第百二十六話 秀吉の引際
1595年に行われた国替えを終えて、聚楽第の一室で秀吉はかねてからおぼろげに考えていた自分の隠居について真剣に考え始めていた。
小一郎の死が一つのきっかけではあったが、その矢先の突然の戦が起こりそれどころではなくなり、戦費の負担解消と恩賞の配布のために国替えを決意したものの、細かな調整で時間が予想以上にかかってしまい、やっと一息ついて考える時間ができたというのが今の状況であった。
自分が一線を引けば息子が南方に行っている以上、家康を始めとする五人の衆と、奉行衆に国政を任せることにはなるが、自分が近くにいれば滅多なこともできないであろうし、自領で力をつけられるより目の届く場所に置いておく方が良かろうとも思っている。
捨が元服し領土を持てば、母として茶々もついていくことになろうし、如何に英雄色を好むといえども秀吉も齢六十も間近ということもあり、多少色欲が薄れているという自覚もある。
なれば隠居でもしてねねと暮らし、これまで働き詰めでわしが知らぬおっかあや小一郎、餅の思い出話でもねねに聞きながら余生を過ごすのも悪くはないというのが秀吉の今の心境であった。
近頃側室に取った総見院様の子で、生まれから安土殿と呼ばれている娘は連れて行かねばならぬが、他のものは処遇はねねに任せて公家や大名に嫁がせるのも良いと考えてもいた。
その様なことを京極殿に零した時に「それでしたら、私には茶々殿と捨様を支えるお役目をいただけませぬか?私もこの年であり殿下をお子を産むことは叶いません。殿下からの御恩をお返しするためにも従妹と豊家のお役に立ちとうございます」などと返されたことをふと思い出す。
ねねと茶々の折衝役としてわしの世では多少価値があったが、餅の世では御台と茶々の間にそのような者は必要なかろうとも感じ、茶々の妹どもの婚儀を仲介したことで家康とも面識があることから、捨と江戸を結びつける事に価値を見出そうとしたが、そのことは既に秀吉の中での優先度は高くはなくなっている。
とはいえ所詮はおなごであり一人で何かができるわけでもなし、肌を重ねた弱みもあって、強いて拒否する材料もないことから「拾の様子を北政所につたえよ」と命じて結局許すことにしたのだった。
不意に秀吉が京極殿との会話を思い出しているのも「側室のう」と最近頭を悩ませているからで、その対象は自分ではなく息子の側室についてであった。
息子の正室である更級は男子を三人も産み、ねねを始めとして誰とも不和になることもなく、秀吉にとっても何かと楽しい娘で全く不満は持っていなかった。
だがそろそろ子を望めぬ歳も近づいており、それで側室の一人も持たぬのは豊臣としてはやはり問題と秀吉は考えていた。
側室を持たせぬのかとあこに問いただしてみても「更級殿は側室をとってもよいと言っておりますが、公方様がこのままでよいとおっしゃられて、下手に私が用意すれば、またこのおばがと口を聞いて貰えなくなりまする」と全く頼りにならない。
ならば同じく長らくおまつ殿のみで側室を持たなかった又佐に聞いてみると「藤吉郎、わしの場合はおまつがのう」と言って、その言葉でそういえば尻に敷かれていたなと思い出し、全く頼りになりそうになかった。
さらに小早川又四郎に聞いてみても「主輝元を除けば亡き父を始めとして毛利は余り側室を持たず、父とて側室を設けたのは正室を無くしてからしばらく後でして、亡き兄たちが何度も勧めたことを思い出します」と思い出に浸るように話し始めて、こちらもあまり頼りになりそうになかった。
「なぜわしの周りには、おなご好きがおらぬのかのう。餅めが御台を好いとるのはわかるが、それとは別のことであろう。側室を持てと言われて断るとは全くわからんわ」と嘆いている。
秀吉の嘆きはある意味において不当なものではあったが、豊臣の当主としてできるだけ子を成さねばならない事は事実であったし、秀吉とねねが作り上げた大坂の奥に比べて姫路の奥はあまりにも小さく、今現在奥に与えられている機能を十全に発揮できる規模でもなかった。
大政所としてねねを置き孝蔵主や東殿がそれを支え、あこが大政所と御台所との間で調整を行ったとしても、全国の大名の妻の頂点として彼女らとの交友、人質として送られてくる大名子息の養育や、夫が不在の間の家臣の統制など全てをこなすのは不安があるように感じられたし、またねねがいつまでも健在であるとも言い切れない。
そもそも正室の職務の多さの原因は、各地を飛び回る秀吉が多くのことを糟糠の妻であるねねに丸投げした結果ではあるのだが、半ば豊臣家の妻とはそのようなものだと捉えられていて秀吉夫妻をはじめとして疑問に思うものもいない。
逆にそれを成さなければ、子飼いの大名衆から侮られることにもなりかねないほど当然のことと思われている。
しばし思案したあと大声で佐吉を呼び出し、急いでやってきた佐吉が平伏も終わらぬうちに「佐吉よ餅に辰を寄越せや」と命じた。
三成がいかに頭の回転が早くとも全く理解できず、何を献上するのかと思った程で「殿下それはどのような意味でございましょうか」と聞き直したのも当然のことだった。
「たわけが、そちの娘の辰を餅の側室にあげよと申しておる」
その言葉を聞いても全く意味がわからない、娘は未だ4つでやっと乳を離れたばかりといってよい年であったからだ。
「御台が三人の男子をなしたとはいえ、豊臣にとっては餅にまだ子をなしてもらわねばならん。じゃが餅に任せておればいつまでも側室など迎えず、更級でよいと言って奥の事もそのままにしよう。ねねの奴もわしの女遊びにこりておるから必要と頭で分かっても餅に言いくるめられかねん、ならばわしの命として奥を整えねばなるまい」
そこまでは理解できる話だった。
「とはいえ誰に似たのか餅は餅で頑固者じゃ。今すぐおなごを宛てがえば、更級でよいと言ったであろうとへそを曲げかねん。それに彼奴のこと五年や十年は義理立てしても不思議ではない。それ故のそちの娘よ」
さらに秀吉の言葉は続く「おみゃぁと市松にゃあ、餅の左右となってもらわねばならん。市松には良き娘がおらんゆえ山中の家から市松の姉の子を出させる。確か十は越えてたはずじゃ。数年もすれば子も望めよう」そこまで聞いて佐吉は納得し、平伏して了承の意を伝えた。
「じゃが子をなしたからといって忘れるでないぞ。豊臣の棟梁がだれで誰が継ぐべきか、それを違えるものは豊臣に弓引くものと言う事を」
秀吉はそう言ってから「豊臣の世が千代に続くようわしが奥を整える。隠居前の最後の仕事となるやもしれん。佐吉にも手伝ってもらわにゃあならん心せよ」と言って話を終えようとする。
突然の隠居の言葉に驚き「殿下には関白宣下を見届けてもらわねばなりません」と何とか返した佐吉の言葉には「ほうか」と返ってきただけでそれ以上言葉は続かなかった。
側に仕えているだけに秀吉の気力が落ちていることも、どこかで区切りをつけ隠居を望んでいることもおぼろげに感じてはいたが、言葉にして聞くとやはり衝撃を受け、認めたくはないと感じるのが佐吉の率直な気持ちだった。
この様な時に公方様がいればとつい考えてしまう。
きっと「父上、私はもう少しの間楽をしたいのですが」などと言い、殿下が「たわけが」と言いつつ気力を取り戻すのであろうが、今殿下を止められる者は日の本にいなかった。
せめて、少しでも長く殿下が豊臣を率いてくれることだけが佐吉の願いとなっていた。
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