第百六話 秀吉の休息

 1594年の一月に弟の小一郎を亡くし、その葬儀に出た後も秀吉は政務を信頼する大名と奉行に任せ、上方に戻ろうとはしなかった。

 葬儀の後は、小一郎を失い床に伏せていたが、

葬儀には何とか出ていた柊に、体を癒やすために湯治を勧め「しばらくは夫の菩提を弔いたく思います」と断られはしたが、秀吉は自分もそうであったと思ったのか、一人そのまま別府へ向かってしばらく何もせず過ごした後、姫路に向かった。

 この間、朝廷に関白辞任の使者を送り、朝廷では遂に関白の世襲に豊臣政権が動き出したのかと警戒したが、そういった動きは何もなく、真意を問うべき秀吉も上方におらぬとあって身動きが取れずにいた。


 二月に入り何も知らされず突然に秀吉の訪問を受けた姫路では、多少の驚きこそあったが北政所から葬儀のときに来訪があるかもと言われていた事もあってすぐに受け入れられ、孫たちは祖父の来訪を単純に喜んだ。

 ただ、更級には何かを急いでいるように見えて、それが不安に思えてならなかった。


 秀吉が姫路に入ると沙弥を一目見るなり気に入って「沙弥は豊家の宝珠じゃ」と可愛がっては、それを不思議がる沙弥に「そちのじいじゃ、おもうのおもうじゃ」と説明して「おたあさまのおもうさま?」と今上帝の父は既に他界していると聞かされていたせいか質問されている。

 秀吉も沙弥の生母である近衛前子を養子としていることもあり、それでも間違いではないと「そうじゃおたあのおもうじゃ」答えたが、どうも更級の実父と思われたようで、安房守すまぬと心の中で謝罪しながらも今はそれでも良かろうと特に訂正することもしなかった。。

 沙弥も次第に秀吉に敵意がないのが分かってくると、秀吉は一日中沙弥の相手を付き合わされることになり、それでも更級が現れると離れていく沙弥に「わしにも、敵わんものがおるわ」と上機嫌に過ごし、それだけでなく孫たちとも以前と変わらず接して、姫路では瞬く間に秀吉がいる事が日常となっていた。


 時には宮部継潤と昔を語り、中国攻めでの小一郎の思い出に涙をし、またある日には護衛を伴って町に出たと思えば山程土産を買い漁り、城に戻ってくるなりあこ様に「ねね様に怒られても知りませんよ」と言われて気落ちしたかと思うと「ですが岐阜の頃は京の土産が待ち遠しかったのを思い出しました」の言葉に「そうであろう」と息を吹き返し「殿下が戻ってきたではなく、土産がやって来たでございました」との言葉に「たわけが」と言って楽しそうに話す姿がみられた。


 そんな日々を秀吉は過ごしていたが、ある日突然更級に瑞雲丸の元服を勧めだし、更級を驚かせることになる。

「元服でございますか?」の更級の言葉に「そうじゃ元服じゃ」と言った秀吉は真剣であった。

「もうすぐ歳も十となる。嫁ももらい武家のものであれば元服をするのも珍しくなかろう」

 更級はどこか納得いった気がしていた。

 弟を失い、その心の穴を埋めるために、かつて大政所様を失った時のように姫路にやって来たと考えてはいたが、姫路に来た時に感じたものはこれであったのかと思えてならなかった。

 確かにかつてのように、政務から離れて休息を取る目的もあったのだろうが、弟を失って次は自分ではと考えた時に、少しでも準備をしておきたかったのだろう。


「確かに殿下の仰るとおりではございますが、夫と相談しなければ頷くことはできかねます」

 これが更級にできる精一杯の返事であったが、それを聞いても秀吉の言葉は熱を帯びるだけであった。

「それは分かるわ、餅が頷かねばならぬし、勝手に進めるわけにはいかん。じゃがな御台からも元服を薦めてくれんかや。又佐にやって筑前はやれんが餅の跡取りを示すために大宰大監とすればよかろう、餅が戻ってくれば関白とするゆえ、内府にすればよい。名は帝より偏諱を賜って秀和として元服させようと思っとる」

 帝からの偏諱などというだいそれた言葉と、その様なことまで計画しているのかという思いで、更級は秀吉の本気を感じ、これは止まらない事であると覚悟を決めた。

 何より、消沈していた秀吉が目的を見つけ、もとに戻る切っ掛けとなるのであれば夫も頷くだろうと思えたのが理由でもあった。


「分かりました。私からも夫に元服を薦めてみます。されど南方のこと、便りが返ってくるまで日を要しましょう。それを待てば十も間近でございますから、十になってからとして頂きたく思いまする」

 秀吉は更級が味方となったと満足気で「おお。確かにの文を待てばそうもなろう、ならばしばし待ってもよかろう」と頷く。

 だが話はそれで終わらず既に事がなったと上機嫌になっていた秀吉に、更科から意外な言葉がかけられた。


「それはそうと殿下、森の家に女児が生まれたと聞き及びました。勝蔵様は夫が兄と慕い。また私が夫婦の婚儀を取り持った縁もございます。日寿と縁を結べば森との関係は更に深くなり、柊様もお喜びになりましょう。おなごの思いつきではございますがいかがでございましょうか?」

 この問いに、秀吉は言葉を窮して「悪くはなかろうが、お互い赤子のようなものじゃ、急がずともよかろう」というのが精一杯だった。

 秀吉個人としては徳川との縁組を希望しているが、それを度外視してみると全く悪い縁組でなく、断る理由も見当たらないのが厄介だった。

 このまま南方にこの話が伝われば、餅と勝蔵ですぐに話が纏まり、秀吉の思惑は立ち消えとなってしまう。


「そうですね。まずは南方に相談してみます。それからでも遅くありませんね」と更級は笑顔だった。

 この言葉に、秀吉は南方への知らせを止めるべく、必死に言葉を探した。

「御台よ待たんか、そのような年でもあるまい。公方に相談するのはお互いがもう少し大きくなってからでもよかろう」

 秀吉は必死に止めようとするが、それで止まるような嫁では更級はなかった。

 聞き分けが良く、今回も秀吉の話にも納得はしてくれるが、だからといって秀吉の思う通りには決してならずに、いつの間にか更級の思い通りになってしまう。

「確かにそうですね。先に北政所さまやあこ様にも相談してみます。お二方とも柊様のこと心配なされているでしょうしその方がいいですね」

 秀吉はそういう事では無いのだがと叫びたくなるが、そうもいかずに途方に暮れるしかなかった。


 何度もこの様な経験をしている息子と同じ経験をする羽目となって、このままだと自分の計画が崩れるだろうことを悟った。

 何より全く悪い話でなく、秀吉ですらそれでもよいかと思ってしまう所が厄介で、強硬に反対する気にもなれない。

「おお、急ぐことでもあるまい。ゆるりと考えるのがよかろう」

「はい殿下」

 そう更級が言ったので少しの余裕はあるはずだと秀吉は思い直して少し安堵したが、こういう時の更級の行動力の凄まじさを秀吉は全く知らなかった。

 僅かな後、それを秀吉は身を持って体験することになる。


 そして更級と秀吉が会話してから数日後、僅かな秀吉の休息も突然終わりを告げることになる。

 秀吉のもとに上方から火急の使者が来て朝鮮の動きが伝わり、その対応をすべく上洛を余儀なくされたのだった。

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