第7話 洒涙雨

 オーブンからバターと小麦の香ばしい香りがあふれ出てきた。

 理市がレグラスに来てから一年、軍務の成果は上がっていないが、料理の腕だけはめきめきと上がっている。

 神原国かみつはらのくにとレグラスとでは手に入りやすい食材が異なる。調味料も違う。白飯や味噌汁、焼き魚といった神原かみつはら料理の定番を、この地で作るのは難しい。理市はレシピを読んで一からレグラス料理を覚えなければならなかったが、元々何をやらせても器用だから、見事なミートパイを焼いてヒューを喜ばせるまでにさほど時間はかからなかった。まあ、異界鉱ミステライトを熱源に使用したオーブンだから、火加減は簡単だ。美味しく焼けろ、と念じるだけなのだから。

「みんな、ごはんよ」

 今日のミートパイも、最高の焼き上がりだ。

 リコとして振る舞う理市と、仕事を終えて帰ってきたヒューと、家で大人しく待っているオリヴィアとの三人で囲む食卓。米もないのに「ごはん」は妙な気もしつつ、神原語かみつはらごではほかに表現する言葉がない。

 ミートパイにマッシュポテト、サラダと人参の酢漬けに、丸いパンを二つ。スープが欲しいところだったが、玉ねぎをちょうど切らしていた。

「いやあ、リコは料理の天才だなあ」

 絶妙な味つけのミートパイに、ヒューはご機嫌だ。少し薄味にしたほうがヒューの好みらしい。理市には少し物足りない気もするが、さほど食にこだわりもないので合わせてやっている。

 オリヴィアの口にも合うだろうかと心配し、いや、食えるものを出しているのだからそれで十分だろうと思い直す。彼女は家族ではなく、情報源として利用するだけの相手に過ぎないのだから。

「リコさんの料理、どれもすごくおいしいです」

 オリヴィアも同意してくれた。お世辞ではないと思いたい。

「そう? お口に合ったようで、うれしいわ」

 紛れもない本心だった。どうやら料理を他人に振る舞うと、おいしいと喜んでもらいたくなるのは人間の性らしい。

「どうだいオリヴィア、ここでの生活は。毎日退屈じゃないかい?」

 ヒューがパイを切りながら言った。オリヴィアはこの家から一歩も出ず、ほとんど寝室に閉じこもったまま過ごしている。この家で暇つぶしになるものは、リコがレグラス語を覚えるために読んでいた本や、ヒューが愛読しているゴシップ誌くらいだ。

「大丈夫です。イルグリムの寮に比べれば、ここはまるで天国みたい」

 天国と言われるほどのもてなしはしていない。イルグリムでは「牢屋みたいな個室」に閉じ込められていたというから、よほどイルグリムがひどかったのだろう。

 何があったのか聞きたいが、時期尚早だ。もっと打ち解けてからのほうがいいだろう。ヒューもそれ以上追及しなかった。

「何か欲しいものとか、困っていることはないかい? 僕たちにできることなら、何でもするよ」

 親切心ではない。少女と仲良くなるための手がかりを模索しているのだ。

「いえ、ここにいさせてくださっているだけで、十分です」

「遠慮しなくていいのよ」

 リコもヒューに加勢した。

「今日は七夕たなばたよ。何でも願い事の叶う日だわ」

「タナバタ?」

 ヒューが首を傾げる。レグラス人には馴染みのない風習だ。

「神原では、願い事の叶う夜だって言われているの。昔、織姫と彦星っていう恋人同士がいて……神様の怒りを買って、天の川で隔てられてしまったのだけど、七夕の夜に、年に一度だけ会うことを許されたのよ」

「へええ、ロマンティックな話だね。年に一度のスペシャルな夜だ、願い事をするなら今夜に限るぞ」

 ヒューが笑顔を向けると、オリヴィアは戸惑いながらも、ようやく自分の望みを口にした。

「あの……私を助けてくれた軍人さんって、ヒューさんのお知り合いだって仰ってましたよね」

 リコの心臓がどきんと鳴った。

「私が頭痛で苦しんでいたとき、あの人は私を背負って『大丈夫や』って、神原語で何度も私を励ましてくれました。あんな風に親切にされたこと、初めてだった……」

 オリヴィアの赤い瞳が、弱々しく揺れている。

「ほうほう、それで?」

 ヒューが片眉をくいっと上げた。面白がっているときの顔だ。

「私、あの軍人さんにちゃんとお礼を言いたいです。どうにか会わせていただけないでしょうか」

 会うも何も、その軍人はいまオリヴィアの隣で女の格好をして座っているのだが。

「でも、軍人さんでしょう? あまり関わり合いにならないほうが……」

 リコがどうにか諦めさせようとするが、机の下でヒューの長い脚に突っつかれる。

「もしかしてオリヴィア、その軍人さんのこと……好きになっちゃった、とか?」

 オリヴィアの顔がさあっと赤くなる。その反応を見て、リコも顔を赤くした。

 笑いを噛み殺しながら、ヒューは答えた。

「分かった、僕から連絡を取ってみるよ。でも彼は忙しいから、どうかなあ?」


***


〈いやあ、理市君も隅にはおけないねえ〉

 オリヴィアが寝静まった後のこと。

「なんちゅうことを言うてくれたんや、アホ」

 さっき我慢していたぶん、ヒューはここぞとばかりに腹を抱えて笑っている。理市は客間でリコの格好のまま、頭を抱えていた。

〈いいじゃないか、素顔で会ってやれば。一気にあの子と打ち解けるチャンスだろ。ちょっと優しくしてやって、身の上話を聞いてやればいい。簡単だろ?〉

 ヒューは事もなげに言う。けれども理市は女の子とろくに話した経験がない。何と言葉をかけていいのか、どうやって話を繋いだらいいのか、まるで見当がつかない。

 まして相手は、自分に恋心を抱いているという。誰かに好意を寄せられたことなんて、いままでにあったろうか?

〈断ってくれ。俺には無理や〉

〈任務遂行が最優先だって、そう言ったのは誰だっけ?〉

 ふとヒューが窓の外を見た。ちらりとカーテンをめくると、雨が降っていた。防音室の中には雨音は聞こえず、ただ静かに天から降り注いでいた。これでは天の川は見えないだろう。

〈ほら、オリヒメ様も、ヒコボシに会いたいって泣いてるぞ〉

 ヒューの言う通り、これは絶好の機会だ。オリヴィアに取り入ることができれば、何か情報を引き出せるかもしれない。それに、ようやく聞き出せたオリヴィアの願いだ。断ったらきっと彼女はがっかりするだろう。悲しませるのは気が咎める。

「ううう……」

 理市は神原語でもレグラス語でもない、ただのうめき声を上げた。

〈ウブだねえ、リイチ君は〉

 ヒューだけが大笑いしている。今夜もまた、眠れそうになかった。



※作者注

タイトルの「洒涙雨さいるいう」について、文披31題のお題の表記は「酒涙雨」ですが、「洒」に「そそぐ」という字義があることから、ここでは「洒涙雨」を採用しています。

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