第百十話 日朝の和議
1594年も六月になると日の本と朝鮮の戦いは、山場を超えて後は和議を残すだけという雰囲気になっていた。
この様な結果となったのは、緒戦で朝鮮側が大敗北を喫して作戦目的である済州島の制圧が不可能になったことが余りにも大きかったが、先日起きた麗水沖の合戦で生き残っていた朝鮮水軍が日本の水軍に損害を与えるべく突入し大きな損害を与えることができないまま朝鮮水軍が完全に壊滅してしまった事で、日本の侵攻を防ぐ術を完全に失ってしまったことも大きかった。
李舜臣率いる朝鮮水軍は、麗水を破壊すべく陸兵が上陸するのを待って身動きが取れないであろう日本の水軍に突撃したが、残存水軍の攻撃を予測していた九鬼嘉隆は上陸を行わずに襲撃を警戒しており、突然の攻撃に混乱する艦隊を尻目に朝鮮水軍と戦闘に入って日本の船を守り、損害を出しながらも突撃を防ぎきったのだった。
その結果、日本の敵意を一身に受けることになった麗水は破壊され、対岸の順天までも灰燼に帰したが、それ以上に大きかったのは、この作戦によって朝鮮水軍は完全に疲弊し、後日全羅道右水営に攻撃が行われた時には抵抗する力も失われ、何とか北方に退却する以外の事ができなくなっていたという点で、これを聞いた秀吉が「さすがは九鬼水軍。日の本一の水軍よ」と功を称えたのも致し方ないことだった。
そして戦果を拡大すべく忠清道水営のある保寧、江原道の港町である広陵、さらには旧都である開城への攻撃も指示し、和平が締結されるまで秀吉は攻撃の手を緩める気はないようであった。
朝鮮王は敗将として李舜臣を解任し、彼を推薦し戦争計画の立案にも参加していた柳成龍も解任したことで現場にはさらなる混乱が広がり、補給の絶たれた兵たちが賊として民に槍を向けるという状況すら生まれていた。
そんな中、秀吉は朝鮮と和平を結ぶべく明に使者を送っている。
和議の条件は、明と朝鮮が済州島を日本の領土と認め、この戦で日本が獲得した人や物品の所有権を朝鮮が放棄することを求めていた。
さらに八月一日を以て和議が結ばれたことにするといった文言で交渉というよりも、明に日本の方針を表明するという側面が強かった。
外交官として、豊臣家より西笑承兌が派遣され、毛利家から安国寺恵瓊、そして筑前豊臣から南浦文之が派遣されている。
南浦文之は他の二名より名声では劣ってはいたが、齢四十と若く、日向国出身で京に上り学問を学んでいた所、明や朝鮮との外交を任されることになった筑前豊臣家が学識の深いものを探した結果、小一郎に見出され筑前豊臣家の対外交渉を一手に任されることとなった英才であった。
彼らの明での交渉はひどくあっけないもので、日本の要求は直ぐに明国に認められた。
やはり、予想したように日本と朝鮮の戦など迷惑千万と考えていたようで、朝鮮の本土の割譲を求めたのであれば、明の立場からしても口を挟まざる得ないが、和平の条件も明からみてなんら文句をいう必要のないもので、早く戦を終わらすことができるのなら飛びつくのも道理だった。
そして逆に朝鮮の使者に対しては余りに冷淡な反応を見せ、祖国を救うべく涙ながらに援軍を求めに来た朝鮮の使者に、日本の要求そのままの勅書を渡すという朝鮮からすれば余りにも悲惨な光景が繰り広げられたらしい。
さらには「朝鮮王には、和議に大明の手を煩わせたことを恥として、大明国が定めた和議に従うように」とまで言われた後、叩頭を求められ祖国に帰っていく姿がそこにはあったと聞き、敵であったとはいえその扱いに大名たちは心を痛めたものだった。
とはいえこれで朝鮮との和議はなり、朝鮮によって引き起こられた戦争は終わりを迎えることとなる。
日本から送られた使者たちは、鉄砲を盛んに求められ冊封を受けるようにと何度も勧められたが、今回は朝鮮との和議を行うために参ったので、また別の機会にとはぐらしつつ、和議の謝礼として金を送ると逃げるように帰国の途についた。
和議を伝え聞いた秀吉はただ一言「そうか」と言って息を吐き、力を込めて「皆のもの苦労であった。八月には戦は終わりじゃ、だがそれまでは気を抜くでない。後僅かではあるが和議までの間に、この様なことが二度とおこらぬよう少しでも彼奴らの力を衰えさせなければならん」と再度の号令をかけた。
そして和議成立までの期間、少しでも利を得るために大名たちが競うように朝鮮の沿岸の街を襲い、多くの街が灰燼に帰すこととなる。
この戦で多くの朝鮮人の職人と家族が日本に連れ去られ、特に陶工の知識は各地で花開き、鍋島家が連れてきた陶工が有田で、毛利は萩で、脇坂が連れてきた陶工は伊万里の地や長崎の豊臣直轄地に渡り波佐見の地など各地で発展することになって、今後日本の貿易を支える力となっていく。
また唐津や備前など以前から生産していた地域においても大きな発展の助けとなり、規模を拡大する結果をもたらした。
さらに多く連れ去られた船大工たちも、その経験を活かして各地の日本の造船所で働くこととなり、造船所の生産力の向上に寄与していくことになる。
その他の職人たちも各地に散らばり、あるものは刀を打ち、あるものは機を織り、またある者は鉄砲作りを学びと多くの職人が増えたことで、日本の工業力が上昇する結果を招き、日本全体としても力をつける結果となったのも事実だった。
日本側の被害は五千にも満たず、その代わりに降伏した兵を含め最終的に朝鮮から海を渡ったものは五万にも迫り、一方的な戦勝であったことは間違いない。
だが望まない戦であったことは事実で、技術や知識を持たない職人や学者、僧といった者たち以外の処遇など考えられておらず、結果築城や鉱夫、未開発地の開墾など過酷な仕事に振り分けられることなり、多くの命が失われたことも事実として残っている。
また略奪されたのは人だけでなく、古い書物や美術品そして金銀も多く略奪されたが、その多くが恩賞としてばら撒かれて豊臣政権としては大きな出費が残っただけであった。
それでも元寇のときのように満足に恩賞が払えず、大きな不満を残す結果にはならなかったことは不幸中の幸いといえた。
秀吉はまた大きく息を吐き「やれるだけはやったわ餅よ。小一郎もこれでよかろうが」と呟きそして遠くに視線を向けた。
だが一仕事を終えたと思った秀吉を、激怒させる知らせがすぐにやってくるのだった。
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