四.剥離
12.沫
産後の肥立ちは悪かった。
出血がひかず、いつまでもいつまでも、たらりたらりと血は流れ続けた。医者はじきに傷も塞がるといったが、それでも、たらりたらりと血は流れた。
月経が終わるころの出血量にまで収まったころ退院した。
借家に戻ってもこれと云ってすることがなく、身体も本調子ではなく、変化といえば手伝いが一寸身の回りを片しにくるぐらいで、後は寝てばかりいた。今の純心がこちらにこられる状態にないのは、当然の話だった。親方も兄貴も、忙しい時期だった。
ひとりきりで過ごす午后。寝床の中で、自分が死ぬのではないかと少し考えた。でも死なゝかった。少しずつ身体は回復している。死にはしない。しかし、生きているのかと訊かれゝば、そうだと答えられるだけのものを持ってはいなかった。
その春は、とても暖かゝった。
庭のケンガイ菊は盛大に咲いた。心持ち、あたりが黄色く染まったように感じるほどだった。
それが視界のすみに入るたび、水葱の家に咲く菊のことを思った。
皐月の半ばには身体もほゞ戻り、自分の世話ぐらいはできるようになった。そんなある日の午前十時前、小男が使いにやってきた。手紙を持っていた。今時めずらしい、達筆で記された文面は簡潔で、内容は、この近くにある、とある茶道大家宅にこられたし、というものだった。
「今月二十日木曜、午后二時より、指定の場所にて主人がお待ち申し上げます」
小男は口頭でそれだけをいゝ、
指定された日時に指定された場所へ顔を出すと、顔見知りの師範がじきじきに出迎えてくれた。こちらもまた、なんともいえない顔をしていた。こちらは別に嫌なものを見る眼ではなかったけれども、困惑した心は否応なしに伝わってくる。
師範はあたしを離れの茶室へ案内し、飛び石の中途でたちどまると、後はひとりで行ってくれとさゝやくような小声で懇願してきた。
茶室の中では、御高祖頭巾をかぶった女が、正座して待っていた。
あたしが居住まいを正すと同時に、女も頭巾をはずした。うつくしく白い顔が現れる。女は三つ指つき、「角田 純心の妻でございます」と、しとやかに頭を垂れた。女は、純心のことを「スミコ」、でなく、「ジュンシン」と呼んだ。
あたしも頭をさげ、「水葱 水葱子です」と名乗った。
沈黙がおちた。しゅんしゅんと釜が湯気をたてるばかりで、他に音もない。もとより、茶をにごすための話の種もなかった。細君もそれをわかっているからこそ、あたしを茶室に呼んだのだろう。林常寺は茶の道で有名だ。その林常寺の、正当の細君であることを暗黙のうちに示すことは、それで、できる。
姿勢のよい女だ。まず、そう思った。茶を点てる動作のひとつひとつに、ゆったりとした心が香のように漂いでている。知らず知らずのうちに、値踏みしている自身に気付く。それが女としての眼なのか、それとも陶工としての眼なのかは、よくわからなかった。それほど、空気はゆったりとしていた。
沫を中央にまとめ、埦が手前にさしだされた。あたゝかそうだ、とまず思った。
「水葱さま」
姿勢を正したとたん、細君はあたしの名を呼んだ。
「お願いがあります」
「なんでしょうか」
沫は、安定して中央にいる。安心しているように見えた。
「純心さまには、二度とお会いにならないでいたゞきたいのです」
ぷちり、と沫のひとつがはじけた。
「あなたと純心さまが、これからも……お逢いになられるとしたら、あなたがたの二の舞を踏まぬとも――」
細君はそこで不自然に言葉を切った。云いたくもないのだろうし、あたしも聞きたくなかった。
「わたしは、純心さまをずっと、ずっとお慕いしてきたんです」
噛みしめるように、細君は言葉を押し出した。
「幼馴染みとして育ち、おゝきくなったら林常寺さまのおよめさまになるのだと教えられながら育って――その結果が、これ。純心さまは魂音族で、半身でなくては子ができないと……半身とは、転生の先まで永久を誓う恋人なのだと、運命の相手がいるのだと……。だったら、はじめから幸福な夢など見させないでほしかった!」
細君は顔を手でおゝい、くつくつと押えた声で泣いた。
「それなら、わたしも魂音族に生まれたかった……!」
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