孤独と諦め

 凍えるように心が寒い時がある。皮膚に風が吹き付けるならば防寒着で耐え凌げるが、心の寒さはそう簡単に癒せはしない。誰かそばにいて欲しいとか、慰めて欲しいとか、そんな単純なものを欲している訳ではない。もっと心の深いところに染み入るような、自分でも気付いていない傷を癒してくれるような、そんな言葉と存在を欲しているのだ。ないとは分かっていても、探し求めることすら辞められないのは何故だろう。

 人は皆孤独だ、とはよく言ったものだ。派手に着飾って、常に友人達と遊び回っているような楽観的な人間でさえ、一人になった時にふと寂しさを感じているのだろう、とそんなことを想像する。いつだって一人で、集団から除け者にされて生きてきた人間の孤独と比べる術はない。大きさも理由も人それぞれで、中を切って開けてみないと正体が分からないから厄介だ。だが、一つ間違えばその傷をさらに広げることになってしまうから、軽い気持ちで奥を覗き込んではいけない。また、自分の孤独の理由や傷の理由を、他人に見せびらかしてもいけない。分からないものに直面した時、人は混乱する。混乱が生むのは更なる傷であって、私達が欲しているものでは到底ない。自分の傷の理由が自分でも分からない時があるのに、他人にそれを理解しろというのはただの押し付けである。他人の傷の理由を知ろうとするのも、ただのエゴであって優しさではない。

 ならば私達のこの深い傷や孤独感はどこへ流せばよいのだろう。己の中でぐるぐると渦を巻いて、次第に激しい流れになるようにしまっておく訳にもいかない。正体の分からないものを心の中で飼い続けるのは危険を伴う。

 この永遠の疑問に、一つ、私は解を見出した気がするのだ。孤独や寂しさや痛みを如何にして安らかなものに変えられるか。きっと認めたくないだけで、あなたも私も最初から気付いていたのだ。その感覚なくして幸せも喜びも安心もないのだと。死ぬその時まで、或いは死んでも尚付き纏うのが孤独感や痛みであって、それは裏を返せば温かみや安らぎであることを私達は知っていた。闇がなければ光が生まれないように。そのことをまずは認めなければならない。認めて、上手く自分の中で融合させなければならない。全ての感情を表裏一体と捉えられた瞬間に、痛みは安らぎに変わり、孤独感は安心感に変わるのだから。そしてそれが、この地球上の誰しもが抱えているものであるということに気付かせてくれる。

 この、認めて融合させて認知するというのは言ってしまえば諦めである。だが、諦めとは全てを放り出して希望や期待を捨てることだけを意味するとは限らない。諦めるからこそ次の段階へ進んでゆけるという場面もある。

 これは全てを放棄した訳ではなく、誰が何をどうしても変えられない現実に直面した時、その現実を自分なりに噛み砕いて受け入れるということに他ならない。諦めは私達に希望をもたらしてくれる。そして今まで気付かなかった新たな可能性と選択肢を与えてくれる。私達が孤独を知り、その苦しみから解放される為の認識は、たったこれだけのことなのだ。そこに更なる苦しみが待っていたとしても、私達はそれすら受け入れなければならないのだ。それはこの世界の仕組みが最初からそう決まっていたように、私達はその仕組みに従うしかないからだ。

 抗えば抗うほど、もとの感情を失い、もうそこには何もないことに気付いてしまう。そして最後は真っ暗な空虚に向かって、何もない、と呟くのだ。


 この世で生き抜いた人間の最期に待ち受けているのが空っぽの闇だとするならば、それはどんなに絶望的だろうか。日々、何かに対して意味や意義を見出し、苦しみも悲しみもこの世と共にしてきた結果が、ただの虚しい終わりだとしたらどれだけ悲惨だろうか。だが、目を背けているのは事実であって、最も注視すべきはその虚しさにあるのだと私は思うのだ。

 どれだけ勉学に励んでも、どれだけ勤勉に働いても、虚しい最期がやってくる。拒んでも、拒んでも、ゆっくりと私達の目の前からやってくる。愛するものに囲まれて死期を迎えたとしても、終わりのその瞬間は何れにせよ独りなことに変わりはない。

 報われるとか、想われるとか、愛されていたとか、そんなものは終わってしまえば何も残らない。何も残らないが、生きていればそれらと共に生き、何よりも大切にし、心から欲してしまう。それに虚しさを感じるのだ。

 孤独も愛情もなくなってしまうのならば、本当の意味で自分の心に残り続けるのは自分自身が自分であったという感覚だけではないだろうか。他の何者にも依存せず、時の流れさえゆうに超えていけるのは、全てを諦めても、嫌でも最後まで残り続ける自分自身ではないだろうか。自分自身のみが自分を癒し、愛し、安心させられる存在なのだ。

 この世界で、他人と一つになろうとしても必ず埋まらない距離や境界線がある。その隔たりさえないのは最初から自分だけなのだ。愛しているふりさえしなくていいたった一人の、自己という感覚。他人に愛想を振りまいていた時も、傷付いたふりをして人間になったつもりでいた時も、変わらずそこにあったのは他人ではない筈だ。

 どうにもならないことを全て諦めきった時に残るものを何より大切にすべきだということに気付けたならば、深い悲しみに襲われたとしても、一番そばにいるものを感じることができる筈だ。誰よりもそばにいてどこにも行かない。身勝手な慰めの言葉をかけてくることもない。ただ、隙間なく自分の心に住み着き、寄り添ってくれる存在が。

 それを未だ他人に求めているのでは埒が明かないのだ。誰かの全てを知ろうとするその欲求からは結局何も見いだせない。その人の未知なる部分に触れて疑心暗鬼になり、やがて終わりを迎える。一生孤独感に苛まれながら生きてゆくことになる。その時感じる孤独は本当の孤独ではなく、瞞しだ。誰かに理解されたい、誰かを理解できないと感じた時に襲ってくるあの不安は本当の孤独ではない。孤独だと、ただ勘違いしているだけで、なにも人から理解されないと嘆いている間だけ、孤独が付きまとうのではないのだから。

 生まれた瞬間から、愛されていても人は孤独である。だからこそ誰かを求めてしまう生き物なのだが、それもまた完全に自分を癒してくれることはない。目を背けさせてくれるだけで。無意識の領域では、埋まらない何かの存在を認知しているのに、脳で考えようとした途端に、それが何だったのか分からなくなる。

 だから感じなければならない。言葉にできない、目にも見えない、けれどどこかではっきりと感じている痛みにも似た感覚を誤魔化さずに信じて生きてゆかなければ、認めたくない孤独はいつまでも私達に付き纏う。そしてそれを克服、或いはそれと融合して生きていくことはできないのだ。

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