仮初の夢

Slick

第1話

 その國には、古くから伝わる民謡があった。


"千の桜の咲き乱れれば 如何で今宵を祭と為さずや

 千の桜の未だ吹かずんば ただ今一日 ”彼” を待つのみ"


 その唄は、國内のとある島に由来する。そこは数多の桜が自生する、神宿る島。

 人々は島をこう呼んでいた――“桜乃島”と。


□ □ □ □


 町中で噂が流れている、青年はそう感じていた。

 ”桜乃島の開花が遅い" と。

 ゆえに、國に戻ったばかりの彼は少々急ぎ足で歩いていた。約束もあるのだ、遅れる訳にはいかない。

 ここは本土の都、周囲は石畳で舗装された大通りだ。道の両脇には木造建築が立ち並ぶが、その軒先には様々な店舗が居を構える。宿屋、駄菓子屋、人形屋……挙げ始めればキリがない。

 青年自身は、黒い軍服仕立ての上衣に身を包んでいた。徽章に銀の飾緒を身に纏い、黒光りする軍帽を被っている。端正な顔立ちは、漆黒の軍服とやけに不釣り合いであった。

 実を言うと、青年は軍人ではない――そもそも彼の軍服は、どの國の規格とも一致しなかった。上衣の裾は革製ベルトを通り越して膝下まで伸び、腰を背後から覆うカーマになっている。

 しかし、これは彼の『正装』であった。

 遠くから微かな風鈴の音を聞きつけ、青年は歩みを遅める。目的地は近い。行燈の並ぶ道を人力車が通り過ぎる。

 そして遂に、一軒の店で足を止めた。店前には紅い唐傘が張ってあった。薄緑の暖簾が入口に揺れ、傍では小さな風鈴が爽やかな音を立てていた。


□ □ □ □


 暖簾を潜ると同時に、濃厚な茶葉の香りが嗅覚を満たす。

 ここは茶屋だ。

 だが俺にとっては、ただの茶屋ではない。


「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」


 盆を抱えた感じの良い給仕娘が、振り返って尋ねた。しかし俺の装いを見るや、微妙に笑顔の雰囲気を変えると、一番奥の畳へと俺を案内する。

 小さな店内を横切って腰を下ろし、ブーツを脱ぎながら俺は、彼女が店主を呼びに行く声を聞いた。

 軍帽を脱ぐ。前髪を払い深呼吸、焦る気持ちを落ち着けた。

 畳上には細長いちゃぶ台に、品書きと正十二面体の寄木細工が載っている。ふと興味を惹かれ、細工を掌上に転がしてみた。子供らしくも一人、現れては消える木目を楽しむ。

 背後に店主の気配を感じたので、俺はそれを戻した。


「来たのか」


 茶屋の店主は深緑色の衣を着た老人だった。その顔には多くの皺が刻まれているが、厳格というよりむしろ木訥とした印象を与える。


「どこへ行っても、同じようなものですから」

「そう言いなさんな。この国はお前さんの故郷だろう?」

「そういう意味では、そうかもしれません」


 店主は俺の前に腰を下ろすと、扇子を広げた。知性を感じさせるその目が、正面から俺を見つめる。


「厨房にはいつものものを頼んだが、良かったかな?」

「ええ、構いません」


 俺がこの茶屋を訪れるのは、年に一度だけ。しかし、店主が俺を忘れることは決してない。

 それには別の理由があった。


「最近は忙しくしてたのか?」

「ええ。昨年秋からは大陸向こうの帝國に渡って、鉄道であちこち飛び回っていました。しかし一年を通しても、やはり春が一番忙しい」

「だろうな。――と、来たか」


 先程の給仕娘がやって来ると、その細い手がちゃぶ台に、湯気を立てる湯呑茶碗と小皿を並べた。ペコリと頭を下げた彼女に、一言礼を言う。

 店主の了承を得た後、さっそく俺は手を合わせた。

 碗を包み込むように持ち、そっと目を閉じる。熱い茶を慎重にすすると、その豊潤な香りが錆びついた心を満たした。


□ □ □ □


「ご来店ありがとうございました」


 勘定を終えると、唯一の従業員である給仕娘が言った。


「店主が渡すものがありますので、もうしばらくお待ち下さい」


 俺は頷き、勘定場から店内を見回す。休日の昼下がりだが客はまばらだった。

 彼らは皆、待っているのだ。桜之島の桜が花開くのを。


「――待たせたな」


 しばらくして、店の奥から店主は戻ってきた。その手には紅い紐で縛られた、漆塗りの黑箱が抱えられている。店主はそれを慎重に俺に手渡した。

 この黑箱こそ、来店の理由である。


「今年は特段に心を込めたからな」


 箱が手から離れると、肩の荷が下りたように店主は笑った。


「きっと上手くいくはずだ」

「いつも信じてます」


 黑箱を受け取り、俺は店主に向かって敬礼した。やめんか仰々しい、と店主が茶化す。

 だが店を出ようとした時――店主が不意に、古い歌を口ずさんだ。


「"千の桜の咲き乱れれば 如何で今宵を祭と為さずや

 千の桜の未だ吹かずんば ただ今一日 ”彼” を待つのみ"」

「!」


 思わず俺が振り返った先で、店主は穏やかな笑みを浮かべていた。


「この國の皆がお前さんを待っている。お前は独りじゃないということを忘れるな」

「は......い、ありがとうございます」


 店主の言葉に、俺はそうとだけ答え店を出た。

 訳もなく波紋する孤独に、心が掻き乱される。大通りを行き交う雑多な声たちが、何故だか遠くに聞こえた。

 抱えた黑箱の重みは、腕に染みていくようであった。


□ □ □ □


 その晩のこと、正確には亥の刻一つ。町もすっかり寝静まる時間だが――俺は海上にいた。

 深夜に一人、本土の浜から海へ漕ぎ出したのだ。一人乗りの小舟は黒い海を割って進み、向かう先は桜乃島である。その聳えるような巨影が、眼前の闇に凍りついていた。

 夜空に浮かぶのは、艶やかな上弦の月。

 湿った潮風が前髪を撫ぜ、俺は軍帽を抑え直した。手漕ぎ櫂は海面を叩き、サプンサプンという音が絶え間なく響く。

 波に揺られつつ、自分自身に思いを馳せた。

 夜は好きだ。この静寂さに包まれていると、日々の孤独をも忘れられる。そしてこの波の上で、今宵を永遠に彷徨い続けたいと感じてしまう。

 そのささやかな願いが、叶わぬものと知っていながらも。


 島に乗り上げ、すぐ舟を降りた。

 重い櫂を舟中に引き入れると、舟を浜の奥へと引き摺っていく。潮が満ちた時のためだ、ザリザリと湿った摩擦音が鳴る。

 振り返ると、はるか遠くに本土が滲んで見えた。

 桜乃島の人口は零である。しかし完全な無人島なのは、俺にとっても都合がいい。

 軍服の裾を払い、小舟の底から黑箱を取り出した。両手で捧げるようにそれを持ち、俺は島の内部へ入っていく。

 薄い松林を抜けると、丹塗りの大鳥居が目に入った。そこから先は石段の山道に繋がっており、鳥居は桜林への入り口にもなっている。古びた木製の柱は朱色が擦れかかっているものの、その頂上に輝く『閣』の字は変わらず黄金の輝きを放っていた。

 ここから先は聖域だ。それはつまり、俺の故郷ということでもある。

 静かに一礼し、ゆっくりと鳥居を潜り抜けた。どこか遠くで梟が鳴いた。


□ □ □ □


 黒衣の俺は闇に紛れ、石段を亡霊のように登っていく。

 道の両側には数多の桜が生えているが、どの樹も未だ花を咲かせてはいなかった。しかし大きく膨らんだつぼみを透かし、薄い桜色が浮かんで見えた。

 桜乃島には太古の桜の森林と、そして自然の静かなる調和があるだけだ。

 石段を登りつつ、古い歌を口ずさんだ。


「千の桜の咲き乱れれば 如何で今宵を祭と為さずや

 千の桜の未だ吹かずんば ただ今一日 ”彼” を待つのみ」


 夜風の囁きが頬を攫う。短い民謡を何度も繰り返した。ブーツの硬い音が夜にこだまする。

 やがて、島の頂上にたどり着く。そこには太古から生き続ける、巨大な桜の御神木があった。太い幹に刻まれた皺は、悠久の時を超えた生命力を誇示している。

 老木に一礼すると、俺はおもむろに黑箱を開けた。紐を形式通りに組み解き、中から取り出したのは一本の大幣である。これは祓具の一種であり、木製の棒の先には編まれた和紙の束が幾本も垂れ下がっていた。

 幣を両手で掲げ、振り返ると眼下の景色に向き直った。輝く月が視界を掠める。御神木のたもとからは桜林と石段の道、そして遠くには海と本土までもを一望できた。

 ――『人』として生まれたかった、と願うこともある。ごく普通に生きたいと願ったことも、何度も。

 でもこれが、俺の仕事というのなら。

 それが『神』と呼ばれる者の使命ならば。

 俺はこの身を、それに尽くすだけなのだ。

 神経を研ぎ澄ますと、俺は夜空に言霊を放った。


「今や時、参り侍りにけり。今宵上弦の月の下、輝かせ給へ其の御名を。千の桜よ――立ち昇り給へ!」


 掲げた幣が大きく振り上げられた――次の瞬間。

 島中の桜が一斉に、金色の花を咲かせたのだった。

 石段が昼間のように明るくなる。ついに花開いた桜の花弁が、輝かしい光を放っているのだ。再び大幣が振るわれると風が巻き起こり、咲き乱れた花々を舞い上げる。視界が黄金の光で満たされた。

 ちらちらという煌めきを透かして見えるのは、淡い上弦の月。俺はそっと片手を伸ばすと、舞い散る花弁の一つを宙にすくった。その花びらは光を放ちつつ、小さく脈打っている。フッと吹くとそれは再び宙に躍り出、そして溶けて消えて行った。

 一年を通じても今だけは。今この時だけは俺以外、誰の声も桜には届かない。

 そろそろ潮時と感じ、俺は大幣を握り直すと再び言霊を唱えた。


「千本桜の内なる発露よ、其の輝きを収めさせ給へ。すなはち真の姿を顕現せよ!」


 幣が空を切り、俺の思念を桜に飛ばす。

 ――次の瞬間、静寂が訪れた。

 周囲の黄金の輝きが、今度は次第に薄れていく。煌めくその光は金の粒子となり、桜花から夜空へと立ち昇っていった。

 そして残されたのは――満開に咲き誇る、美しい夜桜だった。

 "開花”の儀は終わったのだ。

 俺は肩の力を抜くと、大きく息を吐いた。黑箱を地面から拾い上げ、大幣を元に戻す。

 幣はこれから一年使うことになるのだ。大事にしなくてはならない。

 なぜなら俺は、花々の眠りを覚ます『神』なのだから。

 再び御神木に一礼、そして石段を駆け下りた。肩に掛けた飾緒が振れ、長い裾が夜気を孕む風にたなびく。頭上では満開の桜が世界を静かに包み込み、遥か彼方では上弦の月が光っていた。


□ □ □ □


 桜乃島開花の知らせは國民を大いに勇気付けた。長い冬が終わり、新たな季節の始まりが告げられたのだ。

 早速祭典の準備が始められ、その知らせはあっという間に國内外へと伝播する。

 そして"開花”からちょうど一週間の夜、島で盛大な祭りが開かれた。


 普段は誰も通ることのない花道に、今宵だけは大勢が足を運ぶ。鳥居を抜けた先、御神木への参道沿いには無数の屋台が立ち並び、賑やかな雰囲気を醸し出していた。

 今宵は"神宿る島”に人の立ち入りが許される、一年で唯一の日だ。

 本土と桜乃島を結ぶ海域には数多の船が行き交い、その灯りが蛍の如く夕闇に光る。それはこの國の春の風物詩の一つだった。

 石畳の参道では、皆が溢れんばかりの笑顔を浮かべている。ワイワイと騒ぐ子どもたちに、初々しい學生の恋人も。男たちは酒の飲み比べで顔を赤くし、女たちは噂話に花を咲かせていた。

 そして彼ら全員を、桜の木々は優しく見下ろしていた。

 それと――忘れてはならない。ここにもう一人。

 真紅の大鳥居の下、その柱に寄り掛かる一人の青年がいた。黒い軍服を身に纏い、軍帽を目深に被る彼の胸に輝く階級章は、何を隠そう桜の紋章であった。


「――この達成感こそ、俺の仕事のやり甲斐かな」


 青年はそうつぶやくと、柱の影から身を離した。見上げる夕空に浮かぶのは、白い満月である。

 祭りに参加することは、青年にとって許されない。それは古来から続く掟の一つであった。

 可能な限り、人の世と交わってはならない。

 次にここを訪れるのは、また一年後だ。

 青年は松林を抜け、砂浜に出た。もう夜が近い。波の柔らかな音が響く。

 爽やかな潮風がなびくと、青年の長い影を吹き消した。そしてそこには、誰もいなかった。

 遥かなる天空では満月が黄金に輝き始める。その艶やかな光はまるで――桜から借り受けたもののようだった。


 

 

 


 

 

 


*現在、続編も連載中です。

 https://kakuyomu.jp/works/16817330659578530692

 

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