第8話 こもれび
レグラス軍の軍服に袖を通す。久しぶりに男に戻れるというのに、こんなに気が重いとは。
七夕の夜から二日経った七月九日、
これまでリコへの変装を必要としない軍務の際は、自宅から軍服を着て地下道を通って外出するが、オリヴィアが来てからは不可能になった。仕方がないので、一旦リコの姿で朝早く家を出た。オリヴィアには、今日は用事があると伝えてある。
リコはペリントン商会にまっすぐ向かった。オリヴィアの存在は諜報部の仲間たちにもまだ秘密なので、「今日は軍務に出かける前に、リコの姿を見せておきたい」と心にもないことを言った。女装姿を見せるのは、赴任以来初めてのことだった。
〈えっ、
〈東洋の神秘だ〉とは、所長でヒューの上官でもあるゴードン少佐から。
〈ヒューがうらやましいよ!〉とは、主計官レッドワース中尉から。
その他諸々の賛辞と冷やかしを引きつった笑顔で聞き流し、理市は更衣室に入った。
今日は森州理市として、オリヴィアに会う日だ。
ヒューは今日休暇を取っている。オリヴィアを理市のもとに案内するためだ。待ち合わせは朝九時半にイースト・ポンド・パーク。ペリントン商会からは歩いて十分とかからない距離にある、小さな公園だ。
理市は一般市民に姿を見られないように、ペリントン商会の裏口から外へ出た。公園に着いたとき、時計塔は九時十分を示していた。早く来すぎてしまったようである。犬の散歩やジョギングに来た人たちが、帯刀した軍服姿の神原人を訝しげに見て、しかし決して視線を合わさずに通り過ぎていく。
今日は傘を置いてきた。昨晩の雨が嘘のように、雲一つない青空だ。かといって暑すぎるわけでもなく、長袖の軍服を着るのがさほど苦にならない気候がレグラスらしい。
「ポンド」の名の通り、イースト・ポンド・パークには時計塔を取り囲むように三日月型の池がある。理市は鴨の親子が隊列をなして泳いでいる姿をぼんやりと眺めていた。
「あれ? 早いね、リイチ君」
背後から聞こえたヒューの声に、理市は情けなくびくついた。振り返ると、ヒューに連れられてオリヴィアが立っている。
オリヴィアの服と麦わら帽子は、リコのものを貸した。オリヴィアには少し大きかっただろうが、レースのついたブラウスも、花柄のスカートも、よく似合っている。
「お忙しいところ、お越しくださいましてありがとうございます。オリヴィアといいます。先日は助けていただき、本当にありがとうございました」
子どもの頃にイルグリムへ来たオリヴィアは、あまり敬語を知らない。これは昨日理市がリコとして、オリヴィアに教えた
頭を下げるとき、オリヴィアは麦わら帽子を取った。昨晩まで長かった髪が、短くなっている。
「その髪は……」
「ここに来る前に、ヒューさんに切ってもらったんです。私の髪は目立つから」
ヒューにそんな器用な真似ができるとは思わなかった。週に一回自分で丸刈りにしている理市は、次から頼んでもいいなと一瞬横道に逸れたことを考え、――いやそれよりも、髪を切るなら事前に教えておいてほしかった。見慣れない姿になったオリヴィアを、理市は直視することができない。
オリヴィアが帽子をかぶり直すと、ヒューが言った。
「それじゃ、僕はこれで」
「えっ」
声を上げたのは理市だ。三人で行動するものと思っていたのに。
「また後で迎えに行くからねー」
「ちょっ、ヒュー……」
ひらひらと手をふり、へらへらと笑って、ヒューは足早に去って行った。どうせその辺の植え込みにでも隠れて、こっそり見物する気に違いない。
「……あの、そこのベンチが空いてます」
呆然としている理市より先に、オリヴィアが指さす。理市は黙って頷いた。
木陰にあるベンチに腰掛けると、涼やかな風が通り抜けた。木漏れ日がきらきらと地面を照らす。
いくらか心を落ち着けた理市は、どうにか切り出した。
「……頭が痛いんは、もう大丈夫なんか」
「はい、いまのところは」
「そうか。……もう痛ならんかったらええな」
「はい」
会話が途切れてしまった。「ちょっと優しくして」とヒューは言ったが、これが精一杯の優しさだ。
「あの、理市さん、って、リコさんのご親戚ですか? どこか雰囲気が似ている気がして」
ぎくり。似ているのは当たり前だ、同一人物なのだから。
「他人の空似やろ。俺に親戚はおらへん」
「そうですか。すみません」
動揺を悟られないように答えたら、冷たい言い方になってしまった。しゅんとするオリヴィアに内心焦る。頭を必死に回転させて、どうにか次の質問をひねり出した。
「えーと……いまヒューの家にいてるんやってな」
「はい」
「不自由してへんか?」
結局、昨晩リコとして聞いた質問と同じことを尋ねている。
「不自由なんて、とんでもないです。ヒューさんもリコさんも、本当に良くしてくださってます。素敵なご夫婦ですよね、とっても仲がよくって」
「そんなこと……」
あらへん、と言いかけて慌てて口をつぐむ。
「……まあ、せやろな。リコさんはえらいできた人らしいからな」
どこかで聞き耳を立てていそうなヒューに聞こえるように言ってやった。
「ええ。私もあんな風に、素敵な女性になりたいです」
ヒューが噴き出す声が聞こえた気がした。幻聴だろうか。まあ、素敵な女性に見えているなら、理市の変装がうまくいっているということだろう。
「……でも、私には無理です」
ぽつりとオリヴィアが言った。
「なんで?」
「だって、私……」
オリヴィアが表情を曇らせる。理市は直感した。いま自分は、思いがけず彼女の秘密に迫っているのではないかと。
と、坊主頭を叩く感触があった。
「……雨や」
「え?」
さっきまで晴れていたのに、もう空が暗くなっていた。急に雨脚が強くなる。レグラスというのは、本当に天気が変わりやすい国だ。
「どうしよう、リコさんから借りたお洋服なのに」
オリヴィアが帽子を脱いで、身体でかばう。その姿に心が疼いた。
理市は自然と軍服の上着を脱いでオリヴィアにかけてやり、彼女の手を引いていた。
「通りの軒先まで走るで」
「は……はい!」
二人は水たまりを蹴散らして走り出した。
少しゆっくり走ってあげたほうがいい。そう思ったが、特に加減せずともオリヴィアはついてきた。相当足の速い子だ。
通りに出ると、銀行の入口にちょっとした屋根があった。これ幸いと駆け込んで、ふたりで空を見上げる。すぐには止みそうもない。
「あの、理市さん、上着……」
「着とき。病み上がりやろ、風邪引いたらまた
オリヴィアの方を見ずに答えた。無意識のうちに手を繋いでいたことが、急に照れくさくなったからだ。リコのときは自然と手を握れたのに、なぜだか分からない。
「あと……無理では、ないと思うわ」
隣のオリヴィアが視線を上げた。それも理市は横目で見ただけだ。どうしてもぶっきらぼうな言い方になってしまう。
「まだ若いやん。素敵な女性でも何でも、なろうと思たらなれるさかい、諦めんほうがええんちゃう」
「理市さん……」
オリヴィアの事情は知らない。でも、軍人にしかなれない自分とは違うはずだ。
言外に秘めた自嘲を、理市は黙って飲み込んだ。
「おやおや、お困りかな、お二人さん?」
後はヒューが傘を持ってくるまで、もう何も言わなかった。
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