依存の中にある幸せは押し付けがましい

 恋人に対して、どうしてこんなにやってあげてるのに分かってくれないの、とか、友達に対して、この前奢ってやったのにこいつは今回も金を出さないのか、などと思ったことはあるだろうか。私にはそもそも恋人も友達もいないので、こんなことが頭をよぎったことは無いのだが、親に対してなら思ったことがある。こんなに頑張っているのになぜ気付いてくれないんだ。こんなに辛いのになぜ理解してくれないんだ、と。そもそもこの考え自体が間違いだと思うのだが、当の本人にはなかなか気付きにくい嫌らしい盲点なのだと思う。

 誰かに何かをして、それと同じだけ返ってくるなんてことは九十九パーセントありえない。大抵、贈り手と受け取り手の価値の基準がずれているからだ。どこかの紳士なおじ様が倍以上にして返してくれる、なんてことは儚い泡が消え去ったこの時代にはないと思っていいだろう。

 だが、これは我々に制御できるような問題ではない気もするのだ。なぜなら、人は生まれてきた瞬間からこの厄介な呪縛に雁字搦めにされているから。

 親が子を産むとき、それはなぜだろうか。育てたいから、子供が好きだから、いい歳だし世間体を気にして、家族が欲しいから等、理由はいくらでもあるだろう。が、その全ての理由において主権を握っているのは親自身ではなかろうか。自分が育てたいから、自分が子供を好きだから、自分の世間体を守りたいから、自分が寂しいから。もうこの時点でこんなにも重いテーマを産まれてくる子供に押し付けていることにはならないだろうか。そしてこの自分本位な願望はやがて見返りを求めるようになる。こんなに可愛がっているのに懐かない、言うことを聞かない、将来を思って言っているのに勉強をしない、楽に人生送って行けるように金をかけてレールを敷いてやったのにそれにすら乗らない。本当に本人を愛しているならばこんなことは思いもしないのではなかろうか。やりたい事をやりなさい。でもその過程で人として良くない行いをしたときだけ私は怒りますよ、と。そういうスタンスで良いはずなのだ。だが、当初の目的は自分が幸せになることが念頭に置かれているのでそうはいかない。願望を押し付けてしまうのだ。こんな押し付けがましいことを思わない親もごく稀にいるだろうが、そもそも、自分が子供を育てて幸せになる、といという目的で子を産んだ時点で愛は既に崩壊している。

 まだこの世に存在しないものを思って日々努力し、辛い出来事にも耐え、存在しないものの為に生きられるような人間はいない。子供なんてものは、自分がこの世で生き抜くために自分のコピーを自分の依存先にするために作ったに過ぎないのだ。そしてそれを捻じ曲げて、愛と呼んでいるだけなのだ。

 人間は生まれながらにしてこの「見返り地獄」の中で生きることを強いられているのだから、何も考えず生きていればこれがいかに傲慢なことか、一生気付きはしないだろう。これはもはや一種の洗脳と呼んでもよいのではないだろうか。誰かに何かしてもらったらお返しをしなさいだとかそういうものだって、結局自分が与える立場になった時にそうして欲しいからであって、誠意や善意からくるものではない。

 なんとも歪で、どうしようもないこれを、私は恐ろしくて哀れで、人間らしいと思うのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る