第百二十八話 侵攻の遅延

 1595年も半分以上が過ぎ、不安を覚えていた攻勢も成功裏に進んでいる中、次なる侵攻への動きも同時に進んでいた。

 歴史ではスペインの侵攻に数百年耐えたスールー王国であったが、少数の兵しか展開できなかったスペインと違い、万単位の兵を送り込まれては小さな諸島国家に抵抗する術などなく、ブルネイからの援軍を加えてさえわずかな抵抗を行えただけに過ぎず占領を受け入れる他なかった。


 前王が死に新たな王となったばかりであったことも抵抗が弱まった要因であったし、ブルネイから王の甥が手勢を率いて援軍に来ても大きな影響を与える事なく、戦争の結果は僅かな期間での降伏だった。

 統治を任された九鬼家は、朝鮮半島で受けた消耗を補填するために、周辺を海賊として荒らし回った経験を持つ海兵として経験豊富な住民たちを積極的に吸収し、更に日の本の漁法を伝えるなどして住民の歓心を買って積極的な協力を得ようと努めている。

 さらにはスールーの王家を名乗る一族や有力者に苗字を与え家臣とした後、息子の守隆に王の妹を側室に迎えさせ、自らの娘を与えて関係を強化したりと取り込みを進めていた。

 ただその扱いは王家に対するものではなく、九鬼家や豊臣は最も有力な国人として扱っており、ある程度の領土は認めていたが、あくまで支配者は九鬼家であり豊臣家であった。


 九鬼嘉隆がこの地に入った時に思い描いたことは、今後長く戦が続くであろうミンダナオ島南部やスラウェシ島とマニラを結ぶ線上に位置するこの地の重要性と、それ故にこの海域を安定させるだけでも大きな功績となるであろうということだった。


 織田政権下では水軍の主力として活躍してきた九鬼家も、豊臣政権では本能寺の変前に秀吉の元に身を寄せていた来島通総が姫路で作り上げた水軍が主力となっており、それを副将である子飼いの加藤嘉明が引き継ぐ予定となっていて、九鬼水軍は朝鮮で功を挙げたとはいえ決して地位は高くない。

 姫路の水軍に次ぐと考えられている北九州の水軍も、秀吉子飼いの脇坂安治が淡路統治時に作り上げた水軍が主力で、もう一つの主力である筑前豊臣の水軍も、秀長が紀州統治時に加えた者たちが主力となって作り上げたもので、豊臣家の水軍といえる存在だった。

 更には舞鶴を中心に編成されている新たな水軍も、来島得居の兄弟の嫡子が創設を進めていて当然豊臣の影響力が強い。


 外様が持つ水軍は、松浦や五島といった者たちは高砂に、そして小早川と自分が南方にと次々日の本から引き離されていて、さらにスペインが残していったマニラの造船所を利用して南方水軍を作るという話も、北条が滅んだ後公方様に取り立てられた清水政勝が指揮していて、当然豊臣家直轄の水軍となるだろう。

 そのことからも外様が持つ水軍は今後いくつか作られる豊臣家の艦隊のいずれかの麾下に入り、その一部隊という位置付けになると考えている。

 その中で九鬼の力を示すためにも、海運の要地となるはずのこの地の統治に失敗することなどできないと考えていて、それが融和的な統治に繋がっていた。


 スペインは海を渡り侵攻する余力はなく、できることといえばひたすら耐え続けることだけとなっており、対する日の本の侵攻軍は領土を広げるたびにその維持に兵を使い補給線も伸び続けていて侵攻能力を失いつつあった。

 双方ともに動く余力がなくなれば、後は如何に戦を終えるかに舞台は変わっていくのは自然な流れだった。

 ただスペインとの戦が終わったとしても、支配の行き届いていない場所も多く、戦の機会もまた多く残っているはずで、それに備えるためにも戦に備えることは無駄ではないはずだった。



 南方作戦の全てを任されている豊臣家の世継ぎである秀持が、黒田官兵衛を主として盛んに相談していることが戦の終わらせ方になってからそれなりの時間がすでに経っている。


 第三次侵攻によってスールー諸島を制し、そのままミンダナオ島に上陸した後は、サンボアンガの地に砦を作って拠点を作成し周囲の部族に従属を求めていてそれなりの成果も上がっていた。

 また別働隊もミンダナオ島北東部に上陸を行い、拠点を作りつつ周囲の確保に努めており、こちらも周囲の部族との交渉を始めている。

 さらにスラウェシ島のマナドの地に上陸して、さらなる南方侵攻の準備の為に拠点化と湾口施設の整備を行ったというのが侵攻の成果であった。

 ただ予定していたマギンダナオ王国への攻撃は戦力不足から見送られて、とりあえずは交易によって日の本の影響力を高める方針となっていた。


 そんな中父秀吉によって国替が行われ、突然のように南方に送り込まれる事となった大名たちは、秀持にとって彼らが率いてきた兵や民が使えるようになったという点で有難く、それに伴って諸大名の配置を行わなくてはならなくなったという点で苦労させられる存在であった。

 秀吉の肝いりで、台中の地を与えられた生駒家とその南彰化の地を与えられた龍造寺家はともかく、それ以外は全くの白紙であり、父からは『南方にてふさわしき地を与えよ』という文が送られただけで、信頼されているのは良いがあまりにもといった心境だった事を覚えている。


 結局その後父上から織田旧家臣である丹羽、金森、筒井、徳永、といった面々には、高砂東部の開発を任せるとの書状が来て、それぞれ宜蘭、花蓮、台東の地を与え、残る徳永には宜蘭と花蓮の中間地点にある和平の地をあたえる事となり、多少秀持の負担は減って残りの者たちの処分を考えるだけで済んではいる。

 突然の様に決まった織田旧家臣たちの扱いは高砂の事実上の責任者となっている尼子に任されたが、その背景には商人たちの強い要望があったと聞いている。

 明が外海に興味を示していないことから大きな争いは起きていないとはいえ、高砂と明の間は日明の係争地であり、いつ戦となってもおかしくなく、下火になっているとはいえ明の世情が悪化すれば、海岸の民たちが海賊化する事も十分に考えられる。

 そのような場合でも、南方との交易が途絶えぬように高砂の東にも中継点となる港があればと父上に働きかけ、それに理解を示したというのが今回の内幕らしかった。

 そのこと自体には納得もできたしいつかは東側の整備も必要と考えていたから、高砂探題には苦労をかけるなという思いとまたも金がかかりそうだなという思いしかわかなかったが、問題はその他の面々であった。


 兵の補充も兼ねて宮部継潤を日の本から呼び寄せる事を決めた矢先、さらに宇都宮津軽といったものたちの所領を考える必要が出てきたのだった。

 先日の戦いで確保した、スリガオの地を津軽家にブトゥアンの地を宇都宮家に与えて、マナドに宮部の家を入れることにしたが、問題はそのに伴う再配置と再編の時間だった。

 さらには多少の援軍を得たことでマギンダナオに対して圧力をかけるべきではないかとの意見も出てきて、それを一部取り入れる形で第四次攻勢にカガヤン・デ・オロとイリガンの地に拠点を設けて、北部から圧力をかけることが決められた。

 先陣を切るのは、スリガオとブトゥアンを攻めた立花と長宗我部に任されることになり、その準備にも時間をとられることなる。


 そのような事情が重なり、香料諸島とマカッサルを手中に獲るべく計画されていた第四次侵攻は拡大し、当初予定されていたよりも遅れる見通しとなっている。

 そしてそれは、スペインとの和平の遅延と秀持が日の本に帰国する日が遅れることを示していた。

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