第百二十五話 国替の反応

 太閤秀吉から伝えられた国替えの命令に従うべく、上杉家の家老である直江山城守兼続は急ぎ越後への道を進んでいた。

 先に越後に戻った主景勝を追っての帰還であり、上方で個人的に親しい石田治部との会談を終えての帰還であった。

 

 石田治部は東北に睨みを利かし、徳川の抑えを任せられるのは上杉しかないとの殿下の思し召しでありましょうと口にしていたが、天下の宰相が勤まるとまで言われている彼にとって、此度の転封は上杉の力を削ぐものであるとすら思っていた。

 石高からいえば八十万石に満たなかったものから、百万石と大きく増加はしたものの、海を失い外洋に出る手段を失ったことは、近い将来の影響力を大きく失わせる要因になるだろうと考えている。

 ここ数年の造船技術の高まりと、それに伴う海運の大きな発展は日の本を根本的に変えるものだと兼続には見えていた。

 人と物の往来が更に激しくなる事が予想される中、その根幹である港を失うということは、他家に取り残されるに等しく、将来的に大きな影を上杉家に落とすだろう。

 

 ただ百万石という領地は、名門上杉の面目を施すものとしてはこれ以上ないもので、今では功罪ある転封という評価にはなっている。

 今彼が帰路を急いでいるのは、収穫された年貢を雪が深くなるまでに根こそぎ運び出し、会津の領地経営を円滑に進めるためであり、その準備も含めれば残された時間は少なくなっているからであった。

 

 そして彼が持つもう一つの不安は、豊臣の後継者について知る事が余りにも少ないことだった。

 主に西国で活躍し、平時も姫路にいて滅多に上洛することのなかった彼とは面識がないと言ってもよい状況で、姫路に使者を送ったこともあるが、会うことは叶わなかった。

 治部少に彼のことを聞くと目を輝かせて「周の武王、唐の太宗が如く豊家は安泰でございましょう」などと言って心酔している様子を見せており、横柄者の彼がここまでいうのであればと評価はするが、結局のところ分からないまま、治部少に彼と上杉との仲介を頼んで彼の屋敷を後にした。

 とはいえ、南方にいて日の本にいない彼と会うことが叶うのはまだまだ先のことだった。



 小早川隆景は近頃発表された国替えについて、何度も思考を重ねていた。

 彼が守るべき毛利家にはなんの変化もなく、強いて言うのならば婚姻関係によって親しくしていた三好が転封となった事が変化と言えるものだった。

 屈指の領土を維持したまま今回の国替えを乗り切ったが、不安は高まるばかりであった。

 

 自分の命は後三年すら持ちそうにないと自覚している。

 せめて殿下が亡くなった後の一時的な混乱を支えてやりたかったが、それは不可能に違いない。

 殿下も自らの死の用意を始めているように見えていたが、それでも自分が旅立つのが先であろう。

 

 殿下の死後、すべてを受け継ぐ豊臣の後継者は毛利に対して好意を持っていることは間違いなかった。

 ただそれは、彼と親しい安国寺恵瓊や、義理の弟となっている毛利秀元という個人的な友誼からで、それが彼の決断に影響を与えるほど強固なものでないこともわかっていた。

 そしてそれは、百万石を超える領土を維持するには到底足りない縁であり、維持していくためには変わらぬ忠義を示し続けなければならない事を示している。

 

 畿内という日の本の中心を完全に治め、圧倒的な経済力を持つ豊臣に逆らうことは無謀であり、それは豊臣が次の代に移っても変わらないだろう。

 豊臣の後継者は確かに殿下のような天才ではない。

 ただ、自身が豊臣であることを良く知り、豊臣の力が何であるかをよく知っているというのが隆景が持つ印象だった。

 戦となれば豊臣と毛利の力の差を利用され決して勝てないし、平時であれば権力や経済力を利用して徐々に追い込まれていくだろう。

 そしてそれは毛利だけでなく日の本のいかなる家であっても同じだというのが彼の結論で、徹底的に彼の協力者でありつつけることのみが、毛利が家名を保つ唯一の方法であるというのが彼の結論だった。

 

 だがそれは、武蔵守や加賀大納言の様に個人的な縁から彼の父や兄となることを決めた者、宇喜多や真田の家の様に彼に近すぎて豊臣の天下以外では生きられぬ者、尼子の様に多大な恩義を感じている者、そして福島や石田の様に彼に仕える事が全てであると思える者以外にはなかなかに難しいことでもあった。

「命が尽きる前に、主だったものにはよくよく言い聞かせなければ」

 西国一の賢人と言われた隆景にとって、それが父への最後の親孝行の様に思えていた。



 関東を任されている徳川家康にとって、今回の国替えは僅かではあるが道が開けたように感じられていた。

 加増は上野国に僅か五万石であったが、秀吉の肝いりで蒲生、池田との縁組が決められ、さらには息子である秀忠と茶々の妹である江との婚姻も正式に決められたことから、関東から東海道を経て東美濃まで血縁による影響を及ぼせる様になったからだった。

 さらには御掟と呼ばれる豊臣家の大名統制の為の決まりを定めた法において、前田、毛利、小早川、宇喜多と共に署名を行い発布されたことは、朝鮮との戦の前から引き続き、秀吉秀持不在の間はこれらのものが合議にて豊臣家を動かすことになるであろうことを示すもので、関東一円と東海道に影響力を持つ自分こそが、その筆頭になるであろう事も示されていた。

 

 関東で力をつけ新たな鎌倉になることも、筆頭家老の立場を利用して得宗になる道もあり得るだろう。

 そこまでせずとも豊臣に手を出させず家を残せば、七代先に生まれ変わって天下を取る目もあるやもしれぬ。

 このような家康の考えを支えているのは、万が一戦になってたとしても、そう簡単に負けることはないという自信からであった。

 

 先の豊臣との戦は、信濃への侵攻を行った直後に発生し、不作とも重なったことで民の離散が相次ぎ矛を収めざる得なかったが、家臣たちに倹約を徹底させて銭や米の備蓄が進んでいて、長期の戦にも耐えられる準備は進んでいる。

 となれば後は直接の戦であるが、秀吉がいなくなれば戦で自分に肩を並べるものなど日の本には居らず、例え豊臣の跡取りと戦となったとしても、所詮は大軍で寡兵を捻り潰す戦の経験しかない若造であり、負けることなどありえないと思っている。

 

 とは言っても徳川単独では勝てるものではなく、味方を集めて機を見ての戦とはなろうが、急激な変化をもたらした豊臣政権を危険視するものや、その強引な手法についていけないもの、そして新たな豊臣の主に反感を持つものを集めれば十分に豊臣を倒し得る勢力になるというのが彼の見立てだった。

「焦らず進めねばな」

 秀吉の命はあと暫くは持ちそうであり、それまでに野心を見抜かれるような事があれば目も当てられない。

 少しずつ蝕んでいき気が付いた時には、手遅れになっていた。それが理想だった。

 そしてそれが可能であると彼は思い込んでいた。 

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