第5話 蛍

 陸軍諜報局大佐、呉尾兵十郎くれおへいじゅうろう

 呉尾は理市りいちの亡父の友人だった。理市が幼い頃、呉尾は時々軍務で大砂加おおさかに出張してくることがあり、そのたびに森州家を訪れていた。理市は「呉尾のおじさん」が斗宇京とうきょう土産みやげを持ってきてくれるのを楽しみにしていたものだ。

 十歳から十八歳の八年間、つまり両親を亡くしてから士官学校に入学して寮暮らしを始めるまで、理市は斗宇京市内の呉尾家で過ごした。剣術師範である呉尾は、理市に剣の手ほどきもしてくれた。理市が十四になったとき、異界刀いかいとうを授けてくれたのも呉尾だ。

 森州家もりすけの名を残すために養子にはなれなかったが、理市は呉尾のことを父親同然に慕っていた。軍人を志したのも、彼に憧れたからだった。

「森州中尉。早速だが、辞令だ」

 軍務中の呉尾は、無駄口を叩かない寡黙な軍人だった。剣豪らしい姿勢の良さと広い肩幅、五十を過ぎて白髪が増えてきた以外はいまだ若々しく、近寄りがたい威厳を備えていた。しかし家ではよく冗談をいい快活に笑う、良き父親であることを理市は知っていた。

 理市は震える手で、呉尾から辞令書を受け取った。


 辞令 神惟じんい三十五年七月十日付

 陸軍中尉 森州理市

 免 陸軍本部第二近衛隊長

 任 陸軍諜報局レグラス連合王国支部長


「貴官にはレグラス軍との協力任務に就いてもらう。詳細な任務内容は、向こうに行ったら指示があるはずだ」

 初めは「レグラス」という、四文字の片仮名が少しも頭に入らなかった。やや時間をおいて、理市はようやく意味を理解し始めた。

 レグラス連合王国に支部があるなんて、聞いたことがない。支部長といっても、他に同僚がいるとは思えない。間違いなくこの辞令のために作られたものだろう。

 はるか西方の、神原かみつはらとは言語も文化も異なる国へひとりで行けという。これは転属辞令の体をなした懲罰人事、いわば退職勧告だ。――しかし、呉尾は理市の心を見透かすかのように、こう付け足した。

「決して悪いように取らないでほしい。この辞令は私から上層部へ申し入れ、許可を得たものだ。森州中尉には、レグラスでぜひやり遂げて欲しい任務がある。貴官が最も適任だと判断した」

 つい最近神原国の同盟国となったレグラス連合王国は、目下レグラス王国とイルグリム王国との間で紛争中である。国力は圧倒的にレグラス王国のほうが勝っているのに、イルグリム王国との戦況は拮抗している。

 どうやらイルグリム側には兵力差を補う何かがあるようだ――例えば、異界鉱ミステライトの未知なる用途、とか。

 イルグリムが隠している機密が異界鉱ミステライト絡みのものだとしたら、レグラスだけに譲るわけにはいかない。レグラスとの同盟関係があるうちに、わが国も調査に乗り出すべきだ――以上が、呉尾の語った事情である。

 確かに、理市は適任だった。独身で身寄りもなく、友人も少なく、未練が薄い。異界刀の扱いに長け、単独でも戦える。学生時代はレグラス語の成績も優秀だった。それに何より、誰から見ても懲罰人事にしか見えない。

 まるで自分におあつらえ向きだ――そう思ったとき、理市ははっとした。

「まさか、この辞令を出すために、二週間……?」

 思えば不可解な二週間だった。理市は一介の士官に過ぎない。さっさと免職にしてしまえば収拾がつくはずだった。それが二週間もかかったのは、呉尾が上層部をどうにか説得し、レグラス軍をはじめとした関係各所に調整を図ったからなのではないか。

 呉尾は引き締まった表情をふっと緩め、懐から煙草を取り出した。

「だってなあ、お前、免職になったら腹を切りかねんだろ」

 椅子から立ち上がり、窓際でマッチを擦った。煙草の先に灯った光が、蛍火のごとくかすかに暗闇を照らす。

「冗談じゃない、お前が撃たれたと聞いて、こっちがどれだけ心配したと思ってる? せっかく生きて戻ってくれたのに、死なれてたまるか」

「呉尾さん……」

 熱いものがこみ上げてくる。堪えなければと思うのに、次の一言を聞いたら、もう駄目だった。

「理市、俺はお前のことを本当の息子だと思ってる。……すまん、これが俺のできる精一杯だ。向こうに行っても元気でな」

「……、ありがとう、ございます……」

 大任を果たせなかった悔しさと、見知らぬ土地へひとり向かわなければならない不安と、それでも自分は孤独ではないと知った喜びとがせめぎ合う。もう抑えがきかなかった。

 呉尾が歩み寄ってきて、大きな手で理市の頭を撫でた。理市は恥を忘れて、子どものように泣きじゃくった。

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