第9話 肯定

 理市りいちは軍務へ戻ると嘘をつき、ペリントン商会へ戻った。ヒューはオリヴィアを百貨店へ連れて行き、時間を稼いでくれている。

 着替えてリコの姿に戻り、急いで帰宅した。理市と同じ傘を持ち帰るとオリヴィアに気づかれるかもしれないので、ペリントン商会にある別のデザインのものと取り替えるのも忘れなかった。

 昼過ぎには雨が止み、ヒューとオリヴィアが帰ってきた。昼食はレストランで済ませてきたそうだ。食事の支度が一回分省けて喜んでいる自分を、リコはずいぶん所帯じみたものだとわらった。

「ヒューさんにお洋服を買ってもらいました!」

 オリヴィアは嬉しそうに、生まれて初めての百貨店がどんなに素敵な場所だったかを語った。洋服代はきっと後で調査費として経費申請するのだろうが、ともあれ、オリヴィアが華やいだ笑顔を見せるのは初めてのことだった。

「それは良かったわね。今度着てみせて」

 リコはオリヴィアを祝福する一方で、ヒューに対して嫉妬めいた感情を覚えた。理市と一緒にいたときは、オリヴィアはほとんど笑わなかったのに。女子の扱いの下手さが、そのまま諜報部員としての無能さでもあるような気がしてならなかった。

 オリヴィアは目をきらきらさせながら、こう答えた。

「はい、また理市さんにお会いできるときがあったら、そのときに着たいなと思っています。上着をお借りしたままなんです」

 その一言で心のもやが晴れ――晴れたことが恥ずかしくなって、またもやもやするのだった。


***


〈……で、何か聞き出せたんか?〉

 再び、オリヴィアが寝静まった後の客間。

 ふたりの諜報部員は、ヒューが百貨店土産として買ってきたウィスキーを酌み交わしていた。

〈嘘か本当かは分からないが〉

 ヒューは慎重に前置きしてから、話を始めた。

〈オリヴィアは戦闘員との教育を受けていたようだ。それも、近々実戦に担ぎ出される予定だった〉

〈実戦? オリヴィアは女子やし、しかも子どもやろ〉

 少女に戦わせるなんて、神原かみつはらでは考えられないことだ。

〈あの子、デパートで買い物した後に言ったんだ。『戦争してるなんて嘘みたい、いまも学校の友達が戦ってると思う』って。……やっぱり何か匂うよなあ〉

 ヒューはぬるいグラスを傾けながら、珍しく真面目な表情で言った。

 理市は考えを巡らせた。

 本当だとしたらひどい話である。イルグリムは二十歳にもならぬ少年少女に戦い方を教えて、実戦に送り込んでいるのだろうか。そこまで余裕を失っているのだろうか? ――いや、イルグリム軍が西フレイドン港を脅かしている現状を考えると、それは楽観的な見方のように思える。

〈理市君のほうはどうだった?〉

 ヒューに聞かれて、理市は情けなく首を振った。情報を得るどころか、ろくに会話すらできなかった。

〈俺は諜報向いてへんわ。戦場に出て刀を振り回してるほうが性に合ってると思う〉

〈そう決めつけるのは早すぎるんじゃないか? 君がここへ来てから、まだ一年しか経ってないのに〉

〈何年いても、俺はお前みたいな筋金入りのスパイになれる気がせえへんよ〉

 認めるのは癪だが、オリヴィアに対するヒューの振る舞いは見事だ。親切なレグラス紳士を装いながら、しっかり少女の懐に入り込んで心を開かせようとしている。しかもヒューは情に流されない。オリヴィアが戦闘員の卵だという話を、単なる情報として処理することができる。理市にはそれができなかった。オリヴィアが可哀想でならない。

〈おや、僕は筋金入りのスパイじゃないよ。君と同じさ。去年転属になるまでは、銃剣を担いでイルグリム島に攻め込んでたよ〉

 理市は目を見張った。初めて聞く話だ。

〈戦場でひどい目に遭ってね。なんとか生き延びたけどもう嫌になっちゃって、配置転換してもらったんだ〉

〈……神原語かみつはらごは? スパイやから、いろんな国の言語を習得してたわけやないんか〉

 ヒューがフッと笑みを漏らした。どこが寂しげな横顔だった。

〈次の戦友は神原人かみつはらじんだって聞いたからね。一生懸命勉強したよ。長い付き合いになるといいなと思って〉

 理市はすぐに言葉を返すことができなかった。照れ臭さとありがたさが同時にこみ上げてくる。少し素直になるために、酒の力を借りることにした。ウィスキーを飲み下すと、甘さとほろ苦さの混ざった独特な風味とともに、頭に熱が回る。

〈……すまん。俺、お前のこと誤解してたかも分からん〉

 ほんのわずかの間だけヒューの青い瞳を見て、すぐに目を逸らした。酔っ払ったところで、言えるのはこれが限界だ。本当は理市も、神原語が通じる陽気な相棒のおかげで、どれだけ救われていることか。

 すると突然、ヒューが笑いだした。最初は喉の奥で小さく控えめに、でも我慢できずに、結局大笑いした。

〈な……なっ、なんや〉

〈いやー、ごめんごめん。あんまりおかしくてさあ。リイチ君、いまの話まるっと全部信じたでしょ〉

〈えっ、うっ……嘘やったんか⁉〉

 一気に酔いが覚めたのに、顔だけはいっそう赤くなる。

〈あのねリイチ君、これは君よりちょっぴりオトナなおじさんからの忠告だけど〉

 否定も肯定もせずに、ヒューは涙を拭いながら言った。

君は優しすぎるよYou're too good。気をつけたほうがいい、その優しさがいつか君自身を苦しめないように〉

 ヒューはひとしきり笑った後で、また真面目な顔をし、そしてまた笑い出す。

「アホーッ!」

 理市は思いきり叫んだ後で客間を出た。誰に向かって言ったのか、自分でもよく分からなかった。

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