第百二十三話 太閤仕置 東国

 西国の国替えが発表され、此度の国替えであまり大きな変化は無いのではと考え始めた者たちも出てきている中、東国での国替えが発表されようとしていた。

 

 東国での国替えの目的は、南方と朝鮮での戦での出費と継続的に続いている移民を伴った周辺の開発に対して、逼迫している豊臣家の財政立て直しと継続的な投資に耐えうる財政基盤の構築であった。

 南方開発は初期段階で自給自足できる段階までにまだしばらくの時間が必要で、その存在が豊臣の財政を圧迫しており、予想外の朝鮮との戦が豊臣家としては動員も少なく短期間に終わったにも関わらず、南方の支出と合わせると財政的に大きな負担となったことから、さらなる大きな戦が起きれば豊臣家が崩壊する恐怖を秀吉に与えていた。

 当然秀吉もこのことについて座視するわけにもいかず、少なくとも自給自足が可能なまでには早急に漕ぎつけて南方に大量に送られる物資を削減したいとの思いは強かったし、豊臣家の収入を増やして政権を安定させる事も必要だと考えている。

 南方の開発に関して秀吉の見る所、南方には六万を超える軍勢が送られてはいたが、戦と並行しての開発であり政務に専念できる者が少なく、広大な領土に対して文官が全く足りていないのではないかとの思いを抱いており、それは事実でもあった。

 

 秀持もそのことは十分承知しており、大量の軍勢をぶつけて抵抗の余地を奪い、戦が長期化するのを避けて政務に専念できる時間を作る努力はしていたし、領土を与えたものに対しては軍役を免除して領地開発に専念させるなどの方策を取っている。

 皮肉にもそれが、使える兵力の減少につながっているのだがそのことは、仕方のないことと考えていた。

 だが秀吉はそうであれば、領地経営に成果を出しているいくつかの大名を南方に送り込んで開発に専念させるのも手であろうと考え、付属してついていく家臣団が南方で不足しているであろう文官となれば開発が加速するのではないかと考えたのだった。

 幸いにも南方には未だ誰のものでもない土地が多く残っていて与える土地は有り余っているし、息子であればどうにかするだろうという思いも持っている。

 

 そしてもう一つの目的が、まだ幼い息子の為に与える領地を公表することであった。

 元服の計画は徐々に進められていて、元服が終われば股肱の老臣をつけて大名とする予定となっている。

 まずはそのことについて秀吉が口を開く。

「お拾に与える地であるが、尾張三河八十五万石とする。堀尾帯刀を岡崎城主、山内対馬に長篠城主、渡瀬左衛門佐を吉田城主とするゆえ家老としてお拾いを支えよ。来年には元服させ、その翌年には清洲に入城させるゆえ準備を怠るでないぞ」

 その言葉を聞き多くの者が、言葉を失った。

 未だ赤子と言ってよい者が、再来年には大名に列してしかも日の本でも屈指の領地を与えられることが示されたからであった。

 

 更に驚きの言葉は続き「清須の堀は越後に転封とする。与力として越後本庄に村上周防、越後新発田に溝口伯耆をつけるゆえ差配せよ」と口にした。

 尾張を子に与えたことで、尾張を領していた堀家の転封は確実ではあったが、まさか上杉が転封されるとは誰も考えてはいなかった。

 さらに秀吉の言葉は続き、尾張に領土を持っている池田は東美濃五郡と信濃ニ郡という、父の死の原因である森家がかつて九州に転封される前に持っていた領土と全く同じ領土を得る形となり、呆然とした表情を浮かべている。

 信濃に領地を持っていて三河に転封となった堀尾茂助の旧領である佐久郡と諏訪郡は義父の領地を継いだ京極高知への加増として与えられ、青木一矩の持っていた領土は織田信包と小川祐忠に分け与えられることになった。

 諸大名は何の功もあげていない京極が加増されたことに「京極殿が寝所で願ったのであろう」と鼻白む思いを持ったが、続いて伝えられた南方への出仕の話題にそのようなことは忘れ去られることになる。

 

 池田家が美濃に入ったことで、増田家は美濃から加賀小松の丹羽領への転封が言い渡され、丹羽長重には南方出仕が言い渡された。

 それを皮切りに飛騨を領する金森長近、徳永寿昌、筒井定次といった旧織田家臣を中心に、宇都宮国綱、津軽為信といったものたちに次々と南方への出仕が言い渡されている。

 飛騨の金森長近の転封は需要の高まりを見せている木材の供給源として秀吉が目をつけたことから直轄地にすることが決められ、美濃群上郡を支配していた稲葉家を九州に転封して併せて直轄地とすることで木材の安定確保を狙ったものであった。

 徳永寿昌は治水の才を買われて南方に送り込まれ、筒井定次は内政の才を買われたことも転封の一因だった。

 宇都宮は秀保が死に一門としての立場を失ったことで、秀吉は下野国の再編を行うことを決め、その余波を筒井とともに被ったというのが適切なものと言えた。

 

「上杉宰相殿には亡き会津宰相の代わりとして会津に入って頂き、直江山城に米沢の地に十万石を与えて都合百万石と致す」

 おおおと諸大名から感嘆の声が上がり、主従は平伏する。

 越後と佐渡そして越中と出羽国の一部を領する現在から比べれば大幅な加増ではあるが、代わりに不識庵公以来の越後兵と金山を失う事となり、平伏した主従の顔は苦渋に満ちていた。

 さらには最上との戦で手に入れたはずの庄内地方は青木一矩に与えられ、出羽庄内二十万石の大名として配置されることとなったことで、永遠に上杉の手から失われた事もその表情を暗くする一因となっている。

 豊臣家としては、膨大な金銀の産出量を誇る佐渡を直轄地とすることで財政を安定化させ、同じく金銀の高い産出量を持つ越後を譜代とも言える堀家の支配下とすることで、豊臣の金銀の独占を進める狙いがあった。

 さらに、今後行われる予定の蝦夷地開発において、筑前豊臣家の博多、播磨豊臣家の鳥取舞鶴、石田家の敦賀、前田の金沢、堀の直江津、青木の酒田と繋がる航路を一門や譜代が支配する事は豊臣にとって大きな利益を生むだろうという目論見も持っている。

 

「会津宰相の遺児は未だ元服も行われず、大領を差配するは難しかろう。遠江一国に転封とする」

 同情とも取れるうめき声が上がる中さらに秀吉の言葉は続く。

「上野にて江戸大納言に五万石を与え、宇都宮二十五万石は三好宰相が差配じゃ」

 謹慎から大名復帰となったが、それが弟たちが治めていた地であることも、上方から大きく離れることも秀次に取っては複雑な思いを抱かずにはいられなかった。

 この結果秀吉は、九鬼家が持っていた志摩国と飛騨、美濃郡上、佐渡を直轄地として増やし、息子への領土として尾張、三河さらには蒲生家に遠江を与えたことで直轄地を減らしていた。

 尾張には元々大名を入れており、奉行を配していたのは三河と遠江であったから、讃岐の地や淡路と言った西国で増やした直轄地、蝦夷地開発のために津軽家より手に入れた地などを含めると直轄する石高は大きく減ってはいない。

 

 全てが諸大名に伝えられた後、秀吉は諸大名を見渡して反応を探り、如何に反応してよいか判断できていないとみるや「これは太閤の命じゃ。不満に思うのものいれば名乗りを上げるがよい」と大きく声を張り上げ、強引に諸大名を平伏させる。

「皆のもの苦労であった。後は国元に帰り諸々の用意をするがよかろう。無論お上とわしに逆らい兵馬の用意をするのであればそれもよかろう」と冷たい声色で言い放ってから「わしが死ぬ前に皆に恩賞を与えられて良かったわ。餅にも変わらぬ忠義頼むぞ」と声を掛ける。

 佐吉や市松、八郎ら恩顧のものが当然といった表情で声を張り上げる中、そうでないものがいることも秀吉は見逃していなかった。

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