第百二十話 秀吉の思惑

 1595年に入り、秀吉は新年の祝賀の場で居並ぶ諸大名に対して国替えを行うことを宣言した。

「わしももうすぐ六十が見える歳となったわ。皆の忠勤に応えずに冥土へ行くのは心残りじゃ、領土を新たに与えるつもりであるが、南方にも日の本は広がったゆえ、転封となるものも出てこよう、それは堪忍してくれや」

 その言葉に市松は「殿下冥土などと、口にされては」と声を張り上げた後、意見したことに気が付いて俯き、佐吉は神妙な顔をしながらも手を握りしめ、その言葉に耐えていた。

 宇喜多秀家など若く、秀吉に見出された者たちの心境は彼らと同じであった。

 前田利家や浅野長政といった古くから付き合いのある者たちにとっては、秀吉が自らの死を口にしたことに自らの衰えを重ね寂しさを感じたが、その様な秀吉がどの様に国替えを行うのかにも興味を向けていた。

 そして秀吉に従うことになった、外様大名たちの興味は完全に領地のことに目が向いている。

 外様であっても真田昌幸の様に豊臣家との関係から、この国替えが豊臣にどの様な影響が出るのかを心配している者もいて、この様な分け方が全て正しい訳ではなかったが大まかにいればそのようなものであった。


 秀吉は市松達の反応にこやつらは、餅を支えてくれると満足しながらも、冷静に自らの跡継ぎの敵となりうるものを探そうとしていた。

 自らの子と同い年の伊達は、かつて切り取った地を取り戻そうと動いていたが、その尽くが失敗に終わり今は息を潜めている。

 細々と未だに策を弄しているようだがそのせいで周囲から警戒されていて、自ら機を作り出すには人望が欠けているから、伊達が中心となって反旗を翻しても大きな脅威にはなりそうもなかった。

 忠誠などはなく豊臣を恐れているから従っているだけなのは明白で、大きな乱が起きれば機と見てすぐさま勝手に動くことも明白であり、警戒しておくべき者ではあったがそれだけだった。

 西国大名の殆どは出陣してこの場にいないが、舞い戻った島津の内情も気にせねばならない問題であった。

 島津家は豊臣政権に降伏後も、当主である義久の名門意識により豊臣家を軽視する気風が強く、豊臣家は九州征伐の和睦で活躍した家老の伊集院忠棟や島津義弘を通じて島津を動かしている。

 豊臣政権と関係の深い豊久は、豊臣家から島津家から独立した別家として扱われていて、島津家中からも親豊臣派の筆頭と見られていることから、領内の経営に専念して家中の問題には関わることを避けていた。

 その豊久と義久を取り持っているのが義弘であり、彼の存在が島津家を一つの家として存続させていて、それ故に豊臣も彼を優遇している。

 秀吉個人としては再度九州征伐を起こす気はなく、今回の南方征伐の様に兵さえ出していれば、多少の事は目を瞑る気であったし豊久を使った島津乗っ取りの意志も持っていない。

 義弘と義久の間で島津宗家の跡継ぎは、先の久保と同じく、男子のいない義久の娘を義弘の子に嫁がせて後継ぎとする案にも特に横槍を入れてもいない。

 西国は息子の領分だと考えて、秀吉自身が余計な火種を作る気はなかったからだった。


 たが東国に関しては自分の領分であると思っていて、息子のためにできるだけのことをしておきたいと考えている。

 秀吉は神妙そうにしている太った男を見て憐れに思う。

 息子が彼を警戒し、全く信用していないことに気がついてもなお、息子の後見人とする自らの考えは捨てていない。

 彼が忠勤に励めばよし、そうでないのならばかつて鎌倉が奥州藤原を討ったように、豊臣に反抗する者の末路を見せる役割を与えれば良いと思っている。

 秀吉は息子の後見にと考えているだけに、彼の才覚を疑っていない。

 であれば、反抗的なものをまとめ上げ彼なりの勝算を作り上げて戦を挑んで来るであろう、それもできなければ小牧長久手のように立ち枯れるだけだ。

 ただその彼が抱く勝算は戦に勝てるというだけで、戦争に勝てるものではないであろう。

 かつて毛利がしたような戦を豊臣が選んだ場合、豊臣は五年でも十年でも戦を続けることができるが、徳川は一年とて戦えまい。

 徳川の兵は強かろう、だが戦で負けたとて豊臣は揺るぎもしない。

 餅とわしの領土を合わせるだけで五百万石に迫り、畿内を完全に抑えてるということはそういう事であった。


 餅の首でも取れば話は違うであろうが、必ずや自身は大坂にでも籠もり延々と兵を送り続ける戦を選ぶはずだった。

 豊臣を継いだ息子が、戦に負けることはあっても戦争に負けることは秀吉には想像できなかった。

 どの道動くのはわしが死んでからであろうし、今川治部や総見院様と上の者が死ぬ度に徳川を大きくしてきたことからも今回も同じであろう。

 ならば今までと何も変えずに重用し続け、わしのために働かせておけばよい。

 どの道どちらに転ぼうが、豊臣に取っては大きな損はない。

 忠勤に励めば彼の死後、何かと理由をつけて領土が削られ捨扶持が与えられるであろうし、反乱を起こせば全てを失うだけだからだ。

 死ぬ間際に、餅と捨を頼むとでも言っておくのも面白かろうと思っている。

 そのあと豊家に反逆するのであれば、攻撃材料としてうまく使う事もできるであろう。


 そしてもう一つ彼が息子のためにしたことは、朝廷に対する工作であった。

 今年にでも孫を元服させる予定であったが、そのことは頓挫している。

 お上から偏諱を賜り、それをもって元服を行うという計画は公家衆からの反対もあり許可されることはなかった。

 それでもなお圧力をかけ続けた結果、南蛮征伐が成り征蛮大将軍が帰国した際に、朝廷からの恩賞として彼の子に偏諱を与えるという形を取ってはどうかとの案を引き出すことが出来た。

 朝廷としては、何もなしに豊臣の後継者となる者に偏諱を与えたという前例作りたくはないが、大功をあげた者への恩賞としてであれば南蛮征伐に並ぶような功をあげねば偏諱を拒否することも可能であり、影響は少ないと判断したのであろう。

 孫の元服は遅くなるが、豊臣と餅の権威を大きく高めることができ、秀吉にとっても悪くない話であった。


 さらに朝廷工作の一環として、噂も流している。

 大政所が自分を授かった時に、女性が現れ腹の中に日輪を授ける夢を見た。

 これを日吉神社の加護と考え日吉丸と名付けたが、大政所になりさる公家の者に話したところ、戦で荒れ果てた日の本を見て心を痛めた天照大御神が日の本を治め天子様を助けよと力を授けてくださったに違いないと言われたという内容で、結局のところ日の本を治めるべきは豊臣家で、豊臣家は天子を助ける役割を担っているという物語であった。

 この証拠に、秀吉はこの話を知る前から伊勢への寄進に積極的であったし、住吉にての祈願で加護があったのも天照大御神のお力あってであろうと締められている。

 この物語によって、朝廷への手出しに正当性が得られるわけではないが、餅や官兵衛であればうまく使うであろう。


 また、秀吉は孫の元服を遅らす変わりに、自らの幼子の元服を早めるつもりであった。

 これは自らの子が、弟を大大名として遇さない可能性を避けるためであり、秀吉の憐憫に近かった。

 彼が信頼していた蒲生氏郷は死の床についていると聞いている。

 奴が死ねば東国の押さえとするものも改めて考えねばなるまい。

 秀吉の東国国替えは刻一刻と近づいていた。

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