最果ての国のオリヴィア ミステライト内戦記
泡野瑤子
第1話 傘
この国に来てからというもの、傘は常に持ち歩いている。だが戦場に降る血の雨を、しのげる傘はない。
レグラス連合王国の首都、フレイドン。内海に面した西側の街は、二十年近く続く内戦によって荒れ果てていた。レグラス本島と海を挟んだ隣の島、イルグリム王国からの断続的な侵攻を受け、西フレイドン港は首都防衛の最前線となっている。
丸刈りの頭、小柄で痩身、柔和で整った顔立ち。理市は、レグラス王国軍ではなくはるか極東の
――縁。縁とは、必ずしも良縁とは限らぬものだ。理市は事あるごとに、昨年自分がこの国に来ることになった理由を思い返しては苛立ち、後悔し、最後には自分の不甲斐なさを責める。
理市は陸軍士官学校を主席で卒業したエリートだった。あんな失態さえ起こさなければ、いまごろ祖国で前途洋々たる出世街道を歩んでいたはずなのだ。それなのに、理市はあちこち瓦礫が散らばり、銃痕が煉瓦壁を
軍服の詰襟の下で、古い傷がじわりと疼いた。
灰色の雲に覆われた街を歩いている間、理市は浮かない顔をした住民たちと幾人もすれ違った。戦場と化した街でも、よそに行く当てのない人はここに居続けるしかない。
この国には歴然たる格差が存在する。百五年前にイルグリム島で発見されたある鉱物と、百年前にこの島で発明されたそれを加工する技術とが、レグラス・イルグリム両王国をいがみ合わせ、貧富の差を拡大させた。
この付近に住んでいる人は、多くが工場勤めの労働者だ。まともな教育を受けられず他に仕事を得られなかった彼らは、身を粉にして働きながらも低い賃金しかもらえず、安全なフレイドン東部に移住したくても、高騰している家賃を払えないのだ。
自らとかけ離れた境遇の彼らを、理市はしかし他人とは思えなかった。理市は十歳のときに自動車事故で両親を亡くして天涯孤独の身の上である。左遷された不本意な身の上とはいえども、一応士官として身を立てられているのは、後見を申し出てくれた人がいたからだ。それがなければ、理市もいまごろどこの貧民街でくすぶっていたか分からない。
軍人になれたのは幸運だった。しかし、こんなところに来る羽目になるとは。
(……いや、幸運と思うべきや。左遷で済ましてもろただけでも、ありがたいと思わなあかん)
ここは異国だが、頭の中ならいくらでも故郷の言葉が使える。
いまにも雨粒が落ちてきそうな空を見上げて、理市は他人事ながらに彼女の食事が湿気らないかと案じ、――
爆音。
雨より先に、尖った破片が降り注ぐ。理市が反応したときにはすでに、それは目の前の婦人の胸に突き刺さっていた。
敵だ。港が陥落したわけではない、イルグリム軍はしばしば密航してはこの街を襲うのだ。
〈
異国の言葉で倒れた婦人に呼びかけたが、すぐに第二撃に見舞われた。理市はとっさに路地へ転がり込んだが、婦人には直撃だった。
右手を塞ぐ雨傘を捨てる。黒い兵装の一隊が走り過ぎたその背後に、理市は路地から飛び出した。
腰に下げた軍刀を抜き放った瞬間、紫の雷光が閃いた。イルグリム兵たちが振り向くのと、理市が刀を横一文字に薙ぐのとはほとんど同時だった。
〈あの剣、
敵兵の叫ぶ声が聞こえた。
刀から衝撃波が放たれる。直接刃に触れたわけでもないのに、兵士たちの身は切り裂かれて鮮血が迸った。断末魔の悲鳴、また血を浴びた。人を殺すのは久しぶりだが、初めてではない。恐れも驚きもないが、ただ不快だった。早く帰りたい。
理市は剣を納めて駆け出した。曲がった路地の先に、地下道へつながるマンホールがある。一部の軍人しか知らない秘密の抜け道で、理市の仮住まいにも直結している。
「たすけて……」
耳に飛び込んできたのは、異国で聞こえるはずのない祖国の言葉――
マンホールの蓋を塞ぐように、ひとりの少女が倒れていた。
黒いブレザーと
(この娘……
警戒しながら近寄った理市の腕に、少女の細腕がすがる。その掌が熱かった。
一つ、二つ、地面に黒い染み。かと思えば、急に雨脚が強まる。
「頭が、割れ、そう……」
いまにも絶えてしまいそうな、か細く、美しい声だった。
少女を押しのけ、一人で地下に潜る選択肢もあったはずだった。しかしこのとき、理市は我知らず口走っていた。
「……大丈夫や。すぐ楽にしたるさかい」
理市は激しい雨に打たれつつも、上着の内ポケットから常に携行している応急処置セットを取り出した。鎮痛剤の注射が入っている。戦場で負傷した際に打つものだが、少女の頭痛にも効いたらしかった。
まだ遠くで爆音が聞こえる。雨も強い。一刻も早く立ち去るべきだ。それでもなお少女を見捨てる発想は、浮かばなかった。レグラス人がおしなべて大柄なおかげで、マンホールも大きい。理市が華奢な少女を背負っても、ぎりぎり通れる。
蓋を閉じれば、雨とともに光も遮られた。懐中電灯の代わりに、理市は刀を抜いた。刀身から紫の光が溢れて、薄ぼんやりと行く先を照らしてくれる。
「お願い、助けて……」
肩にしがみつく少女の腕に、力がこもる。
「大丈夫や。何も心配いらん、大丈夫やから……」
暗い地下道を進んでいる間、少女も理市も、何度も同じ言葉を繰り返していた。
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