第百十九話 日本の変化

 1590年代も中頃になってくるとこれまでの日本からの変化も大きく目立つようになって、これまでの日本とは違う姿を見せ始めていた。


 最も変化が大きいのが食文化であり、琉球や高砂で作られた砂糖が徐々に日本に入ってきて、徐々に値も下がり始めている。

 これは南方開発でさらに砂糖の耕作地が増えていっていることから、引き続き値が下がって行くことが予想されていたが、それでも現時点では未だ高級品であった。

 南方の砂糖は豊臣家が流通を握っていて、これまでその大多数が畿内に入っていたが、その価値を利用して朝鮮との戦の恩賞として大量に配られた事で、恩賞を受け取った西国のものが換金して、博多や長崎といった北九州の都市や、毛利や福島、宇喜多といった者たちの手を経て中国や四国でも出回る切っ掛けとなった。


 その結果、長崎では南蛮の菓子類の製法を知るものが残っていたこともあり、今までよりも容易に砂糖が入手できるようになったことで南蛮菓子作りが始まっている。

 既に姫路では、ポルトガルやスペインの者が九州征伐の際に連れてこられたことから多く残っていて、畿内という大きな市場と富裕層を中心に茶道の文化が広まっていることから、砂糖以外にも卵や小麦粉といった当時としては高級な材料を使うことも許容されやすく、主に上流階級を顧客として南蛮菓子が広まりつつあった。

 当然、従来から日の本にあった菓子にも砂糖は加えられて、甘味は瞬く間に日の本を席巻することになる。


 さらに食肉文化も再び興り始めていた。

 鶏卵は無精卵であれば殺生に当たらないと、南蛮菓子の流行によって多くの門派が口にし始めていたし、琉球の占領と交易から豚を使った料理が入ってきて、交易の中心となっている神戸や大坂では店も立ち始め、明との交易が増えつつある博多でも同じ情景が広がりつつあった。

 さらに高砂開拓や呂宋開拓を行っている者たちにとっては、食べられるのであれば選り好みなど出来ない事も多く、高砂では交易によって明の料理が伝えられ、彼らをもてなすために作られたものが日本人の口に入り、呂宋ではスペインや明の影響から肉を食べることへのが既に広まっており、それを口にする機会も多かった。


 南方から後継者であった久保を病で失ったことで早期に日の本に戻った一部の島津家臣団は、南方で食べた味が忘れられずに国内にいた黒豚や鶏の飼育を大々的に推奨して、薩摩や日向といった領地で養豚と養鶏が盛んに行われるようになり、流行を生み出す下地も整えられつつある。

 長年続いていた肉食を避ける風習がすぐに変わるわけはなかったが、徐々に日本人の中にも堂々と食べる者が増え始め、五摂家の一つである一条家の当主であり関白にもなったことのある内記が、豚肉の味にはまって豚一様などと揶揄される様になった事も、お公家様までもがといった思いを抱かせてその後押しとなっていた。

 ただし牛馬に関しては、農耕に使用することから食用とするのは広まらず、秀吉が牛馬を食用としての利用を好んでいないというのもそれが広まらない要因となっていた。

 しかし、乳牛としての利用は播磨で始められていて、早くから農耕と皮革に利用するために牛の育成を行っていたことから、徐々に数を増やしている。


 また薩摩で農学校により育てられていた唐芋は、期待した通り稲作に向かない痩せた土地でも収穫が見込めることがわかり、薩摩での成果をもとに、唐芋を薩摩芋として農学校の者たちの手で広められていった。

 先の朝鮮との戦で米作りに向かず戦となれば多くの食料の輸送を必要としていたはずの対馬が、薩摩芋の栽培を始めていたことで兵糧の輸送が少くて済み、さらには兵糧を送らずとも維持できる兵が増加したという成果も上げている。

 それを知った秀吉から「並ぶ者のない大軍功である」と農学校が激賞されたことが目に見える最も大きな成果かもしれない。

 褒美として農学校に秀吉から金が与えられたが、それ以上に大きかったのは、秀吉の言葉によって懐疑的に見られることがなくなり、各地で大名や役人に歓迎されることとなって、大きく薩摩芋の普及が進むという効果をもたらしたことだった。

 特に、対馬に上陸してその光景を目の当たりにした福島正則などは、農学校に自ら赴いて責任者である妙田に「わしの領地にも農学校のもの送ってくれんか」と頼みに来たし、毛利も家臣を送って同じことを頼みに来ている。

 これに答える形で、薩摩芋は九州から四国・中国へと伝わっていき農学校の者たちも徐々に東に移動して、製法を伝えていった。


 薩摩芋によって農学校は大きく名を挙げたが、薩摩芋の普及以外にも、農学校は農具の普及にも力を入れていて今は石臼の研究と職人の育成を進めていた。

 これは、蝦夷地の開拓に小麦が有用であろうと考えたためで、将来への準備といった側面が強く、その他にも蝦夷地に用意された土地で様々な作物が試されていたが、特徴的であったのは米の栽培を早期に諦めたことであった。

 米が寒さに弱いという根本的な理由もあったが、妙田は牛馬の導入が進み農具が改良されれば、必ず新田開発が進むであろうと予測し、その結果米の価格が下落するであろうと考えていた。

 そうなれば、米を禄として得ている者たちは困窮することになり最悪反乱が起きてしまいかねない。

 米を作らない農民を増やして米の需要を増やすことで、それを防げないかと密かに考え、小麦を蝦夷地開拓の主力とすることを決めたのだった。


 食以外の変化としては、播磨で牛皮を靴として利用することが始められ、これもスペインやポルトガルの知識がもととなって、徐々に生産数を増やしている。

 ただしこれは現状庶民向けではなく、組頭や侍大将といった者に、軍事物資として長靴が支給されているいった状況であり、ほぼすべての購入者は播磨豊臣家であり軍事機密に近い扱いを受けている。

 秀吉も献上品として受け取ってその効果を調べさせた結果、禁止することはしなかった。

 ただ、それには息子にもなにか考えがあるだろうといった部分が大きく、確かに泥道では便利そうではあるなといった程度の評価でしかない。

 

 そして、一番大きな変化とすれば日本人が海の外に目を向けるようになったことかもしれない。

 スペイン、朝鮮と立て続けに他国との戦争が起こり小競り合いではあるが明とも戦があった。

 南方の開発は、未知のものを日本国内に送り届け、親しい者が南方へと向かうということも珍しくない。

 小田原の戦以降、常に世を騒がせるのは海の外のことばかりであった。

 次は蝦夷地開発が行われるというのは今や公然の秘密となっていて、北の果てにはこの様な物があると空想を膨らませた噂が話題となる事も多い。

 気の早い者などは、北の次は東であるとスペインやポルトガルのものからメキシコの様子など聞いて、その地を夢想している。

 豊臣の家には無限に広がる拡張の欲望に対する舵取りも行なうことが求められることになっていくのであった。

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