第百二十二話 太閤仕置 西国

 1595年六月、戸田勝隆、蒲生氏郷そして宇都宮秀保と続いた大名の死によって何度か変更が加えられた秀吉による国替えが伝えられようとしていた。

 居並ぶ諸大名と、様々な事情により出席できなかった大名の代理の者たちは、固唾をのんで秀吉の言葉を待っている。

 

 秀吉に最も近い位置には石田佐吉が控え、目録を読み上げる役目を与えられており、見る者にとっては見下しているかのように見える表情でその役目を行うつもりのようだった。

 権勢を示すかの様な彼の姿に嫉妬や不満を持つものも多くいたが、彼に親しい者たちが次々と南方で領地を得たことで逆に中央での影響力が下がったと見られており、豊臣の世継ぎに豊後に親しきものを推挙したことを叱責されたとの話も彼にとっては良い方向に働いていた。

 彼とは本質的に馬の合わない福島市松などは「公方様に叱られて佐吉も少しは懲りたであろう」などと話して少しは溜飲を下げていたし、幼き日の約定を何よりも大切にしている彼にとって、佐吉がどれだけ小賢しかろうと公方様を支えるという一点だけは彼を信頼しており、公方様であれば佐吉が増長すれば今回の様に一喝してくれるだろうと思えているから、決定式な決裂は起きておらず此度の佐吉の姿にも大きな不満を持たずに済んでいる。

 

 席次を見て大きな変化に思えるのは、前田利家徳川家康毛利輝元と続く中、小出秀政がその次の席を占めてい事であろう。

 秀吉は朝鮮との戦役の後、筑前豊臣家に対する恩賞として豊後に十万石を持ち、筑前豊臣家と地続きであった彼を与えて付家老とすることにしたのだった。

 筑前豊臣家にとっても、大政所の妹が嫁いだ小出家を与えられたことは、大陸の備えとして自領から動くことの出来ない当主に代わって中央に送るには格好の人材であり、今回も筑前豊臣家の代理として送り込まれて今回の席次にもそれが反映されている。

 筑前豊臣家に関連する恩賞としては、他に軍功を賞して藤堂高虎に済州を与えたが、独立させることなく筑前豊臣に据え置かれているので、実質的に十万石の加増といってよかった。

 

 藤堂高虎は済州拝領に併せて、彼の地に伝わる神話から碧浪島と名を変えたいと願い出て、それを許されてもいた。

 支配政策の一環ではあったが、占領地を日の本の一部とするという方針に沿っており、反対する理由は何もなかった。

 琉球の地でも、住民たちが呼んでいた言葉に字を当てて内奈と呼び始めるなど大陸由来の名称からの脱却が始まりつつある。

 これを聞いた秀吉は「日の本、高砂、呂宋と広がれば確かに内よ」と上機嫌であり、長浜に自身が改めたように地名を改めることにも抵抗感を持っていない彼は、この動きに歯止めをかけようともしなかった。

 南方でも同様の動きが始まっていて、噂では律令制に組み込まれて高砂守などという官位が正式に作られるのではとの噂も広まっている。

 

 朝鮮との戦で加増に預かったのは、他に鍋島直茂がいて龍造寺家に与えられていた領土の国政を預かっていた立場であったものが、龍造寺家は高砂に転封となり鍋島家は龍造寺から独立を許されて肥前の龍造寺領は鍋島に与えられることとなった。

 当然龍造寺は不満を持つ事になったが、対大陸の前線となる北九州の地で、事実上差配をしている鍋島家と名目上の支配者である龍造寺との対立が起きれば、防衛上の問題に発展しかねない事を危惧した筑前豊臣家と太閤秀吉の決定となれば従うしかなかった。

 それに龍造寺の一門は秀次が高砂で手に入れた領地の一部を与えられ、大名として遇される事になっており、このまま鍋島の支配が続いて大名としての立場をも失うことになるよりはましであったと納得する材料も用意されていた。

 

 他の九州の地に目を向けると、薩摩大隅は島津氏のものとなっており、半ば独立する形で日向の大半と奄美大島を島津豊久が、北部の旧高橋と旧秋月の領土は本来であれば島津豊久に与えるつもりであったが、島津の世継ぎ問題が勃発したため豊臣の直轄領として留め置かれている。

 肥後は長崎奉行領として天草郡が豊臣家の直轄領となっている以外は、森家の領土として与えられていた。

 肥前では豊臣の直轄領として長崎奉行が置かれて、佐吉の兄石田正澄が差配するのは変わっておらず、肥後の天草と肥前の高来郡彼杵郡を管轄に置き、松浦郡は脇坂安治が筑前豊臣が持つ唐津の地以外を治め、それ以外は鍋島の地となっている。

 筑後も立花家と毛利吉成家、そして杉原家で筑後を分け合っていることに変わりなく、筑前豊臣家は済州、壱岐、対馬、筑前、豊前と肥前唐津、豊後国東郡速見郡に跨がる大大名となっていた。

 

 府内城のある大分郡と大野郡の二郡は前野家が入っており、直入郡には赤松家が、そして新たに美濃からの転封で稲葉家が海部郡に移された。

 石高としては加増された形であり、転封ではあったが納得いくものにはなっている。

 残る玖珠郡と日田郡は豊臣の直轄地として毛利高政が代官として入る事となり、代官職だけでなく中央と筑前豊臣家との橋渡しの役割も求められていた。

 いざ入寇となれば、日向の直轄領も併せて兵馬をまとめ豊臣の援軍として最も早く馳せ参じることも求めれれており、平時には九州諸大名の監視の役目もあり、多忙を極めるであろうことが予想されている。

 一時この地に入っていた生駒家は再度転封という形で高砂の地に移されて、先日の戦で得た領土を龍造寺と分け合う形で高砂の開発に勤しむこととなる。


 中国では朝鮮との戦による恩賞を、毛利は小早川家を南方で取り立てられたことを理由に辞退しており、宇喜多も筆頭ともいえる功を立てたにも関わらず加増を辞退していた。

「我が領地は、毛利と兄上の領地に挟まれております。加増となれば、共に戦った毛利殿か留守を託された兄上の領地をいただくことになりますれば、心苦しくございまする」とは宇喜多秀家の言葉であった。

 秀吉には「大名の子として育ったゆえ欲がないのう」という思いと「八郎はやはり豊臣の柱石じゃ、律儀に豊臣の家を支えてくれるわ」という喜びとが生まれたが、それはそれとしてなにかの形で報いる必要があり、結局恩賞にせよと黄金や兵糧を与えたり刀や茶器なども与えてそれに報いることした。

 特に親子藤四郎の小刀を与えて「よいか八郎、わしが死ねばこの親の方の刀はそちへの形見分けとして与えるゆえ、子の八郎に小刀を継がせよ」と言った時には秀家は殊の外喜び、顔を涙に濡らして「兄上と豊臣を支えまする」と答えるのが精一杯という有り様だった。

 これらの恩賞は、宇喜多が秀吉がこれまでに取ってきた養子や猶子の中でも別格の存在であると改めて示す事となっただけでなく、朝鮮からの略奪や豊臣が用意した物資の提供によって実際の所ほとんど出費していない宇喜多家にとって大量の資金を融通されたに等しく、財政の立て直しや領内の開発を行う余裕を生むことにもなった。

 

 そして四国では、継嗣のいなかった戸田勝隆の死に伴いその遺領が長宗我部に与えられことが伝えられた。

 父の代理として此度登城していた盛親には、秀吉自ら南方での長宗我部の活躍を激賞される栄誉が与えられ、諸大名からの羨望の眼差しを一身に受けるという機会に恵まれた。

 若い彼にとってはこれほどの経験はなく、豊臣に対しての忠義は揺るがないものとなったであろうと秀吉は考えている。

 伊予の残りの地は、秀次の持っていた伊予の地が朝鮮での功に報いる形で市松に与えられてすべてが福島家のものとなった。

 市松は佐吉に得意気な顔を見せつけたが佐吉は一瞥しただけで何の反応も示さなかったが、市松は上機嫌に相変わらず佐吉は佐吉じゃのうと思われただけで済んでいる。

 讃岐の地は造船と養蚕で大きな利益を上げていることに目をつけて直轄領となり、四国奉行を創設して片桐且元を奉行として管理を任せる方針となり、阿波は変わらず蜂須賀が治めるままである。

 

 秀吉から西国の全てが伝えられた後、諸大名からは大きな驚きはないように見えた。

 生駒の再転封は多少の驚きをもたらしたが、それだけであった。

「そして東国じゃが」

 秀吉の雰囲気が先程までと変わったことに気がついた者は、固唾をのんで彼の言葉を待っている。

 東国の国替えが発表されようとしていた。

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