第百十二話 豊臣の敗北

 1594年八月初旬秀吉のもとに高砂の一柳直末から届けられた書状は彼を激怒させるに足る内容であった。 

 彼の甥羽柴秀次は、高砂の原住民が支配する地域を豊臣の領土とすべく五千の兵で攻め込み、大軍と鉄砲という見知らぬ武器を恐れ、領地を捨てて逃亡した者たちを追って幾多の捕虜を捕らえ、砦を作って豊臣の旗を打ち立てた。

 さらに、兵のうち二千ほどを付けて、田中吉政や小田天庵ら南方に所領を得る予定の者たちに、高砂南部の加藤清正の所領へと移動することを命じたまではよかった。


 しかし彼は、それだけでは軍功がたりないと感じたのか、家臣の反対を押し切ってさらなる追撃を命じ、密林で原住民の逆襲に遭い、秀吉が讃岐を与えた時に家臣としてつけた渡瀬繁詮と服部一忠を始め、兵千を失う大敗北を喫したと書かれていた。

 さらに秀次は逆襲すべく高砂の大名に援軍を乞い、援軍は秀次の作った砦に入ったが、多くの大名が地の利のない場所に再度の逆襲を行うことに反対し、高砂の大名達は尼子秀久を総大将とするように迫って、大将としての役目を剥奪した上で手に入れた領土の防衛に努めている。

 ただ秀次は今も声高に逆襲を叫んでいて、意見が分裂するのを避けるために殿下の判断を仰ぎたいと書かれている。


 秀吉はその書状を読み終えるなり投げ捨てて「万丸のくそたわけを即刻呼び戻せ、わし自ら素っ首刎ねてくれる」と怒りをあらわにした。

 筑前から上方に舞い戻り、大坂の城で朝鮮との戦の戦勝を祝う宴が催されている中での突然の秀吉の急変に場が凍りつき、代わりに政務を任されていたことから大坂で秀吉を迎えた前田利家が「何じゃ突然に、讃岐宰相がどうしたんじゃ」と他の大名がいることも忘れて二人でいる時の様に聞いてしまった程だった。

「高砂の土民に負けよったわ。とんだ豊家の恥さらしよ。それに服部小平太まで殺しよった、桶狭間の勇士が土民の槍に倒れるなど死んでも死にきれまい。これほどのたわけであったとは」

 さらに秀吉の言葉は熱を帯びて「そのまま、きゃつめも土民の槍にかかって討ち取られておればよかったのじゃ。おめおめと生き長らえおって恥を知らぬのか」とまで口にした。


 戦に負けたとはいえ流石に諸大名の前で、これ以上の言葉を聞かせるのはまずいと、北政所自ら「お前様、少しは落ち着きなされ勝敗は兵家の常と申すではありませんか」と言って「おなごに戦の何がわかる」の言葉を引き出し「ええ分かりませぬ。されどお前様の言葉にて万丸が戦に負け、小平太殿が討ち取られたと知っただけにございまする。それ以外のこと分からずに万丸のみが悪しざまに言われるは納得できません」と諸大名の前で庇う姿勢を見せた。

 これによって、諸大名は軽々しく秀次の悪評を口に出すことは控えざる得なくなり、秀吉の「おなごが口を挟むでないわ」という言葉にも一歩も引かずに、終いには二人の夫婦喧嘩の様相となったのを見て、前田利家が頃合いと判断して「二人とも皆の前じゃ、この辺りでよかろう。讃岐宰相の事は詳しい話がわかってからすれば良いではないか。取り敢えず宰相は日の本に戻し、土地は誰かに任せるでええか」と落ち着いた声で諭すことで場を収めようという動きを見せた。

 これには秀吉もしたかなく「わかったわ、取り敢えず戦は尼子の預かりとして、守備に努めよと伝えよ。万丸は日の本に呼び戻し、処分は話を聞いてからとする。これでよかろうがねねよ」と不満気な顔をして引き下がった。


 そして改めて「朝鮮との戦、皆ご苦労であった。帝も皆の働きに満足しているであろう。追って恩賞の沙汰があろう期待しておるがよい」と締めた。

 とはいえ恩賞は、最大の功労者である筑前豊臣家には、父の後を継ぎ権大納言の官位を与えることで、権大納言を世襲する家とすることで恩賞としようと考えているし、宇喜多家にも権中納言を与えて豊臣政権内の立場を高めることで恩賞とする予定であるから大きな出費は避けられるはずであった。

 毛利も小早川秀包が南方で与えられた恩賞を理由に、これ以上は過分と恩賞の辞退を申し出ていることも秀吉にとってはありがたかった。

 戦に大きな役割を果たした三家がこの様な状況であるから、恩賞はかなり抑えられる予定となっており加増の予定はそう多くない。


 そしてこの戦の結果豊臣政権内の立場が、ある程度定まることとなる。

 権大納言の世襲を秀吉に許された筑前豊臣家を筆頭に権大納言の徳川家と前田家が続き、その後に権中納言の毛利家と宇喜多家が続くといった格好で、隠居した格好となっている小早川隆景は相談役といった立場に収まって、秀吉が休養中に政権を任せたものとほぼ同じものとなった。

 ただ最も影響力を及ぼせるはずの筑前豊臣家は、明や朝鮮への警戒から国許を離れる訳にいかず、中央とは一定の距離を保ちつつも、政権運営という点では中央に影響力を及ぼす事はできずに、他の家の後塵を拝することとなる。


 朝鮮との戦の後も秀吉に「肥前では、政務を任されております鍋島氏と龍造寺氏の対立が噂されており、いざ明寇の際に団結ができぬとあれば天下の一大事となりましょう。どちらかに南方に領を与えて不和を収めていただきたく」と願った以外は政治に関わろうとせず、家臣にも「我らは太閤殿下より、日の本を外からの敵から守るのが豊臣家の役割であるとこの地を任された。それを忘れるでないぞ」と何度もいい聞かせて、積極的に政治に関わることを戒めてさえいた。


 そして、秀持が秀吉を支えてくれる事を期待した秀次は、絶望の中日本への帰国の途についている。

 秀持にとっての大きな誤算は続いていた。

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