11.しゅんしゅんと薬罐が鳴く。
†
二十一になる
子供ができて、純心に報告するより先に、まずわたしはセッ器の置物を造った。二匹の鯉がからむ置物で、さほど大きいものではない。二匹の間へ、意図的に一寸した隙間をこしらえた。親指ほどの大きさの隙間だ。完成した後、一人でながめながら、そこの隙間へ「ことり」、とセッ器のひとかけらを埋めた。ひとかけらは、寸法が合い、すっぽりと隙間にはまった。
満足して、ようやく純心と親方と兄貴に妊娠を告げた。
しばらくして、純心が借家を手配したといってきた。四十路を越えるかどうかという年嵩の女を、日に一度手伝いへよこす手筈になっているという。どうせ純英住職の懷から出ている金なのだと知っていたが、あたしは黙ってうなずき、そこへ移り住んだ。それも秋のことだった。
借家は平屋で小ぢんまりとしており、庭には黄色いケンガイ菊がわんさと咲き誇っていた。水葱の家の、勝手口わきに咲いていた菊は、すでに同じ位置へ直植えしてあった。今年も春と秋に見事な咲きかたをし、段々に大きくなっている。
その年の冬は、特に寒さが厳しかった。
ストーヴにかけた
「わたしは、海にゆくのが恐いのです」
窓辺で肘をついていた純心が、ぽつり、そうもらした。純心は、じっと曇り硝子の外を見つめている。火燵に身体をいれていたあたしは、そっと彼の横顔を見た。
「海には母上が沈んでいるから」
純心は淡々と語った。こゝでいう母上は、産みの母のほうのことだ。
「海とは恐ろしい水です。様々の魂や成分をその身に溶かしている。海とは果てしなく雄大で豊かな母だというが、わたしにはそれがあまりにも文字通りで恐ろしい。海には女の
「おかあさんは自殺だったのだよね? 確か」
「はい」
しゅんしゅんと薬罐が鳴く。他に音はない。
「魂音族というのは、実に因果な業を背負っているな。そうは思わない?」
「わたしは、佛教者ですから」
純心は答えにならない答えを返して、目蓋を閉じたまゝ、天井を見上げた。
「あの海を人は豊かなものだといゝますが――わたしには、たゞ濁ったものとしか見えん」
突如出た、常にない、口調。
あたしが黙っていると、純心は「ちらり」と笑ってこちらに
「水葱子さんは、たしか二つになる手前まで、母上と共に暮らされたのでしたね?」
親方のほうにひきとられたのは、二つになってからである。
「あゝ」
「母上のことを、くわしくおぼえてらっしゃいますか?」
「ぼんやりとしか……。ふわふわしたフレアー・スカートをはいていたことを憶えているんだけど、シチュエーションもおぼろげだ」
ぴいゝと、薬罐が笛を吹き出した。純心は、やおら立ち上がり、薬罐の口の笛をあげて音を止めた。そしてそのついでと云った調子であたしの方に顔を向けた。まだ微笑んでいた。
「何かほしいものはないですか? 水葱子さん」
あたしは
「坂口安吾の本ですか? あの、「青鬼の褌を洗う女」が入っている」
「うん」
「じゃあ、探して買ってきますね」
「いや、いやだ。あの書斎にあるのがいゝ」
純心は怪訝そうに小首をかしげた。
「あれでないと、駄目なのですか?」
「そう」
「何か、特別な誤植でもみつけたとか?」
「違う。そんなじゃない」
「たゞの、ぼろですよ?」
「それでも、あたしが最初に読んだ坂口安吾だ。本はひとつひとつが生き物だもの。同じ装丁でも同じ版でも、それその一冊はこの世に一つしかない」
「また、こだわられて」
くすりと笑う純心に、あたしは「ぽん」とひとつ、大きくふくれた腹をたゝいて見せた。
「こだわりじゃない。あれじゃないと文章が頭に入ってこないんだ。あの活字は、もう、ひとつの生き物だよ。あたしにとってはね」
純心はしばらく無言でたゝずみ、ぽかんと半開きにしていた唇を3.5秒後に「ぱくり」と閉じた。
「あなたぐらい一つの物語の、一つの文字にまで思い入れられたら、人生はとても濃密なものになるでしょうね。いゝでしょう。あれをさしあげます。煮るなり焼くなりお好きにどうぞ」
あたしは笑って、両手でVサインしてみせた。
「さんきゅー」
純心が角田の書斎から本を持ってきてくれたのは翌日のはなしで、あたしは素直によろこんだ。
†
卯月の終わるころ。
子供が生まれた。
娘だった。
名付ける間もなく、生まれてすぐに娘は林常寺へ引き取られた。
娘は、純心とその本妻の嫡子として育てられることゝ、はじめから決まっていたのである。
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