、続く言葉で消えた。

〈女の子は名前も名乗ってた。確か……「オリヴィア」だったはずだ! 妻の名前と一緒だって思ったからよく憶えてる!〉

〈……そうか。ありがとう〉

 敵の少年は、長い黒髪を揺らしながら出て行った。命拾いした――それでもなお、ピーターたちの恐怖心は消えなかった。

 撃たれても死なない敵がいる。

 こんな非現実的な話を、いったいどうやって上に報告すればいいのだろうか?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る