第2話 透明
木板を押し上げると、そこは見慣れた台所だった。
フレイドンの地下通路に直接繋がっているこの二階建ての一軒家は、レグラス王国軍の諜報部隊のために用意された家だ。
無事帰り着いたことを認識した途端、自分の身体がひどく血なまぐさいことに気づく。少女の衣服にも血が付いてしまっていることを申し訳なく思い、後で代わりの服を用意してやることに決めた。女物の服ならこの家にはたくさんあるのだ。
理市は風呂場へ向かい、汚れた軍服を脱ぎ捨てた。細身ながら筋肉質な身体と、首筋に走った傷跡があらわになる。
風呂場といっても、シャワーヘッドが一つついているだけの狭い小部屋で風呂桶すらないが、その代わりに便利な機能がある。蛇口をひと撫でしただけで、ちょうどいい加減の湯が出るのだ。
(
坊主頭からシャワーをかぶりながら、理市は思う。赤く濁った水滴が、少しずつ透明に変わっていった。
あらゆる用途への応用が期待されているが、加工するのが非常に難しい。現在のところ、
国際法上「レグラス連合王国」を名乗ってはいるが、元は別々の王国だったレグラス王国とイルグリム王国は、
イルグリム側は法外な値段で
かくして
風呂場から出ると、
「ん……」
幸い、少女は眠ったままだった。眉間に皺を寄せて少し苦しそうだ。ネクタイを緩めてやれば、呼吸が楽になるかもしれない。
理市が屈んで少女の襟元に手をかけたとき、能天気な声が響いた。
〈ただいまー。リコさーん、帰ったよー〉
どたどた階段を上ってきて、寝室に入ってくる垂れ目のレグラス人男性と、理市はばっちり目があった。
〈えっ、ええええ!〉
男が息を呑んで後ずさる。
〈ま、まさかリイチ君がこの家に女の子を連れ込むなんて……〉
〈ちゃうちゃう、誤解や誤解! 戦場で倒れてた民間人を助けただけや!〉
大きな声を出さないでほしい。理市は男を寝室から連れ出し、ともに一階へ降りた。東側の客間なら、防音室になっていて外に会話が聞こえない仕組みになっている。
〈どういうつもりだい、リイチ君や? このヒューお兄さんに説明してみなさい〉
男は半ばからかい口調で言った。
藍色の背広と中折れ帽、赤と白の斜め縞模様のネクタイ。服装こそレグラス人紳士風の出で立ちだが、やや伸びすぎた小麦色の髪と、手入れを怠けた顎髭がだらしない。
この男は、名をヒュー・ハーヴェイ・モリスという。レグラス軍の諜報部に所属する軍人で、階級は准尉。理市にとってはこの国における仕事上のパートナーであり部下である。
だが、二十六歳の理市よりちょうど十歳年上のこの男は、階級が上の理市に全く遠慮がないどころか、事あるごとに理市を子ども扱いしてくる。
もう一年の付き合いになるが、理市はヒューの態度が気に入らない。この国に来る前、レグラス人は
〈どうもこうもあらへん、さっき言うた通りや〉
〈民間人の女の子を助けたってのは分かったよ。僕が聞いてるのはそういうことじゃない〉
帽子を脱ぎながら、ヒューは長い足を組んだ。小柄な理市と比べると、身長は五寸ほども差がある。この体格差もまた、理市の劣等感を刺激する要素である。
〈あの子が目覚めたら、どうするつもりだい? ここは貿易商社の事務員である僕、ヒュー・ハーヴェイ・モリスとその妻の住まいだ。軍人のリイチ・モリス君は、ここにはいるはずがない人間だろ?〉
〈……言われんでも分かっとるわ。すぐ着替えるし〉
〈
ヒューは喉の奥で笑いを堪えている。理市は思いきり相棒を睨みつけた後、客間を出て隣の衣装部屋に向かった。
クローゼットから取り出したのは、長い栗毛のかつらと、レースの立ち襟がついた女物のブラウスとスカート、綿が詰まった木綿の袋が二つ縫いつけられている
一度着た浴衣を脱いで、
ヒュー・ハーヴェイ・モリスの妻、リコ・モリスの完成である。
貿易商社で働くヒューが、出張先の神原国で恋に落ちて結婚し、自国へ連れ帰った妻。それがリコ・モリスの設定だ。ヒューとともに偽の夫婦を演じながら、イルグリム軍の軍事機密を探る――それが、この国で理市に与えられた任務なのである。
こんな内戦の状況下にあって、外国人がわざわざレグラスに来るのは目立つ。しかも神原人の男だなんて、自分でスパイだと名乗っているようなものだ。一般女性に変装すべきだ。レグラス人男性の妻なら、怪しまれまい――そんな理屈だった。何かの冗談かと思ったが、レグラス軍諜報部は至って真面目だった。
鏡に映る自分の顔を見ながら、理市はため息をついた。
我ながら、どう見ても女にしか見えない。こんな顔、こんな体格にさえ生まれなければ、ヒューなんぞと夫婦を演じさせられることもなかったろうに。
着替えを済ませて部屋を出ると、ヒューがニヤニヤしながら待ち構えていた。
〈いやあ、いつ見ても僕の奥さんは美人だなあ〉
〈
いちいち
ヒューとともに、みたび二階へ向かう。リコの姿なら、ここで少女に見られても問題ない。
寝室のドアを開けると、今度は少女が目を覚ましていた。
「目が覚めた? 気分は、どう?」
理市の地声は低いので、裏声でどうにか女性らしく話しかける。ブラウスの立ち襟は喉仏を隠すためだ。
「あの……ここは……?」
少女も神原語で返事をした。
「僕の知り合いの軍人さんが、君を連れてきたんだよ」
ヒューがさらりと嘘をつく。多少の
「君、名前は? どこから来たの?」
「わたし……わたしは……」
少女は一瞬目を伏せてためらった後、決然と視線を上げて言った。
「わたしの名前はオリヴィア。イルグリムから逃げてきたんです。どうか、しばらくここで匿ってくださいませんか!」
その瞳の色は、真紅だった。
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