第4話 触れる

 これは森州理市もりすりいちにとって、一生忘れられない大きな失敗についての話であり、同時に一生の恩人ふたりについての話である。

 神惟じんい三十五年(西陽暦せいようれき一九〇二年)六月十日。神原国かみつはらのくにの建国記念日である創原節そうげんせつであり、国民の祝日に定められた日であった。神原国の元首、現天原帝あまつはらのみかどの即位三十五周年と重なり、斗宇京とうきょう市内はお祭り騒ぎだった。梅雨の合間の冴えわたる青空の下、民衆は白地に朱の菊紋を描いた国旗を振りながら練り歩いては浮かれ騒ぎ、太平の世を謳歌していた。

 同日に、天原帝の長男である皇太子辰巳宮たつみのみやも二十五歳の誕生日を迎えた。その祝賀会が催されることになり、理市は辰巳宮の近衛このえ隊長という栄えある任務を仰せつかった。

 辰巳宮は、理市と士官学校時代の学友でもあった。おっとりした心優しい青年だったが、帝の息子という立場のせいか、他の同級生とは何となく壁があった。

 一方、理市も学内で浮いた存在だった。十歳で両親を亡くした後、それまで親切だった両親の友人たちが、潮が引くように遠ざかっていくのを目の当たりにした理市は、たやすく他人を信用できず、友人をうまく作れないまま成長していたのである。

 理市は辰巳宮という高貴な同級生を、他の生徒ほどよそよそしく遠ざけなかった。才気煥発で、同い年の少年たちよりも明敏に育った理市は、やや他人を見下しがちな性質を持っていた。言い換えれば生意気だったのである。辰巳宮に対しても、帝の息子といっても所詮は同じ人間だから過度にへりくだる必要はないと、ささやかな反骨心を抱いていた。

 多くの場合では短所となり得る性質が、辰巳宮と付き合うにはかえって長所となった。辰巳宮は遠慮なくはっきりと物を言う理市によく懐いた。理市も、少しも偉ぶるところなく常ににこにこしている辰巳宮と付き合うのは心地よかった。年は同じだが、純真な辰巳宮はまるで弟のように思えた。さすがに不遜過ぎて、口に出したことはない。

 士官学校を卒業してから三年が経ち、辰巳宮とは疎遠になったが、彼が自身の近衛隊長に自分を指名したと聞いたとき、理市は本当に嬉しかった。いつか一国を背負う帝となる友をつつがなく守り抜こうと心に誓い、そしてこの任務を成功させることで軍人としての誉れも得ようと、いくらか打算的に考えもした。

 理市は近衛隊長として、祝賀会の準備を入念に行った。会場となる迎賓館の間取りを細かく確認し、死角になる場所がないように兵士を配置した。参列者や下働きの者に不審な人物はいないかだけでなく、そこで出される飲食物の配送ルートにまで目を光らせた。

 万事抜かりはないはずだった。それなのに。

 祝賀会は、陸軍大臣の祝辞がいささか間延びしたほかは、和やかな雰囲気で進行した。全国各地から取り寄せられた山海の珍味がずらりと並び、一瓶で理市の月給が消えてなくなりそうなほど高価な輸入酒が振る舞われた。

 もちろん理市は任務中だったので、そのいずれをも賞味する機会はなかった。辰巳宮の傍らに立ち、舌鼓を打つ賓客たちを羨む余地もないほど神経を尖らせ、不審な動きをする者がいないか監視していた。

「そんなに気を張らなくても大丈夫だよ」

 昔と変わらぬ穏やかな口調で、辰巳宮が話しかけてきた。美酒を片手に、眼差しをとろけさせている。

「いまは任務中でございます、殿下」

「もう、堅苦しいなあ、りっちゃん。前みたいに『たっつん』て呼んでよ、ふふふ」

 辰巳宮が理市の背中にぽんと触れた。そのくだけた呼び方と笑い方があまりに懐かしく、張り詰めた緊張の糸がほんの少し緩みかかった、そのとき。

「辰巳宮、覚悟!」

 宴席の隅で上がった絶叫とともに、誰か突撃してくる。次々に上がる悲鳴。そして銃声。

 考えるより先に、敵の姿を捉えるより先に、理市の身体は動いていた。

 異界刀いかいとうの使い手である理市にとって、敵を返り討ちにするのはたやすかった。波動ではなく、刃で直接斬れる距離だった。人を殺すのは初めてだったが、感慨を覚える余裕はなかった。

 斬り伏せた後で気づいた。辰巳宮を狙った刺客が、自分と同じ軍服を着ていたことに――そして、自分の首筋から大量に出血していることに。刺客の放った兇弾が、理市の首元をかすめていたのだ。

「りっちゃん!」

 辰巳宮の叫び声が聞こえた。

 よかった、たっつんは無事だ――そう思った瞬間、理市の意識は途絶えた。


***


 あのまま死んでいたら、どれだけ気が楽だったろう。

 理市は陸軍病院の病床で目を覚ました。生死の境を一昼夜彷徨さまよったらしい。

 助かったのは、輸血という最新の医療技術のおかげだ。辰巳宮が自らの血を抜いて、理市の血を補ってくれたのである。その事実を医師から聞かされたとき、理市は己の不甲斐なさに打ちのめされた。守るべき貴人でしかも友人を守るどころか危険に晒し、あまつさえ命を救われたのだ。

 体調が回復してくると、今度は軍に身柄を拘束された。理市が殺した刺客は、近衛兵に変装していた。刺客の侵入を許すなど、言語道断の大失態である。

 毎日のように長い取調を受けた。しかし何を聞かれても、なぜ刺客が紛れ込んだのか、理市には思い当たる節がなかった。しいて可能性を挙げるなら、部下の誰かが裏切ったのかもということくらいだが、理市の知る限りみな出自のはっきりした軍務に忠実な模範兵ばかりで、皆目見当がつかなかった。

 理市どころか、陸軍大臣の首まで飛びかねない事態だったが、そうならなかったのは辰巳宮が帝に穏便に済ませるよう進言してくれたからである。それでも陸軍大臣は自ら辞職し、理市の上官たちにも降格や減給などの処分が次々に下った。当然、理市自身にも何らかの処分が下されるはずだが、なかなかその報せは来なかった。

 処分を待つ間、まるで生きた心地のしない日々を過ごした。免職だろうか。子どもの頃から、立派な軍人になることしか考えていなかった。軍人でなくなったら、何になればいいのか分からない。酸素の薄い闇の中に放り出された気分だった。理市にとって、免職になるのは生きる目的を失うこととほぼ同義だった。

 何より、最も大事な局面で失態を犯したことが恥ずかしくてならなかった。それまで何でも完璧にこなしてきた理市は、失敗することに全く慣れていなかった。いっそ銃殺にでもしてくれたらいい、刀さえ取り上げられていなければ自分で終わらせることができるのにとまで思い詰めていた。

 辰巳宮暗殺未遂事件から二週間あまり経った日の夜、理市は突然拘束を解かれ、陸軍本部のとある個室に呼び出された。いよいよ処分が下るのだと悟ったとき、腹の底から寒気が湧いてきた。震える膝をどうにか立たせ、努めて平静を装いながら廊下を歩いた。

 薄暗い部屋の中には長机と椅子がひとつだけ。その椅子に座って待っていたのは、理市がよく知る人だった。

「……呉尾くれおさん」

 理市は思わずその人の名を口走っていた。

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