第百十八話 女学校設立

 1594年も年の瀬となり姫路では新年を迎えるために忙しい日々が続いていた。

 更級の周辺では、カタリナが男子を生んだ後少しの休みを経て奥に戻って仕事に復帰し、奈古も娘を生んで仕事に復帰したかと思えば早速奥の者を鍛え初めて、奥の者たちは奈古のいない日々を懐かしんで、夫に大量の贈り物を送りつけている。

 奈古の夫である素庵は目利きとしても知られていたが、日夜送られてくる何かから作られた粉や南方の生き物を干したものまでは流石に門外漢で、そのような物が日々送られてくる生活が堪えたのか、奈古に「少しは手心を加えてはどうか」と言うのが口癖の様になっているらしい。


 カタリナはカタリナで我が子を毎日のように連れてきては、南方から大量に送られてくる書物と格闘しており、カタリナの子ではなく姫路の奥の子の様に育てられている。

 ただカタリナであっても、南方から次々と送られてくる書物の処理は不可能で、長崎に文を出して伴天連の言葉を解するものを求めたり、多少とはいえ伴天連の者がいる姫路や大坂で手伝いに出来るものを求めることにしたのだった。

 ただ予想外であったのは、カタリナの手伝いを行う為には奥に入る必要があり、そのためには女である必要があることから、南蛮の言葉を解する女性を条件にそれ以外には条件を設けずに募集したところ、何故か武家の娘だけでなく商家の娘や公家の娘までもが殺到して、とてもではないが全てを受け入れることなど不可能な数が集まってしまった。

 当然全てを採用するわけにもいかず、加えて次期天下人やその家族と触れ合う機会があることから奥への採用は厳格である必要があったことから、まずは神戸に作られた建物に集められ、その中で半年から数年という教育期間を経て能力と人格を精査し優秀なもののみが奥に上がることが出来るという方式を取ることにしたのだが、取りあえずは一箇所にまとめることが先で何を学ばせるのかはあまり考えられていなかった。

 当初カタリナとしては南蛮の言葉の知識が十分にあるかのみを調べ、十分な知識のあるものに奥に入る為の必要最低限の作法だけを教えるつもりであったのだが、意外なことにそれに待ったをかけたものがいてしかもそれは義母でもあるあこであった。


 あこは、次に天下人の妻になる更級のことを個人的に好いていて、彼女が将来天下人の奥を取り仕切ることにも全く疑問を抱いていない。

 しかしながら義理の妹である北政所と比べると、政務や奥全体の運営という部分ではどうしても粗が目立ち、自分や母である朝日が更級を支えている部分も未だ多く残っているのも事実であった。

 特に奥の財政については更級は二人に任せっきりであり、人事のことも多くをあこ達に任せ、元が信州で自由奔放に育ったこともあって、格式張った場を苦手にして、どうしても参加が避けられない場合は兄嫁である徳を中心に未だ代理を頼んでいる。

 大名の妻との交流は最近積極的に行なうようになっているし、奥に仕えるものからの評判もよく、元来の性格から人付き合いに関しては問題は起きないとは考えていたが、それ以外の部分ではまだまだ助けが必要だった。


 母である朝日は歳のせいか病気がちとなっていて、順番からいけば更級より自分が先であり、有難くも体は壮健でありまだまだ先のことだとは思ってはいたが、それでも更級を後見するものがいなくなった時のことを表には全く出さないが、常々実の母のよう心配していた。

 それに、その次となるであろう沙弥に対しても一緒に住むうちに孫のように思えて、彼女が奥を仕切る時に彼女を支える者を用意してあげたいとも考えて、その方法を考えてもいた。

 ただそう考えながらもあこはその為の方法を思いつかないまま日々を過ごしていたのだが、カタリナから此度の話を聞いて餅丸が虎哉宗乙坊の所で小姓と共に学びその小姓たちが餅丸の家臣として活躍していることを思い出し、虎哉宗乙が武士として必要な物を学ばせたように、そこで彼女たちを支えるに足る知識や作法を学ばせばよいと思いついたのだった。


 そう思い立てば彼女の行動は早く、北政所や柊そしておまつと言った者たちに意見を求めながら、奥で仕えるために必要なことを次々と加えていった結果、当初最低限の礼儀作法と南蛮の言葉の知識のみ求めていたものが大きく変化して、求められる知識量は膨大なものになっていった。

 さらには息子である木下勝俊の縁を使い、笛や琴といった代々各家に受け継がれている技術の講師として公家の奥方を招き、年数十石与えて伝授させることも成功させていく。

 その内容もあってそこに通った者は、奥に入れなかったとしても彼女たちは引く手あまたで、このことがまた人を集めて、狭き門である豊臣宗家の奥に上がる手段として機能するだけでなく、採用に至らなかった者たちが諸大名の奥にも積極的に採用されることになる。

 図らずとも秀持が考えていた、カタリナが学校を作り外国語教育を行なうというものが実現したのだが、それだけにとどまらず、あこやカタリナが学問に対する固定概念を持っていなかったことから南蛮の学問までも取り入れられ、その内容は非常に先進的なものとなっていた。

 それにも関わらず当初の非難は「おなごに学問なぞ」といったものに終始して、内容への批判はその声にかき消され、内容への批判が聞こえだしてくる頃には、出身者を中心に擁護者も増え、それが奥という権力者に近い立場のものが中心であることから内容への批判は低調なものとなって、先進的な教育内容は変更されないまま続いていくとこになる。


 さらには、北政所などから話を聞いていた秀吉も、数年後に大名の子女を大坂に集めて万が一の際には人質にという非常に政治的な思いつきから、神戸のものを参考に大阪に女学校を作って「大名の奥方になるのであれば、大坂にて奥方として必要なことを学ばせよ」と配下の大名に命じることでさらに女学校の立場は盤石なものとなっていく。

 当然これらが、豊臣に対して批判的なことを学ばせるわけもなく、そこで学んだ者たちは各地に散って、諸大名の奥に豊臣の支持者を生み出していくのであった。

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