第6話 アバター

 オリヴィアと偽夫婦の同居生活が始まった。

 オリヴィアのことは、まだレグラス軍諜報部に報告しないことに決めた。オリヴィアがイルグリムの軍事機密と無関係だった場合、ただの一般人を自宅――軍の施設に招き入れたことになる。下手すれば処罰の対象になりかねない。

 軍服や銃、理市りいち異界刀いかいとうなどは、衣装部屋にある鍵付きのクローゼットの中に隠し、衣装部屋の鍵は肌身離さず理市が携帯することにした。地下通路に通じる台所の床は、食器棚を移動させて塞いだ。不便になるが、オリヴィアに見つかるわけにはいかない。

 この家には、ベッドは寝室にある二つしかない。ヒューとリコ(理市)は話し合いの結果、寝室はオリヴィアとリコが使うことにして、ヒューは一階の客間で寝起きすることに決めた。オリヴィアを監視するためだ。

「いいんですか? 私がソファーで寝たほうが……」

 客間のソファは、長身のヒューが寝そべると足がはみ出てしまう。オリヴィアは遠慮したが、ヒューが押し通した。防音室である客間は、ヒューと理市が秘密の相談をするための部屋として確保しておきたかったのだ。

「大丈夫だよ、僕は仕事で外泊することもあるし。それに、リコとでいろいろ話せていいだろう?」

 ヒューは愉快そうにウィンクする。

(何が女性同士やアホ、どついたろか)

「そうね。私もオリヴィアとたくさんお話がしたいわ」

 リコはヒューに合わせて笑顔で頷きつつ、リコは内心この偽の夫を殴りたかった。


***


 オリヴィアが来てから一週間。

 理市は、オリヴィアの前では常に「リコ」でいなければならない。毎日女物の服を着て化粧をし、地声が出ないように高い声で話さなければならない。

 それだけでも骨が折れるのに、オリヴィアはなかなか朝起きるのが早い。オリヴィアよりも早く起きて着替えておかなければ。寝起きを見られでもしたら大変だ――いろいろな意味で。

 そもそも、隣に年頃の少女が寝ている状況など、これまで一度も経験したことがない。オリヴィアの密やかな寝息が気になって仕方がない。理市の安眠は妨げられ、すっかり睡眠不足だ。

 オリヴィアとの同居生活は思っていた以上に大変だった。しかし、オリヴィアを匿うと決めたのは理市自身である。やり遂げるしかない。

 理市にとって一番きつかったのは、毎朝オリヴィアとともにヒューの出勤を見送らなければならなくなったことだ。

 少女の前では演技を続けなければならなくなったことを除けば、夫役を務めるヒューの生活は、これまでとさして変わらない。ヒューは、朝七時半に勤め先の商社「ペリントン商会」に向かっていることになっている。ちなみにペリントン商会の正体は、レグラス軍諜報部だ。一見すれば背広を着た事務員が仕事をしている普通の会社だが、社員は全員軍人であり、扱っているのは世界各地に散らばった諜報部員達が収集してきた情報である。

「それじゃ、行ってくるよ」

 朝食――もちろんリコが作った――の後、ヒューが玄関先へ向かう。いままでなら適当に手を振って済ませていたが、夫婦を演じている手前リコも玄関先まで見送ることにした。オリヴィアも一緒についてくる。

「気をつけて……」

 言いかけた瞬間、突然ヒューの顔が迫ってきた。リコは思わず後ずさる。

(待て待て待て、冗談やろ⁉)

(僕だって気が乗らないが、レグラス人ならしない方が不自然だ)

 目配せだけの会話の後、結局リコはヒューの接吻せっぷんを受けることになった。柔らかくて温かい、生まれて初めての感触に思考停止する。ヒューは顔を離すと、平然と手を振って出て行った。

「……私、嬉しいです」

 隣でオリヴィアがぽつりと漏らす声を聞いて、リコはようやく我に返った。

「家族に『行ってらっしゃい』って言うの、憧れだったんです……」

 目を細めてはにかむオリヴィアを見ると、複雑な気分だった。ヒューとリコは偽の夫婦で、オリヴィアを騙して利用しようとしているのに。

 それにしても、まさかヒューと接吻する羽目になるとは想定外だった。毎朝これを繰り返さなければならないのか。

 自分の分身が欲しい、切実に。分身がリコ・モリスを演じてくれたら、自分はずっと森州もりす理市でいられるのに。

(明日からはせめて頬にしてもらわな……)

 あの瞬間、乙女ではない理市でさえ、何か大切なものを失った気がしたのだ。

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