記憶と事実

 皆さんはこんな経験があるだろうか。幼い頃に行った家族旅行。親はどこに行って何を食べて何をしたかはっきり覚えているのに、自分はまだ幼かったから何も覚えていない。こういう、どことなく勿体なさを感じてしまうエピソード。経験したことのある人も多いのではなかろうか。因みに私もいくつかよく似た経験をしている。

 この場合、親の記憶は、親の頭の中では正確な情報だ。本人が体験したことをはっきりと記憶しているのだから、相当な思い違いをしていない限り、その正確性を疑う余地はない。

 一方で、何も覚えていない子供からしてみれば、文字通り何も覚えていないのだから、それは経験していないのと変わらないわけで、経験として脳に吸収されていなければそれは最初からなかったも同然なのではないだろうか。

 人はみな、自分が経験したことを記憶して自分というたった一人の生命体を作り上げている。その一部にすらなっていない、自分以外の人間が語る正確な情報などは限りなく不確かなものでしかないのだ。

 これらのことから分かるのは、正確さは無数にあるということだ。この世に存在する人間の数だけ存在するということ。一つ、同じ経験をした複数の人間がいたとしても、一人一人の記憶や捉え方の違いから、そこにいた全員が同じ経験をしたとは断言できないのである。もっと言ってしまえば、他人と自分が同じ題に対して異なる意見を述べたとしても、その両方に間違いなどはないということになる。

 ただし、絶対に揺るがない事実があるということも忘れてはいけない。例えば、AさんがBさんの悪口を言っていたのを、Cさんが遠くで聞いていたとしよう。そしてそれをCさんがBさんに伝えたとする。この時、Aさんの言い分は「悪口なんて言っていない」だとして、Bさんの言い分は「Cさんは嘘をつかないのでAさんは悪口を言ったに違いない」だとする。Cさんの言い分は「私は確かにAさんがBさんの悪口を言っているのを聞いた」だとすると、お互いの意見にすれ違いができてくる。だがこの場合、誰が嘘をついているのかは誰にも分からない。本当にAさんは悪口を言っていなかったのかもしれない。Cさんの聞き間違いであった可能性もある。更には、Aさんが悪口を言っていたのは本当だが、Bさんの悪口ではなかった可能性もある。こんなものは考え出したらきりがないが、正確さは無数にあるので当然だ。

 では、この話における事実とは何だろうか。まず、Aさんが何かについて話していたということ。二つ目に、Bさんがそれを聞いていたということ。最後に、BさんがCさんにそれを伝えたということ。この三つが事実ということになる。結局Aさんは何について話していたのか、などは、人によって変わる数多くの正確さの中からどれか一つ選んでこれが事実だ、ということなど私たち人間にはできないのである。できる者がいるとすれば、先入観も、思考も、物事の捉え方の癖も、こうであって欲しいという欲望も、何かに対する思い入れも、何一つとして持ち合わせていない空っぽの何かだけだ。もしくは超越的な何か。

 結局、ここで私たちができるのは、AさんがBさんの悪口を言った可能性と、言っていない可能性を想像することだけなのだ。それを自分の中の正確さをぶつけて話し合えば争いに発展するだけだ。自分にしかない正確さを持ちつつも、一つの事実に全員が目を向けなければいつまでも物事は解決しないのである。更に大きく言ってしまえば、この世の問題全てがいつまでも解決しないのである。

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