第百四話 小一郎の死
呂宋の地で進軍が開始された1594年一月十一日、日の本の筑前の地では前大納言豊臣秀長の命が尽きようとしていた。
師走の頃には典医からいつ亡くなってもおかしくないとは言われていたが、ここ数日は更に悪化して、ただその時を持つといった状況であった。
政務は家老である横浜一庵と羽田正親が当主である持長に変わって取り仕切り、持長も妻の摩阿と共に枕元に控えている。
摩阿姫は昨年末生まれた次男竹丸の顔を何とか一目でも見せることができればと思っていたが、子が生まれたのと義父が目覚めることも叶わなくなったのが重なり果たせずにいた。
持長もどうも朝鮮の動きが怪しくなっていることで、父に助言をもらいたいと感じていたし、いつものように「好きにすればええ」と一言だけでも言ってくれれば、どれほど心強いかと思っていた。
今、小一郎を囲むように見守っているものは、大なり小なり同じ思いで小一郎に未だ何かを求め、このように小一郎が旅立つ直前になってすら小一郎を失いたくないと思う者ばかりだった。
小一郎の最も近くにいる柊は、北政所に手を握られて小一郎を見つめ続けている。
このような状況になっていても、秀吉は筑前に来ていない。
ただ柊は秀吉を薄情であると恨むことは一切なく、自分は小一郎を失うことが怖くて小一郎の側に居続け、殿下は失うのが怖くて側にいることができないだけだと考えていた。
北政所ねねが夫に対して思う事も似たようなものであった。
ただ死を知ればすぐに駆けつけて、飽きることなく泣き喚くのであろうから、それならば自分や柊とここで共に涙すればよいのにとは思っている。
しばらくすると医師たちが何やら色めき立ち忙しく駆け回る。
後から思い返せば自分には分からなかったが、柊には分かったようで、一瞬彼女の力が抜けた様に感じられたものだった。
典医から小一郎の死を告げられると、柊は小一郎に覆いかぶさるようにして、声もなく泣いていた。
息子や娘も涙を流し、その様子にやっと小一郎の死を実感して涙が流れた。
それほどに安らかで、殆どのものが分からぬ程に、何も変わらない様子で逝ったのだった。
そして、その知らせは瞬く間に日本中に届けられたのだった。
*
聚楽第で関白豊臣秀吉はあまり代わり映えのしない日々を送っていた。
日の本ではここ数年戦らしい戦もなく、日の本の誰もが経験したことのない泰平の世を味わっている。
南方の戦も殆どの者にとって、商売や飯の種といった所で、戦をしていても田畑が荒らされる心配もなければ略奪に怯える心配もなく、ただひたすら仕事に専念することができるという今まで想像できなかった世が広がっていた。
戦場に兵を送っている西国では、夫や子の帰りを待つものが多くいてまた趣も違ったが、今までのように戦であると言って、米を取り上げに来るといった風景は見られない。
全国から集められた膨大な米から、必要な食糧は南方に送られ、武器や弾薬も同じく豊臣の家から送られ続けている。
出陣しているからには、大名家の負担も当然あったが、それでも従来の戦よりも負担は小さくなっていて、直接民の暮らしに影響する程のものではなかった。
その代わりに、大量の戦費を負担しているのが豊臣家であり、息子が持つ播磨領と併せて四百万石を有に超える領土と、全国の直轄している港や鉱山からの収入の多くが戦費と新たな領土の開発に使われている。
それを管理する石田三成と長束正家の権限は日に日に強くなっており、それを苦々しく思うものもいたが、代わりができるものが見当たらないのも事実だった。
秀吉の役目としては、その監督や権威付けが主になっていて、毎日送られてくる数字の羅列の説明を聞き、承認する日々が続いている。
そんな秀吉に小一郎の死が伝わったのは僅か二日後で、使者からの知らせを聞いて秀吉は卒倒し、意識を取り戻すと筑前への下向の用意を浅野長政に命じて、共に筑前へと向かった。
秀吉が、筑前についたのは小一郎の死から七日が経っての事であったが、その体は秀吉に最期の別れをさせてやりたいとの北政所の希望で、眠りについた部屋で白装束に包まれて安置されていた。
柊は、小一郎が亡くなった後、今までの無理が祟り床に伏せていたから、その回復を待つ意味でも反対は出なかった。
亡骸となった小一郎を見て、秀吉は膝から崩れ、初めは聞き取れないか細い声で、そして次第に大きくなり終いには持ち前の大声で、何度も小一郎の名を呼ぶが、返事は返ってこない。
それを見て「殿下」と浅野長政が何度か声を掛けるが秀吉からの反応はなく、意を決して「殿下」と大きな声で再度呼びかけると、冷たい目をした秀吉に「甲斐侍従、少し黙ってくれや」と返されて「弟との別れなんじゃ、出ていってはくれんか」と言葉が続けられた。
長政は何か言おうとしたが「お前様」と北政所が部屋に入って来たことで言葉を発する機会を逸して、助けを求めるように義理の姉をみたが、静かに首を横に振られて部屋から立ち去ることしかできなくなった。
長政が立ち去ると「安らかな最期でございました」と北政所から伝えられ「ほうか」と秀吉は答える。
秀吉は彼女が予想したように泣き喚くことはなく、傍目には冷静に受け止めているように見えてさえいた。
北政所には、泣き喚くことすらできずにいる夫が、眼の前の事を受け止められず途方に暮れているようにしか見えず、どのように声をかければよいのかと思案する。
「涙を流すことすらできんほど堪えとるようだわ」
先に口を開いたのは秀吉で、続けたのも秀吉だった。
「餅には悪いが少し休むわ。関白も返そうと思う」
北政所は静かに「そうでございますか」と言った後「又左衛門様にはまた苦労をかけますね」と努めて明るく言ってから「私も葬儀が終われば上方に戻りますゆえ、何も心配せずごゆるりと過ごされませ」と夫に伝えた。
「加賀と江戸の大納言に安芸中納言、それに又四郎殿と八郎を上洛させて万事任せればよかろう」
自分がいない間は、前田、徳川、毛利、小早川、宇喜多の合議制で政務を行うように指示する。
それに「分かりました」と静かに答え、次の言葉を待っていると、小一郎の枕元に座る夫が震えているように見えた。
後ろからそっと抱きしめると、やめよとは言わずに受け入れて「小一郎は先にいってしもうたわ。兄より先に行くことはなかろうが……のうねねよ、わしはもう先にいかれるのは十分じゃ。おみゃあは先にいかんでくれや」と零す。
もう一度「分かりました」と静かに答えた後「たのむわ」と返ってきた後は、ふたりとも言葉を交わすことはなかった。
秀吉は小一郎の手を握って小さく嗚咽を漏らし、ねねはただそんな夫をただ優しく抱きしめ続けるだけであった。
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