第3話 文鳥
少女の名前はオリヴィア。イルグリムの士官学校に通う十六歳の学生だが、あまりにも学校生活がつらすぎるので脱走してきた。もう二度と学校には戻りたくないので、ここで匿ってほしい。敵方の人間ではあるが、あなた方に迷惑をかけることは絶対にしない。――切実に訴える少女の言葉は、
(怪しい)
明らかに、オリヴィアは大切なことを語っていない。訛りのない神原語を話し、容貌も
「でもねえ、オリヴィアちゃん」
ヒューが笑みをたたえたまま口を開いた。理市は内心助かったと思った。情けないことだが、十歳も年下の少女にどう話しかけたらいいか分からなかったからだ。
「おうちに帰らないと、ご家族が心配するんじゃないのかい? 親御さんとか……」
「家族なんていないわ!」
オリヴィアは激しく首を振った。長くやわらかな乳白色の髪が揺れる。
「私は元々、
少女の語る境遇が、理市の胸の奥を叩いた。
自分と似ていると感じ、いや、簡単に信じてはならないと思い直す。子どもとはいえ油断してはならない。イルグリムのスパイかもしれないのだから――いや、スパイなら、自分からイルグリムから来たと明かすのはおかしい。
「匿うといってもね……」
ヒューは苦笑しながら、あくまでも難色を示す。
「僕たち夫婦には子どもはいない。君みたいな大きな娘がいきなり増えたら、近所の人に怪しまれるよ」
「外には出ません。家の中にずっといます」
「それじゃ籠の中の鳥じゃないか。君はオウムやカナリアじゃないんだ」
白い髪で楚々とした印象のオリヴィアは、オウムやカナリアというよりさながら文鳥のようだ。
「平気です。だって、いままでだってそうだったんですもの。牢屋みたいな個室に閉じ込められて、毎日毎日……」
そこまで言いかけて、オリヴィアは頭を抱えた。また頭痛がぶり返してきたようだ。
「お願いです、私をここに置いてください……」
「分かった分かった、話は後で聞くから、もう少し寝ていなさい」
ヒューはオリヴィアをなだめすかそうとする。彼女の扱いをどうするか、考える時間を稼ぎたいのだ。
一方で、理市はもう決断していた。
「……いいですよ、ここにいても」
リコが答える。ヒューが目を見張った。
「本当に? 本当に、いいんですか……?」
苦しげな息を吐きながら、オリヴィアが切実な眼差しを向けてきた。真紅の瞳だ。
「もちろんよ。ちょっぴり狭い家だけど、くつろいでくれていいわ」
リコがにっこりと微笑んでオリヴィアの手を握ってやると、彼女の瞳が潤んだ。
「ありがとう、ございます……」
オリヴィアが瞼を閉じたとき、一筋の涙が伝った。彼女が寝息を立て始めたのを確かめて、リコ――理市は立ち上がる。
〈おい、リイチ君……〉
客間に戻った後、ヒューが怪訝な顔で詰め寄ってきた。
〈いったい何を考えてるんだ。僕たちは曲がりなりにも諜報活動中だぞ? 家出娘の世話をしてる場合じゃないだろ〉
〈せやな〉
理市は平然と答えた。
〈諜報活動中やから、匿うんや〉
〈どういう意味だい?〉
〈俺をよう見てみい〉
リコのかつらを取り、坊主頭に戻る。白熱灯を灯すと、理市の短髪がほのかに紫がかっているのが分かる。ヒューを見つめ返すその眼差しも、灰色にくすんでいた。
〈「
祖国から持ってきた、大切な愛刀。
〈何色に変わるかは人によってまちまちらしいが、
理市の
〈……もしかして、オリヴィアちゃんも、
理市は頷いた。
〈大半の
オリヴィアは十六歳と自称している。嘘だとしても大きな誤差はないだろう。たった十六年やそこらで、髪も目も完全に変色している。
〈あの子がほんまにイルグリムの子なら、俺らが探ってるもんに近いとこにいるんちゃうやろか。ここで匿って、あの子から情報を引き出そう〉
〈なるほど。悪くない考えかもな〉
ヒューは一応納得してくれたようだった。
〈しかしリイチ君、君はいいのかい? あの子がここにいる間、君はずっとリコのふりをし続けなきゃならない。毎日女装して、か細い声でしゃべるんだぞ。君がずっと嫌がってたことじゃないか〉
確かに、ヒューの言う通りだ。
部外者であるオリヴィアに、正体を知られるわけにはいかない。これまでは夜が更けたら
〈しゃあないやろ。任務遂行が最優先や〉
〈さすが、優秀な軍人さんは言うことが違うね〉
ヒューが口笛を鳴らした。皮肉にも聞こえる。本当に優秀なら、この国には来ていない。
〈でも、リイチ君、本当にそれだけかい?〉
〈……何が言いたいねん?〉
〈別に〉
大げさに肩をすくめるヒューを尻目に、リイチは〈夕飯作ってくる〉と客間を出た。
〈僕も手伝おうか?〉
〈ええわ。お前、料理下手やんか〉
妻だから食事の支度をするわけではない。料理は断然ヒューより得意だ。ちなみに台所の火力にも、
適当に切った野菜と鶏肉を煮込んでいる間、理市の耳にオリヴィアの声が甦ってきた。
「たすけて」
軽く頭を振って忘れようとするが、できなかった。
(俺は任務のために、あの子を利用する。……そうや、別に同情したわけやない)
それでも、あの声が芝居だったとは、理市にはどうしても思えないのだ。
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